幕間 「バカけぇ」
ガラリとドアを開け、紙の束を持ったななちゃんが教室に入ってくると、教室内にピリッとした空気が張りつめた。
あちらこちらで談笑していた生徒達は、蜘蛛の子を散らすように席に戻る。
もちろん、いつものオレ達五人もそそくさと席につく。
この前の合同授業のおかげで毎日芝居漬けになっていたけど、ここはれっきとした県立高校。
もちろん、アレもあるわけで。
そう。ここ一週間、中間テストが行われていた。
担任のななちゃんが手にしているのは、各テストの得点がまとめて記された成績表なのだ。
ななちゃんは教卓の上に束を下ろすと、ニヤリと唇を歪める。
「なぁによあんた達、ずいぶん察しがいいじゃな~い? はーい皆お待ちかね、テストの成績表を配るわよー!」
「誰も待ってないっす!」
「いらな~い!」
やたら楽しげななちゃんに反論の声があがる。
「文句言わなーい! 自分の点数が赤で印字されてたら、それ赤点だから。補習や追試があるから、各教科担当の先生に指示を仰ぎなさいね。はい赤川~、ジャン~、有村~……」
出席番号順に名前を呼ばれ取りに行く。
……ていうか、こんな時までジャンなのか。
受け取って席に戻り、こっそりと開いてみる。
各教科ごとに、自分の点数・クラス内平均点・クラス内順位が印字され、最後に総合得点と総合順位が載っている。
「あぁ~……」
予想通りすぎる結果にため息がでる。
結果から言って、クラス内の総合順位は二〇位だった。一クラスは四〇人だからちょうど真ん中。
各教科ごとの順位を見ても、得意な現国で九位、苦手な化学で三〇位なのを除けば、他の教科は平均点と大体どっこいだ。幸い、赤い文字はない。
ふぅ……テストでも平均的な男、可もなく不可もなく平々凡々極まる男、それがオレだ。
……なんか切ないな。
ホームルームが終わり、成績表を閉じてため息をついていると、ニヤけた相模が寄ってきた。
「よっ、どうだった? その顔は、あんまり思わしくなかったようだなジャン君よ!」
なんでそんな嬉しそうなんだよ。
「そういう相模君、キミはどうだったんだね?」
「ふふん、大丈夫! お前は一人じゃない、俺達は仲間だ! ソウルメイトだ! どこまでも一緒だぜ!」
そう叫ぶと思いきり抱きしめてくる。相模の剛腕で締めあげられるのも、周りの冷ややかな視線も、なにもかもが痛い。
「え、なに、どした? 気持ち悪ぃんだけど」
「んふふー、照れなさんな照れなさんな!」
「照れてねーし」
「ていうか、ホント止めてくんない? この絵面のむさくるしさ、もはや公害レベル」
凍てつく声音に振り向けば、伊達と三河を伴ってやってきた陸奥が、冷ややかというには冷たすぎる目で見ていた。
あまりの言い草に、手を解きながら相模がむくれる。
「公害ってなんだよ、男同士のアツい友情じゃねーか」
「あーそれはともかく、みんなは試験の結果どうだった?」
解放感に伸びをしながら聞くと、三河が手にしていた成績表をひらひらと振る。
「ぼく結構よかったよ~っ!」
「おっ、マジか。伊達もよかったんじゃないか?」
「……まぁ、それなりだ……」
伊達はいつものごとくうっそりと頷く。なんだかんだと盛り上がっているうちに、お互いの成績表を見せ合うことになった。
「いくぞ……後だしすんなよ?」
「誰もしないよ」
「……っせーのーせっ!」
五枚の成績表が一斉に開かれる。まず注目が集まったのは、医者の息子である伊達の順位だ。
「うおっ! 一! 一位って書いてあるっ!」
「やっぱりねぇ、予想通りすぎてつまんない」
「……そう、言われても」
陸奥にぼやかれ困惑する伊達の手元をのぞき込み、三河が額に手をやる。
「うわぁ、惜しかったなぁ~。伊達君まであと八点かぁ」
「えっ?!」
そういう三河の表を見れば……総合順位二位、だと……!
「三河……頭よかったんだな」
意外なダークホースの存在にガクブルしながら呟くと、三河は何気なく出身中学の名前を明かした。
それって、東海地方指折りの有名私立進学校じゃん!
