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現実逃避行前編 「がっしょうき」



「…………もう、無理っす」


 ノートの上に突っ伏し、相模(さがみ)が呻いた。


 六月最後の土曜日。


 例によってオレ達は、三河(みかわ)の部屋に集まっている。

 間近に控えた期末テストに向け、泊り込みの勉強会をしている……んだけど。

 夕べは夜中までテキストとにらめっこして、起きてからもずっと勉強漬けで、相模もオレも頭がはちきれそうになってきた。


「なぁ、今やってンの英語だっけ?」


「……数学だが」


 うつろな目で半笑いを浮かべる相模に、伊達(だて)はわずかに頬を引きつらせる。


「あれ? おかしいな……俺のノート、xとかyとか、なんかアルファベットばっかなんだけど……へへ、へへ……」


「お、落ち着け相模っ! 数学っ! これ数学だって!」


 目を覚ませと肩を揺するも、相模は目も口も半開きのまま、なすがままだ。


「なんかもう、アルファベットが艶めかしく見えてきたわ……xってほら、胸の谷間っぽくね……」


「末期だなオイ! 戻ってこーいっ!」


 激しく揺さぶると、相模はそのまま後ろにバタリと倒れた。次いで、伊達先生も仰向けに倒れる。

 あぁ、ホントお疲れ様です伊達先生……

 そういうオレももう限界……二人と同じように、カーペットの上に身を投げ出した。


「なんだよもう、情けないなぁ」


 死屍累々のリビングを見回して、仁王立ちした陸奥(むつ)が肩を竦める。


「ちゃんと授業中先生の話聞いてたの? 聞いてたらある程度解けるでしょ」


 陸奥と一緒に食後の後片付けをかって出てくれていた三河も、キッチンから戻ってきて目を丸くする。

 投げ出された相模のノートを見て、


「難しく考えることないよ~。こういうパターンが来たら、公式に数字をポイポイッて当てはめればいいんだよ~」


 楽勝楽勝~と、こともなげに言う。

 それができたら伊達がこの通りヘバることもないんだけど……

 眼鏡を外して横たわる伊達の横にしゃがみ込み、三河はよしよしとその頭を撫でる。


「伊達君、頑張ったね~。よしよ~し」


 陸奥も反対側に回り込み、伊達の額をぺちぺち叩く。


「うんうん、頑張ったね~。でも期末で追試になったら、補習とかで夏休みが潰れかねないからさ。もっと頑張ってね、セ・ン・セ」


 ニコォッと笑う笑顔が怖い。


「……最終的に頑張るのは、相模自身だろう……」


 伊達はヘルプを求めて相模を見やる。視線を受けると、相模は突然バネ仕掛けの人形のように飛び起きた。


「釣り行こうぜ!」


「……は?」


「だぁら、釣りだよ魚釣り! フィッシング!」


 ……ついに限界を超えて壊れたか。

 越えてはいけない一線を越えてしまったらしい相模は、キラキラというよりテカテカ輝く笑顔で言う。


「なに現実逃避してんのさ、こんなテスト直前に!」


「……釣りか。それもいいかもしれないな……」


 キリキリと眉をつり上げる陸奥の横で、伊達は遠い目をして呟く。

 限界を超えてしまったのは、相模だけじゃなかったか……

 相模は目にも止まらぬ速さでテレビリモコンを掴み、地元ケーブル局のお天気チャンネルを呼び出す。


「ほら、明日晴れだし、あったかくなるってよ! 釣り行こうぜ、釣り!」


「まぁ、息抜きも必要だよね~。伊達君もお疲れだし」


「三河までそうやって甘やかして……それでまた追試になったら目も当てられないよ」


 ダメダメと首を振る陸奥に、相模はニヤリと口を歪める。


「陸奥君よ……肉、食いたくねぇか?」


「は? 釣りたいのは魚なんだよね?」


「バーベキューという言葉に、心は躍らないかっ?」


「だから、魚釣りに行きたいんだよね?」


「釣りしながらバーベキューもすんの」


「え?」


 相模が言うには、相模には地元に馴染みの管理釣り場があって、そこでは釣りをしながらバーベキューができるということだった。必要な道具も全てレンタルでき、ほぼ手ぶらで行って遊べるらしい。

 ……なんてお手軽っ!


