鬼才・天野耕助 「わついじゃ!」
五月の連休が終わって少し経つと、雨の日が増えてきた。今週にも梅雨入り宣言がされそうだ。
ようやく太陽が顔を出した昼休み、オレ達五人は日差しを求めて中庭に出た。乾いたベンチを選んで座り込む。
まだ木から雫が落ちてくるせいか、人はまばらだった。
購買で買ったクリームパンをかじりながら、三河はいつになくニコニコしている。
「どうしたんだよ、三河? ずいぶん機嫌いいじゃん」
尋ねると、三河はほっぺたにクリームをつけたままにへっと笑う。
「へへー、気付いた~? 今週に入ってから、ぼく演技指導の授業でイントネーション注意されてないんだよっ!」
「あ、そういえば……」
あだ名の通り、愛知県三河地方出身の三河は、日頃から標準語を心がけているものの、言葉のイントネーションがなかなか直せずにいた。
お國言葉が悪いからでも、恥ずかしいからでもない。ここが演劇高校の俳優科だからだ。
基本的に芝居の台詞は標準語がベースだから、地方出身者はまずそこで苦労することになる。三河もそんな苦労人の一人だ。
「そうそう、普段の言葉も違和感なくなってきたよね。なにか特別な練習でも?」
陸奥が野菜ジュース片手に聞けば、三河はニヤリと笑う。
「ふっふっふっ。ぼく、秘策を編み出したんだぁ! 名付けて『なーの封印』ッ!」
「なーの封印?」
四人して首を捻る。
なんなんだ、そのファミコンソフトのタイトルみたいな名前は……
「ぼく発見したんだ!
もともと、呼びかける時は『なー』だし、語尾も『なー』だったけど、なーって言う時どうしても西のイントネーションになっちゃうんだ。
だから、直せないならいっそ使わなきゃいいと思って、なーを封印したんだよ!」
確かに。
呼びかけの『なー』一つとっても、東日本勢のオレ達が『なぁ』と語尾下がりになるのに対し、三河の『なー』は平坦で、やや語尾上がりになることもある。
「だから、なーなーをねぇねぇに変えたり、ナントカだなーをナントカだねーに変えたり……
そうやって気をつけてたら、それに釣られて他も直ってきたんだよ~」
「……なるほど。努力してるんだな」
伊達に誉められて嬉しそうに目を細めた三河だったが、すぐに顔を曇らせる。
「でも今度は、イントネーションに気を取られすぎて……しゃべりが平坦だって言われちゃったよぉっ! どうしたらいいんだろ~」
「まぁまぁ、一つずつだって。でっかい進歩じゃねぇか」
がばぁっと膝に顔を埋める三河を、相模が弁当をかっこみながら慰める。
ちなみに相模はお母さん手作りの三段弁当と、コンビニで買ってきたカップ麺のセットを食べている。毎度毎度、見てるこっちが胸焼けしそうな食いっぷりだ。
三河は陸奥に飛びついた。
「ねぇ、陸奥君はどうやって訛りを克服したのっ?」
どうどうと三河を宥め、首を傾げる陸奥。
「うーん……秋田弁は難解だからね。秋田生まれ秋田育ちの僕ですら、お年寄りがしゃべってることは聞き取れないくらい。だからもはや別言語って感覚なんだよね」
「別言語?」
「そう。小さい頃は、家の中の言葉と、テレビから流れてくる言葉は別の言葉だと思ってた。だから訛りを直すとかじゃなくて、使い分けてるってカンジ」
「使い分けてるカンジって、そんなアッサリ~……」
「秋田弁と標準語のバイリンガルってカンジだな!」
ヒントが得られずがっくりと肩を落とす三河の横で、相模は無遠慮に大口を開けて笑う。ほら、米粒飛んでるって……
三河は更なるヘルプを求めて伊達を見る。伊達は少し困ったように眉を寄せ、
「いや……仙台の若い世代は、ほとんど標準語に近いんだ……『ジャス』や『くろちよる』なんかの独特の単語も、あるにはあるが……」
「うわぁんっ、ぼくはどうしたらあぁっ!」
三河はジタバタと足を踏み鳴らす。
「相模も言ってたじゃんか、一つずつだって。もともと三河は台詞を棒読みするヤツじゃないんだし、慣れてくれば取り戻せるって」
三河の好きなセサミクッキーを取り出してみても、三河の尖った口は引っ込まない。
するとなにを思ったか、がばっと顔を上げた。
「あーもー、陸奥君も伊達君もなんだかずるーいっ! 励ましてっ!」
陸奥と伊達は顔を見合わせる。
「……ずるい、のか?」
「かなぁ? ……で、三河はどう励まして欲しいのさ?」
陸奥の問いかけに、三河はビシッと指を立て、
「二人でなんか歌ってよー! ぼく、二人の歌聞いてみたい!」
にっこり満面の笑みでねだる。
その顔を見るに、二人に歌をせがみたくてワザと拗ねてみせたらしい。
二人も三河の思惑に気付き、もう一度顔を見合わせる。
「……やられたな」
「やられちゃったね」
別に構わないといった風の陸奥に対し、伊達は周囲を気にしている。ここは人気が少ないとはいえ、全くないわけじゃない。
「オレも二人の歌、ちゃんと聞いてみたいな」
「おー、聞いてみてぇ! 二人はコンクール出てたんだよな? 去年の課題曲とか、なんか一緒に歌える曲あんだろ?」
あと一押しとばかりに、オレと相模も口を添える。