……弱小演劇部だったとは聞いてたけど、さもありなんだ。そんな進学校で、まともに部活に打ち込むヤツがいるはずないじゃんか。
くるくるふわふわした栗毛と童顔に、すっかり騙された……
「そういや三河のお父さん、国際線パイロットだもんなぁ……伊達といい三河といい、頭の出来はやっぱ遺伝なのかぁ」
「え、じゃあ専業農家の息子の僕はどうなるの?」
そういう陸奥の手元を見れば、八位と書かれている。ぐぬぬ、なかなかやりおる……
「勉強に親の職業なんて関係ないよ~、コツコツ積み重ねだよ~!」
「……その通りだ」
うぐ。サラブレット達の言葉が耳に痛い。
「どれどれ、ジャンは? あ、フツー。ど真ん中だね」
「……うん、どこまでもフツーだよオレは」
陸奥の言葉に、乾いた笑いしか出てこない。
いや待て! まだ相模がいるじゃないかっ! ソウルメイト・相模なら、この平凡の悲哀を共有できるはずだ!
「相模は……」
どうだったと尋ねようとするオレの目に、そっと成績表をしまい込もうとする相模の姿が飛び込んできた。
「ちょっ、なんでしまおうとしてんだよ」
「うるせぇっ! ジャン、お前だけは仲間だと思ってたのに裏切りやがって~っ!」
「裏切りってなんだよ、まぁ落ち着けって。どうどう……」
背中を撫でて宥めつつ、その手から成績表を掠めとる。
「一人だけ見せないなんてフェアじゃないぜ」
「あっ、馬鹿よせっ!」
ぴらり。
相模に阻止される前にご開帳する。
まず目についたのは赤字。赤字。赤字。そして……
…………四〇位?
さっきも言ったとおり、このクラスは四〇人。つまり……
ガチすぎる数字に言葉を失う。いやさ、三五位くらいまでなら……いや、ギリギリ三九位までなら、笑ってネタにできたかもしれない。最下位って……
この面子の中で一番優しいはずの三河も、目をぱちくりしたまま固まっている。
伊達にいたってはさり気なく視線を逸らしていた。
陸奥はしげしげと数字を目でたどる。
「相模って本気でバカけぇんだね。一般入試どうやって受かったの?」
バカけぇ……意味は説明されるまでもないけど、秋田の言い回しなんだろう。
嫌みではなく心底不思議そうな顔でトドメを刺され、相模は床に崩れ落ちた。
「どおおぉせ俺は馬鹿だよーっ! もともと成績悪かったけど、ゲキ高入りたくて中三ン時に血ヘド吐きつつ頑張ったんだーぃ!」
ヤケになって床に突っ伏すソウルメイト(仮)に、どう声をかければいいのやら……
四人で顔を見合わせる。
眼鏡を中指で押し上げつつ、伊達が屈みこむ。
「でも……受験は中二の夏からと、よく言うだろう……? 中三の一年間頑張っただけでゲキ高に入れたのなら、決して出来が悪いわけではないと思うぞ……」
おぉ、伊達にしては長い言葉を!
いつも通りの無表情だけど、伊達は伊達なりに励まそうと頑張っているらしい。
「そうだよ~っ! 元気だして相模君、これから挽回すればいいんだからっ!」
「そうだよ、元気なのが取り柄なんだから元気だしなよ」
笑顔で励ます三河と、励ましているのかよくわからない陸奥の言葉にも、相模は突っ伏したままだ。
床にしゃがみ込んで、その肩をポンポンと叩く。
「……追試に向けて、一緒に勉強すっか」
相模が顔を上げる。あらら涙目じゃんよ。情けない顔してんなよ、らしくない。
「心の友よおぉぉっ!」
再びガバッと抱きつかれる。親友には色んな呼び方があるもんだなとぼんやり思った。
ともあれ、今日は試験終わりの金曜日。
いつものように三河の部屋に泊まり込み、勉強会をすることになった。
◇ ◇ ◇
「……なぜ、そうなった?」
「え、『なんじ、敢えて君と絶たん』じゃねぇの?」
「………『乃敢與君絶』の乃は、『なんぢ』とは読むがここでは『すなわち』だ……」
「え? なんで?」
「……相手は『君』だろう? なら、『なんじ』は一体誰だと思うんだ……?」
「出だしが『上邪』だから、なんかこう神サマ的な?」
相模の珍回答に、さすがの伊達も頭を抱えた。
三河のバレエのレッスンが終わるのを待って集まったオレ達は、夕飯もそこそこに相模の勉強会を始めたのだが。
要点さえ押さえればボーナス問題になりうる漢文・漢詩から始めたのが間違いだったのか、相模の理解はなかなか深まらなかった。
勉強しようとは言ったものの、先生役には成績一位の伊達がいるので、オレを含む三人の出番はほぼない。
辛うじて平均点のオレも、一緒になって伊達先生の講義に耳を傾けているものの、成績上位の三河はうとうとし始め、陸奥はテレビゲームに興じている有り様だった。
相模の目がチラチラとテレビに向く。
「……陸奥。相模の気が散る……消してくれ」
「えー、今いいところ!」
陸奥は振り返りもせずコントローラーを連打する。
「……美紀、消すんだ」
「ミキ?」
陸奥の下の名前らしかった。