「いいなぁそれ! 面白そーっ!」


 誘惑に負けたオレも身を乗り出すと、陸奥は多勢に無勢と悟って肩を落とした。


「分かったよ……でも、次に赤点とっても知らないからね!」


「ぃやったぁーっ!」


 それからの相模の行動は早かった。

 釣り場に電話をして、顔馴染みだという受付のおばさんに五人分の予約を取りつける。次に相模のお爺さんに連絡して、買い出しのための足も確保した。


「ちょっと相模、ホントに疲れてんの?」


「釣りに行くとなったら、なんか元気出てきたーっ! 伊達、次なにやる?」


「……英語でも、やるか」


 気分転換の予定が立って、伊達も少し持ち直したらしい。


「英語ならぼくも役にたてるかもー!」


 英検二級の三河も腕を捲くる。


「よしっ、じゃあ明日心置きなく遊ぶために、いっちょ頑張るか!」


「おーっ!」



        ◇  ◇  ◇



 明けて翌日。


「……ねぇ。ホントにここ、神奈川なの?」


 バスから降りると、陸奥は辺りをうかがい首を傾げた。


「神奈川だよ、うん……」


 頷くオレのすぐ後ろには、山の急斜面が迫っている。

 バス通りを渡った向こうは切り立った崖になっていて、崖の縁には野草が生い茂っている。崖の上はまた山で、右を見ても山で、左も……山。

 どっちを見ても山だらけだ。

 三河が崖の斜面を指差した。


「あっ、見て~! あそこ猿がいるっ!」


「うわっ、すげー!」


 オレ達の大声に、猿はすぐに姿をくらませる。秋田出身の陸奥は珍しくもなんともない様子で一瞥した後、また周囲を見回した。


「……ねぇ、ホントにここ神奈川なの? 神奈川って、東京に次ぐ都会じゃないの?」


「神奈川だよ……多分」


 ……なんか、だんだん自信なくなってきたぞ。


 夕べはそれぞれ家に戻り、相模を除く四人は朝七時に横浜駅に集まった。

 私鉄で四五分、乗り換えて一五分、そこから更に一時間に一本しかないバスに乗り込み、揺られること一時間ちょっと。

 駅から離れるにつれ高い建物が消えていき、すぐに道路も六車線から二車線に減った。最後にコンビニを見てから一〇分くらい走ったところに、相模が指定したバス停はあった。

 バスで座り疲れたのか、三河はうんと伸びをする。


「ふぅ……相模君、いつもこの距離を往復してるんだよね~。これじゃあ家に帰ってから勉強するヒマなんてないよ~、ゲキ高まではもっとあるんだもん」


「……そうだな」


 教える方も気合いを入れねばとばかりに、伊達は眼鏡を押し上げる。そして、春の柔らかい新緑から夏の力強い濃緑へ色を変えつつある山を仰いだ。


「それにしても……いいところだな」


「だなぁ」


 深呼吸していると、荒々しい運転の軽トラが走ってきてオレ達の前で急停車した。


「なんだ?」


 窓を開けて顔を見せたのは、よく日に焼けた坊主頭の爺さんだった。七〇歳前後に見えるけど、窓枠に乗せた腕がやたらといかつい。その上、顔までいかつい。

 爺さんはギロリとオレ達を見回すと、


「おめぇさん方、横浜から来たンか?」


 しゃがれた大声で訊かれたから堪らない。

 車に一番近い三河は飛び上がりそうになりながら、なんとか口を開く。


「あ、あのっ、ぼく達……!」


「爺さん! 俺の友達ビビらしてくれんなよ」


 そう言って、軽トラの荷台から顔を出したのは相模だった。


「相模!」


 ということは、この目つきが悪くて(失礼)ガタイのいい爺さんは、相模のお爺さんか。

 相模は爺さんの血を濃く引いてるなぁ……

 半ば感心していると、爺さんは孫の言葉に背中を丸めた。


「そんな言い方ねぇだろうがよぉ。おめぇの友達に挨拶しようと思っただけだべや」


「顔怖ぇんだから、せめてもうちょいにこやかに声かけろよ爺さん」


「そ、そうか?」


 爺さんはニッと口角を上げて、ヤニで黄ばんだ歯を見せて笑った。強面が繰り出す不自然な笑顔が恐い……のに、なんだか可愛い。

 孫に叱られてしょぼくれて、無理やり笑ってみせる爺さん。微笑ましいなぁ。


「さぁ、乗った乗った!」


 相模は軽トラの荷台をバンバンと叩く。


