手羽先の誘い前編 「けったでこりん!」
「んぎゃああぁ! ちょっ、陸奥、陸奥っ! 痛い痛……ぐあぁ!」
とどめとばかりに背中にのしかかられ、オレは自分の口から魂が「こんにちは」するのを見た。
放課後のレッスン室でのことだ。
ここゲキ高は演劇高校なので、普通科の授業プラス、当然演劇に関する授業がある。
ことこの俳優科では実技科目が多い。
演技指導をはじめ、ダンスやボイストレーニングなど、様々なプログラムがこれでもかと詰め込まれているんだ。
それでも足りない生徒のために、早朝と放課後、一部のレッスン室や多目的ホールが自主練習の場として解放されている。
全国から選抜された推薦組でもなく、演劇強豪校出身でもないオレ達五人は、他に遅れまいと放課後の自主練習を始めた……んだけど。
床に座り、開脚したまま前屈するオレの背を押しながら、秋田出身の色白美少年・陸奥は、苦々しげに吐き捨てる。
「鮎川、やる気あるの? なにその足、九〇度しか開いてない」
「うぅ……コレが限界っ……」
「弱気なこと言ってんじゃないよ。ほら、膝が曲がってる!」
更に体重をかけてくる陸奥に、もう返事すらできない。
死ぬ、股裂ける! 息止まるっ!
彼らとつるむようになって早一週間。お互いのことが少しずつ分かってきた。
陸奥は美少女のような見た目に反し、言葉にトゲも毒もあるけど、こうしてなにかと世話を焼いてくれる。案外面倒見がいいらしい。
隣では、オレと同じ体勢で優に一五〇度は開脚している伊達が、陸奥のスパルタっぷりに目を眇める。
「陸奥……あまり無理をさせると、筋を傷めるぞ……」
そんな伊達の黒いTシャツには、達筆な筆文字で大きく『奥州筆頭』の文字が踊る。確かに伊達は、奥州の雄・伊達政宗公のお膝元だった仙台市出身だけど……
ちなみに昨日は、背中に大きく『米騒動』と印字されたシャツだった。
その前は『留守居役居留守中』……文字Tシャツのコレクターであるらしい。寡黙な伊達の意外な趣味に、何度吹きだしかけたか知れない。
ちなみに伊達の本名は千葉だ。
この紛らわしい名前がきっかけで、それぞれ出身地にちなんだあだ名がつくことになった。
宮城県仙台市出身の千葉は「伊達」。
秋田県秋田市出身の藤原は「陸奥」。
愛知県豊川市出身の工藤は「三河」。
今外へジョギングに出ている、神奈川県北西部出身の小島は「相模」。
同じく神奈川県横浜市出身のオレはというと、まだ本名「鮎川」のまま。この平凡さに合うそれらしいワードが見つからないからだ。
「伊達は黙ってて。見なよホラ、鮎川の身体の硬さ異常だよ。今まで柔軟体操とかやってこなかったの? こんなんじゃ、いつまでもダンスやる度に悪目立ちするばっかりだよ」
陸奥の厳しい言葉にぐうの音も出ない。
ダンスの授業の始めには、必ず全員でストレッチをする。
ダンスでも演技でも、良くも悪くもパッとしないオレが、唯一注目を集めてしまう時間だ。あまりに身体が硬すぎて、講師から名指しで叱咤されてしまうからだ。
「ストレッチなら毎朝登校する前にやってるけど、そうそう柔らかくならないよ」
やっと陸奥の重みから解放されて、痛む太腿をさすりつつ零した。すると、今まで黙々と身体をほぐしていた三河が目の前に座り込む。
「身体を柔らかくしたいなら、お風呂あがりがオススメだよ~。ぼくも小さい頃は身体硬かったけど……ホラ」
三河は一八〇度開脚して見せてから、両手で上体を支え、そのまま足を楽々と後ろまで回してしまった。
「うわっ! なんだよそれ、三河柔らかすぎだろ!」
「へへ~、ぼく小学校入った時からずっと、クラシックバレエ習ってて~」
エヘンと胸を張る三河。バレエと聞いて、思わず白タイツ姿を想像する。
男の白タイツ姿……バレエ……あぁだめだっ! オレの貧相な想像力じゃ、股に白鳥の首生やした、コントで見るようなイメージしか出てこないっ。
「あ、鮎川君なにその顔~! 男がバレエなんてって思ったでしょ?」
「え、いや、思ってないない! 三河の白タイツ姿をちょっと想像しただけで」
つい顔に出ていたらしい。慌てて否定してから、あんまりフォローになってないと気付いた。
三河は子供のようにほっぺたを膨らませて立ち上がる。
「見てろよ~っ!」