そういえばこの五人でつるんでしばらく経つのに、下の名前を聞いたのは初めてだ。
いつもと違う伊達の口調にヤバいと感じたのか、陸奥はそそくさとゲームの電源を落とした。
「へー、陸奥の名前ミキっつーの?」
相模が興味津々で身を乗りだす。
伊達の一言は陸奥にゲームを止めさせるのには効果テキメンだったが、相模の気を大きく散らしてしまう結果になった。
もはやこれまでと匙を投げ、伊達は眼鏡を外し、疲れたように目頭を揉んだ。
「………本当は美紀睦だ」
「そう、ヘンな名前でしょ。美しいに、風紀の紀に、睦まじいなんてさ」
眉を寄せた陸奥がソファに腰かけると、ビーズクッションに顔を埋めていた三河が目を擦る。ちなみに今日の三河はタレ目のパンダ着ぐるみだ。
「え~、なんで~? ミキチカって音の響きが可愛いよー?」
「そう? 漢字三文字だよ、画数多いしクドくない? なにより名前の由来が嫌なんだよね」
「どんな由来~?」
陸奥はクッションを膝に乗せると、ダルそうに頬杖をつく。
「うちの父さんの名前、ノリアキ。風紀の紀に明るいで紀明」
「親父さんの名前から一文字もらったんだな。別にいいだろ、普通じゃねぇか」
相模の言葉に、陸奥はふるふると首を振る。
「母さんの名前、美しいに幸せで美幸。紀明と美幸が仲睦まじくイチャついた結果、できた愛の結晶が美紀睦ですよー、と」
おぉう……さすがに言葉をなくす。
今はやりのキラキラネームとは違うけど……違うけども……
愛の結晶・美紀睦は忌々しげにクッションを叩く。
「酷いと思わない? 確かに僕は、結婚して一三年目にやっと生まれた待望の一人息子だったワケだけどさ。それにしたって産後ハイにもほどがあるよ。どうしてじっちゃもばっちゃも止めてくれなかったのか……」
「で、でもほら、両親の愛情たっぷり! ってカンジはひしひしと……」
「バカップルの自己紹介ならよそでやって欲しいよ、子供の名前ですんなってーの!」
フォローも虚しく、陸奥はクッションに八つ当たりを始める。いかん、ここは別の話題を……
「あー……てかさ、そんな溺愛してる息子をよく一人で神奈川に送り出してくれたな」
相模も話題転換に乗ってくれ、ことさら大きく頷く。
「だよなだよな。しかも実家は農家だろ? 農家の長男じゃ、それこそ大事な跡取り息子じゃねぇか。親御さん、手許から離すのは心配だったんじゃねぇの?」
クッションを投げ出し、ソファの背もたれに深くもたれると、陸奥はため息混じりに髪をかきあげる。
「僕は継がないよ、父さんを手伝ってくれてる叔父さんが継いでくれることになってるんだ。
そもそも日焼けなんてまっぴらな僕が、野良仕事なんてできると思う?」
「ごもっとも……」
陸奥の紫外線対策意識はヒジョーに高い。多分そこらのギャルをも凌ぐ。
最近は大分暖かくなってきたのに、日差しを気にして長袖にUVカット仕様のストールなんかを巻いているほどだ。
夏になったら日傘でも差しだすんじゃなかろうか。
「でもさ~、陸奥君にはすごい歌声があるじゃない? 音楽を続けろって反対されなかった~?」
「そりゃされたよ。でも、僕には歌しかないなんて誰も決められないでしょ? 自分の新しい可能性を見つけたいって説得したよ」
溺愛されてるからこそ、涙を見せたらチョロいもんさ。
そんな軽口を叩いて、陸奥はチロリと舌を出した。
いくら息子に甘い親御さんとはいえ、半ば一方的にライバル視している伊達を追って行きたいとは、さすがに言えなかったようだ。
「そういう三河こそ一人っ子じゃないの? お父さんお母さん、心配でたまらないんじゃない?」
陸奥に話の矛先を向けられ、完全に覚醒したパンダ三河はもそもそと座り直す。
「されたよー、ていうかされてるよー現在進行形で。一日おきにお母さんから電話が来るんだ……」
少々疲れたように肩を落とす。いかに三河が素直に育っているとはいえ、年頃の男子にそれは少し重いかもしれない。
「しかも、未だにママって呼ぶように強要されててねー……」
それは重いですお母さん。
「それでも、ぼくが小さい頃からあのテーマパークのキャストになりかったのは知ってたから~。それに、中学の演劇部の悲惨さも。
だから、ちゃんとした学校でお芝居を学びたいーっ! って、説得したんだぁ」
三河は話しながら、部屋の壁にかけられた古いカレンダーを見上げた。
そこには三河の夢の原点が写っている。テーマパークの華やかなショー。めかし込んだキャラクターと、ファンタジー感溢れる衣装を纏ったショーキャスト達。幼い頃に彼らが見せた夢は、今も三河を魅了し続けている。
みんなそれぞれに夢を持って、それに一歩でも近づくためにゲキ高にやってきている。
でもまだ未成年のオレ達には、家族の協力がどうしても必要だ。譲れない夢を訴えかけて、送り出してもらわなきゃならない。
──家族?