「え、いいの~? お巡りさんに怒られない?」


「そりゃ見つかりゃ怒られるさ。でもお巡りなんて滅多いねぇし、すぐそこだから」


 なんとも大らかだ。

 荷台に乗り込みながら、陸奥がそっと耳打ちしてくる。


「……ホントにここ、神奈川なんだよね? やたらと秋田の田舎を思い出すんだけど」


「………多分、神奈川……」


 軽トラの荷台に揺られ、釣り場を目指す。

 荷台にはすでに肉や野菜、それにクーラーボックスいっぱいの飲み物が積まれていた。


「悪かったなぁ、駅まで迎えに行けなくて。少しでも早く行きたくて、先に買い出し済ませといたんだ」


「後で割り勘しようね」


 陸奥の言葉に、クーラーに寄りかかった相模は首を振る。


「コレは爺さんのオゴリ。普段から色々と孫が世話ンなってるから、ささやかなお礼だってよ。なぁ、爺さん」


 相模が大声で運転席に呼びかけると、爺さんは窓から顔を突き出し振り返る。


「おぉよ、ウチのぁオツムの出来が悪ぃもんで、付き合うのは大変だべ!」


「いや、そんな……悪いです」


「わわっ! お爺ちゃん、前見て前っ!」


「こんなにたくさん、申し訳ないですよ!」


「あー? なんだって?」


「お願いっ、頼むから前見てお爺さんっ!」


「あぁー?!」


「いただきますっ! いただきますから前っ! 前っ!」


「おうよ!」


 爺さんは片手でハンドルを切りながら地鳴りのような声で笑った。笑い声は相模とそっくりだった。

 山間の道に沿って下っていくと、目の前に流れの緩やかな川が見えてきた。河原には色とりどりのテントやタープが張られ、なかなか賑わっている。

 それを横目に通りすぎると、支流をマス目に区切った管理釣り場が見えてきた。

 釣り場までの道は未舗装で、軽トラは砂利を飛ばして跳ねるように駆け下る。荷台のオレ達は振り落とされないように掴まった。

 乗り心地はともかく、肌で風を受ける気持ちよさがなんとも言えない。

 

「ほれ、着いたぞー! 荷物はそのままでいいから、受付済ましてこい」


 爺さんは小さな建物の前で急停車した。

 荷台から飛び降り、勝手知ったる様子でずんずんと建物に入っていく相模。追って中に入ると、受付カウンターに小さなおばさんと、作業着姿の大柄なおじさんがいた。


「ご無沙汰してまーす!」


「こんにちはー」


 礼儀正しく一礼する相模に続き挨拶すると、おばさんの方はニコニコしながらカウンターから出てきた。


「あらー久しぶりタケル君! 待ってたよー!」


 タケル君。相模の下の名前だ。漢字は毅流と書く。

 作業着のおじさんも出てきて、ひょいっと相模を見上げた。おじさんも大きいけど、相模の方が少し背が高い。


「っはー、小島さんトコの孫か! がっしょうきぃ」


 ……ん?

 聞き慣れない言葉に、四人で顔を見合わせる。

 けれどおばさんも相模も違和感はないようで、


「ホントに、がっしょうきな男になって」


「そんなことねぇっすよ」


「お友達もみんなイケメンねー、都会の子は違うわー。あ、今日は竿何本出す?」


「とりあえず三本でいいっす。バーベキューしながらなんで」


「はいはい、三番のマスに炭おこしてあるからね」


「あざっす!」


「竿は自分でいいの選んで持って行きな。貸し竿の場所覚えてる?」


「えーと、建物の脇だっけ?」


「せどっか」


「あ、りょーかいっす」


 ぽかんとするオレ達をよそに、ぽんぽんとあれこれが決まっていく。


「はぁ、それにしてもがっしょうき」


「がっしょうきがっしょうき。じゃ、いってらっしゃい!」


 『がっしょうき』なによ。『せどっか』どこよ。

 分からないまま、おばさんに渡された小さなバッヂを服につける。餌釣り客とルアー釣り客を分ける目印らしい。

 またも陸奥が顔を寄せてくる。

 分かってる分かってる、言いたいことは。


「あのさ、ホントにここ……」


「オレも疑問になってきた」


 ──ホントにここ……神奈川?




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