三河は顔を引き締め背筋を伸ばすと、その場でくるくるとターンを始めた。
頭の先から爪先まで、まるで一本の鉄芯が入っているかのように軸がブレない。それでいて、足捌きや手の動きはなめらかだ。
回りながら横へ移動したかと思うと、ふわりと飛んだ。空中で足が床と平行になるほど開かれ、軽やかに着地する。着地の音はほとんどしなかった。
三河が優美な仕草で一礼すると、自然と手を叩いていた。
「スゴいな三河! オレ、バレエとかあんま詳しくないけど見入っちゃったよ!」
陸奥と伊達も惜しみない拍手を送りながら、
「……驚いた。ダンスの授業中、巧いなと思っていたが、通りで……」
「うん、綺麗なターンだった。普段ののほほんとした三河とは別人みたいだったよ!」
それぞれ感心しきった声をかけると、三河はエヘンと胸を張る。
「へへ~っ! 実は、今日もこの後レッスンなんだ。地元で習ってた先生が、横浜のいい先生を紹介してくれたんだよ~」
普段から元気いっぱいな三河の瞳が、ますますキラキラ輝いている。よほど打ち込んでいるんだろう。
それなのにニヤけるなんて、不謹慎だったな……
謝るタイミングを窺っていると、ジョギングに出ていた相模が戻ってきた。
「おー、なんの話? 盛り上がってんな」
「三河、子供の頃からクラシックバレエ習ってるんだってさ。今ちょっと踊ってくれたんだけど、凄くサマになってたよ」
陸奥の説明に、伊達と二人でうんうん頷く。三河は照れたように笑って時計に目をやると、いけないと飛び上がった。
「もうこんな時間? マズいマズい、ぼくそろそろ出ないと!」
言うが早いか、手早く荷物をまとめだす。
「ん? 三河どうしたって?」
「これからバレエのレッスンだって」
「っか~、これから? 昼間だってダンスやら筋トレやらやったってのに……エラいこったなぁ」
「ホントに」
相模と感心していると、バタバタとドアに向かっていた三河がくるりと振り返る。
「そうだ、みんな手羽先好き?」
手羽先といえば名古屋名物のアレか。
四人で頷くのを見て、三河はホッと息をつく。
「よかったぁ。実は、実家から大量に手羽先が届いたんだけど、一人じゃ食べきれそうもなくて~」
レッスンが八時に終わるので、その後でよければ食べに来ないかとのお誘いだった。
今日は金曜日。
雑魚寝覚悟なら泊まっていけばいいとの至れり尽くせりの提案に、
「おーマジでか! 行く行く、手羽先食う!」
「やりぃ、楽しみ~!」
「……ならせめて、飲み物なんかはこちらで用意しよう」
「いいねぇ、今夜はオール上等だね」
誰がなにを言ったのかは、多分ご想像通りだと思う。
三河はメモを取り出し、学校からアパートまでの地図をささっと書いて陸奥に渡した。
「じゃあ、九時に集合ね~。待ってるから~!」
「おう、レッスン頑張れよ!」
大急ぎでドアの向こうへ飛び出して行く三河。
……が、三秒も経たずに再びドアの隙間から顔をのぞかせる。
「あ、あのね! うちの前を通るバス、夜八時でおしまいなんだよ!」
「あ、そうなんだ。了解」
適当に行くよと片手を上げ応じると、三河は楽しみで待ちきれないといった満面の笑みで言い放つ。
「けったでこりん!」
笑顔が引っ込むと、軽やかな足音が転がるように廊下の彼方へ去っていく。
あんまり嬉しそうな笑顔の余韻に、足音が消えるまで小さく手を振り続ける男四人。
沈黙が落ちる。
オレはそっと相模を見た。相模も横目でオレを見ていた。
なので今度は陸奥を見る。陸奥は伊達を見ていた。
その視線を受けて、伊達がオレを見た。
全員が同じことを考えている。けれど誰も口を開こうとしない。
沈黙が続いた。
しばらくして、ようやく相模が口を開く。
「なぁ……『けったでこりん』って、なんだ?」
誰も答えない。
いや、答えられない。
陸奥が大袈裟に両手を広げる。
「ちょっと、誰も分かんないの? 分かんないなら、なんで引きとめて聞かないのさ」
「陸奥だって止めなかっただろ?」
「皆がごく自然に見送ってるから、分かってるのかと思って」
「オレも」
「俺も」
「……同じく」
再び全員口を閉ざす。
けったでこりん……けったでこりん……
なんだなんだ、このやたら語感のいいフレーズはっ!