ふと、母さんの背中が目に浮かんだ。
いつか見た……あぁ、球技大会で倒れた時に見た夢だ。あの夢の断片が、開いたまぶたの内側に蘇る。
いつものように台所に立つ母さん。
女手一つでオレと妹を育ててくれる母さんは、毎日忙しくしていて、台所で夕飯の支度をする一時に会話をするのが我が家の暗黙のルールになっていた。
『お前、本気なの? 演劇高校に行きたいなんて』
一般入試の願書提出を目前に控えて、母さんは言った。オレはなんて答えた?
「本気だよ、勿論。他に行きたいと思える学校なんてない」
その時から、ゲキ高しか目に入っていなかった。
『俳優科ねぇ……どんなに売れっ子の俳優さんでも、下積み時代は苦労したって言うじゃない。そのまま売れないことだってあるでしょ?』
「その時は、バイト掛け持ちでもなんでもして、絶対に家に迷惑かけないから」
『……母さん、そういうことを聞きたいんじゃないのよ』
そう言って少しだけ振り向いた母さんは、寂しげな顔をしていた。
今になってやっと、どうして母さんがそんな顔をしていたのか分かった気がする。
「おーい、ジャン? どうした?」
目の前で相模の大きな手が振られて、ようやく我に返る。
「あー……ごめん。なんか、用事思い出した」
「はぁ? なんかって……」
「悪ぃ悪ぃ、また明日の朝来るから」
怪訝そうな顔の相模をかわし、荷物をまとめる。
帰らなきゃ、家に。
「まだ電車あるかな、大丈夫~?」
「大丈夫大丈夫」
「おいおい、急にどうしたってんだよ?」
「野暮なこと聞くんじゃないよ相模」
「野暮って……おいっ! まさかソッチ方面でも俺を裏切る気かーっ! 抜け駆けは許さねぇぞっ!」
陸奥のフォローで要らない誤解を招いてしまったけど、誤解なら明日解けばいい。
「じゃ、また明日!」
言うが早いか、三河の部屋を飛び出した。
自転車をかっ飛ばして、酔っ払い満載の最終電車に滑り込む。自宅の最寄り駅で降り、暗い道を全力で走る。
帰らなきゃ、言わなきゃ、母さんに。
他に行きたい高校なんてない? 家に迷惑かけない?
それはもちろん本心だけど、母さんが聞きたかったのはきっとそんなことじゃない。
自分の中では揺らぎない夢でも、ハッキリと口に出すのは気恥ずかしくて避けていた。
でもそんなんで背中を押してもらおうなんて、今思えばおこがましい。押して欲しい背中も見せず、押してくれなんてどうして言える?
なのに母さんはオレをゲキ高へ送り出してくれた。
毎週末、居場所こそ分かってはいるものの、なにをやってるのか泊まり込みで帰ってこない息子を、日曜の夜には温かい夕飯で迎えてくれる。
陸奥が甘やかされてるだって? 違う、一番大事なことも言わずに甘えていたのはオレじゃないか──バカけぇのはオレだ。
息があがる。汗が落ちる。
家って、こんなに遠かったっけ。
萎えそうになる気持ちを蹴飛ばして走り続け、やっと家の玄関が見えると、靴を脱ぐのももどかしく飛び込んだ。
リビングに入ると、こんな時間なのにまだ妹が起きていた。ダイニングテーブルに参考書が詰み上がっている。
それぞれに部屋はあるものの、勉強はここでするのが兄妹の習慣だ。
「うっそー兄ちゃん帰ってきたの? 泊まりって連絡してきたじゃん! もうご飯ないよ?」
妹が心底嫌そうな顔で振り返る。
そりゃ妹から見たら、毎週末遊び歩いて帰ってこないダメ兄貴だもんな……ちょっぴりへこみつつカバンを置く。
「食べてきた。まだ起きてたんだ」
「受験生だもん、トーゼンっしょ」
「そっか……」
年子の妹は、次の春に高校受験を控えている。ゲキ高に入りたくて足掻いていた去年の自分が重なる。
「母さんは?」
「お風呂ー」
それだけ答えると、妹はまたシャーペンを握りなおした。
そうだ。妹にも言わないと……
「なぁ」
「んー?」
今度は振り向かない。
「兄ちゃんさ……役者になりたいんだ」
振り向いた。長めの前髪の下で、たれ目がちの目がまん丸になっている。
「……なに。イキナリ。しかもちょーイマサラ……」
「ちゃんと言ってなかったなぁと思って……」
反応が返ってくると改めて気恥ずかしくなる。それでも、言うことは言わないと。
「あ、のさ……役者って、ぶっちゃけ不安定な職業だし、食べていけるかなんて分かんないけど……家にも、あんまりお金入れらんないかもしんないけど……でも、」
「兄ちゃん」
しどろもどろな情けない兄を、妹はぴしゃりと遮る。
「心配すんなー。お母さんはアタシが公務員ンなって、ちゃんと面倒見るから。こんなフラフラした兄ちゃんにお母さん任せられるかっつーの」
からかうように、でも瞳だけは真剣に、そう言ってくれた。
「そっか……ありがとな」
なんて言っていいか分からなくて、ようやくそれだけ口にすると鼻で笑われた。
「期待してないって言われて喜ぶなっつーの。ホラ、勉強のじゃーま!」
「はいはい」
ハエでも追い払うようにシッシッと手であしらわれ退散する。
廊下に出て、脱衣場のドアをノックする。浴室の方から返事があったので、脱衣場に入り浴室の硝子戸に背を預けてしゃがみ込む。
うちの母さんは昔からとても長風呂な人だ。朝晩じっくり湯船に浸かる。
妹が中学にあがって子育てが一段落するとより長くなり、父さんがいなくなってますます長くなった。
父さんが出て行った朝も、こうして風呂に入っていた。
あがるのを待っていたら何時になるか分からないので、このまま話を切り出すことにする。
「ただいま」
「えっ? なに、帰ってたの? 泊まってくるって言うから、ご飯食べちゃったわよ」
浴室の壁に反響した不鮮明な声が、妹とそっくりなことを言う。でも、さっきみたいなトゲはない。
「あのさ、ちょっといい?」
「どうしたの、改まって」
驚きの中に、心配が混ざった声で母さんは言う。
「オレさ。役者になりたいんだ」
「……そう」
「前に母さんが言ってたみたいに、不安定な職業だし、家にお金入れらんないかもしれないけど……」
「うん」
「……でも、なりたいんだ。舞台のそばで、息してたいんだ」
「そう……」
ぴちゃんと水の音がする。
伝わるだろうか、こんな言葉で。
磨り硝子越しの湯気がほんのりと背中を温める。
「……頑張んなさい」
母さんはそう言った。短い言葉が、湯気よりも温かく背中を押してくれる。
「ん」
「お泊まりもいいけど、相手のお宅に迷惑かからないようにね。ちゃんと手土産くらい用意していくのよ?」
「分かってるよ」
「精一杯、頑張んなさい」
「……ありがと母さん」
脱衣場を後にして部屋に戻る。
部屋の電気をつけないまま、ベッドに倒れ込んだ。
布団に埋まると、一週間の疲れが一気に押し寄せてくる。重くなるまぶたに抗わず目を閉じた。
「……母子家庭だってのに、ホント放蕩息子でゴメン」
暗闇に向かって、さっき言えなかった言葉を吐き出す。
言えば母さんを悲しませてしまう。でもその罪悪感を、吐き出さずにいられなかった。
頭の中に色んなことが駆け巡る。今までのこと、これからのこと。それでも相変わらず背中は温かかった。
なにから考えよう。とりあえず、明日の朝にしなきゃいけない相模への言い訳か……どうしようかな。考えを巡らせ始める前に──寝た。