「なにが言いたかったんだろ、三河」
「……なにか、三河弁で言ったんだとは思うが……」
あのはしゃぎようじゃ、とっさに慣れた言葉が出たのも無理はない。
逞しい首を捻り捻り、相模がぽんと膝を叩く。
「アイツのことだ、自己流のアイサツなんじゃね? ほら、こりん星から来たアイドルみてぇにさ」
「そんな人様の黒歴史持ち出してやるなよ」
「こりんしか合ってないでしょ」
うーむ。またまた会話が止まる。
「……けったでこりんの『で』は、助詞じゃないか?」
伊達の言葉に、今度は陸奥が膝を打つ。ただし、伊達の膝を思い切り。
「あぁ、きっとそうだね! 『けった』で『こりん』、なんだ! そうなると『けった』と、『こりん』って……?」
叩かれたことに文句も言わず、伊達は膝をさすりながら、「そこまでは……」と眉を寄せる。
「いや待てよ、『けった』を『デコ』るのかもしんねーぞ」
とは相模の談。あんまりな意見に思わずツッコむ。
「なにをデコるんだよ、女子のスマホケースじゃあるまいし」
「いや、アイツ何気にいい服着てんだろ? 小綺麗なカッコしてこいよ、ってことかも」
「んなまさか」
確かに三河の所持品を見ると、さり気なくブランド物があったりするけど、そんな嫌みなヤツじゃない。
陸奥はカバンから携帯を取りだすと、すぐに諦めてしまい込む。
「もうレッスン始まっちゃったかな。はぁ、すぐ電話すればよかったね」
「確かに」
誰の口からと言わず、長いため息が漏れる。
やめやめ、と相模は頭を振り、時計を確認する。
「もうすぐ七時か、施錠の時間だな。お前らどうする? 三河のアパート、こっからそんな遠くねぇんだろ?」
けったでこりん論争で意外と時間を食ってしまった。陸奥は貰った地図に目を落とす。
「集合まで二時間か……汗かいたし、一旦叔父さん家に戻って、シャワー浴びてから行こうかな」
ゲキ高に通うため、一人秋田から出てきた陸奥は、この近くの叔父さん宅に身を寄せている。
こちらに身よりのない伊達は、同じ中学出身で、単身上京していた三年の先輩とルームシェアしているそうだ。
「俺は家遠いし、買い出しして直に行くわ」
「……自分もお供させてもらおうか」
「ん、オレも」
決まった。陸奥は地図を暗記するとこちらへ寄越す。
「ところで、例のけったでこりん、どうするのさ?」
……忘れてた。
「ンじゃあ、各自思い思いにけったでこりんってこうぜ」
また適当なことを。相模はなにかにつけて大雑把だ。
「ま、分かんないものはしょうがないよね。さ、撤収撤収!」
陸奥も考えることに飽きたのか、荷物を持って立ち上がる。それをきっかけに片付けを始め、レッスン室を後にした。
外に出ると、陽が延びてきたとはいえさすがに暗くなっていた。レッスン着から着替えはしたものの、汗をかいた身体に夜風が冷たい。
駐輪場でそれぞれ自分の自転車を探し、転がしながら門を出る。
陸奥は右へ、買い出し組のオレ達は左へ。
「買い出しの代金は、後で三河以外で頭割りしよ。レシート捨てないでよね。それじゃ、またあとで」
矢継ぎ早にぽんぽんしゃべって、陸奥はハイペースでペダルを漕ぎ去っていく。
返事を待つ優しさはないのに、手羽先と部屋の提供者である三河に対する配慮はある。なんだか不思議なヤツだ。
「んじゃ、オレ達も行きますか」
「だな」
残されたオレ達も、肩を並べゆるゆると夜の街に漕ぎ出した。