なにより、キラキラと期待に満ちた三河の視線に耐えかねて、ついに伊達も折れた。
二人で曲目とパートの確認をする。といっても、陸奥はソプラノだし伊達はヴァリトンだから、打ち合わせは二、三言だ。そのこなれた様子がまたカッコいい。
二人は立ち上がり、呼吸を整える。陸奥の凛とした声が主旋律を紡ぎ出すと、そこへ伊達のヴァリトンが柔らかく重なっていく。
聞いたことのない曲だけど、心地いいハーモニーがすんなり耳に染みてくる。
顔も声もよろしいなんて、なんともうらやまけしからん……なんて、そんなネガティブな感情も、甘い歌声がたちまち吹き飛ばしてしまう。
ふと気付くと、渡り廊下で足を止めている生徒がいる。中庭に面した窓から身を乗り出している生徒も。
このゲキ高では、絶えずどこかの教室から発声練習の声が響いてくるけど、コーラスが聞こえてくるのは珍しい。
それもこんな綺麗な歌声となれば、視線を集めてしまうのも無理はない。
歌い終わると、二人は揃って頭を下げた。
「すっ……げー!」
「いや、ホントすげー!」
「ありがとう二人とも~っ! ぼく感動しちゃ……」
三人で拍手しようとしたその時、三河の言葉を遮って、ツツジの茂みがガサガサと鳴った。
「ひっ!」
思わず相模の後ろに隠れる三河。
「おい、なんだ? そこに誰かいんのか?」
相模の問いに応えるように、茂みが激しく揺れる。そしてその間から、一人の男が立ち上がった。
ガリガリに痩せた身体に、天然パーマで鳥の巣のような頭。真っ黒なクマにふちどられた目は、まるで獲物を見つけた肉食獣のようにギラついている。
その風貌はまさに……
「あ、あ……ふ、不審しゃ……!」
三河がどもりがちに悲鳴をあげる。
ソイツは不健康そうな見てくれに合わない俊敏さで茂みを飛び出すと、呆気にとられている陸奥に近づく。
「どってんしたー……わぁついじゃ! わついじゃ!」
「え?」
鼻息も荒く、興奮したようにまくし立てるソイツの言葉は、そんな風に聞こえた。でもなにが言いたいのかはさっぱりわからない。
ソイツはオレ達の混乱などお構いなしに、陸奥の手をがっしり握った。
「わついじゃ! としあべこ? どきゅへ? なのなめぇすぃがへてけね、なも! ◯◇★*#、@※☆●□~!」
とうとうオレの耳が追いつかなくなった時。突然のことに凍りつき、なすがままになっていた陸奥が突然沸騰した。
「~~っ! はんかくせぇヤツだな、がたがだがだめぐな! おめがしゃべってることだばなもわがらねっ! □※*◇#~〇★◎-っ!」
得体の知れない男に、知らない言葉でまくし立てられる恐怖で、タガが外れたようだ。
陸奥も負けじと秋田弁で言い返し、渾身の力でソイツを突き飛ばす。陸奥の言葉も半分くらいしか聞き取れなかった。
ソイツは地面に倒れると、そのまま動かなくなった。
「うわぁ……なんだコイツ、マジで不審者? てか陸奥、テンパると訛るんだな……」
後半くだらないことを呟いた相模に、陸奥がツカツカと詰め寄る。
「相模っ、おめもはんかくせぇヤツだな、なしてたしげでくれねンだ! ご自慢のチャンバラの腕ぁなんとした!」
まだ訛ってる……相当怖かったらしい。
助けに入らなかったことを怒っているようだと察して、相模は両手を合わせる。
「わりわりぃ、咄嗟のことだったからよぉ。そんな怒んなよ、なんも被害なかったんだから」
「被害なぐねっ!」
怒鳴り散らして、陸奥は不審者に握られた手を、相模のシャツで忌々しげに拭った。
ふぅっと息をつくと、ようやく落ち着いた様子で、
「で、コイツなんなの?」
足元に転がるソイツを冷ややかに見下ろす。三河はまだ相模の後ろに隠れたまま、恐る恐る顔を出す。
「不審者かなぁ……先生呼んでこようか?」
それに首を振ったのは伊達だ。
「……いや、自分達と同じ生徒だろう……『どきゅへ?』は、同級生かと聞きたかったんだ……多分……」
「えぇっ! 伊達、コイツの言葉解ったのか?」
伊達はまたゆるゆると首を振る。
「……いや、そこだけだ……青森の方の言葉じゃないかと……」
ついに方言界の大御所、最も難解と言っていいだろう津軽弁のお出ましかっ!
「それにしても、一直線に陸奥に向かっていったよな。知り合いじゃないのか?」
聞けば陸奥は忌々しげに眉を寄せ、
「横浜の知り合いなんて、お前らと叔父さん叔母さんくらいだよ」
苛立ちを隠しもせずに吐き捨てる。
一向に起きないソイツに、別の意味で三河は顔を青くする。
「動かないねー……やっぱり先生、呼ぶ?」
「いやぁ、見たトコ倒れた時に急所をどうこうしちゃいなかったぜ。すぐ目を覚ますだろ。
それにしても、知り合いじゃねぇとすると……」
意味ありげにアゴを撫で、相模はニヤニヤと犬歯をのぞかせる。
「とうとう、陸奥クンのぷりちーなケツが狙われる日がきちゃったかぁ?」
「上等だよ相模。まずはお前から掘ってあげようか?」
コレでと言いたげに、陸奥は近くにあった箸箱を掴み顔の前にかざす。
……いや、あの、その箸箱オレのなんだけど……
相模はともかく、箸箱の貞操を守るべく話題を逸らさねばっ。
「陸奥の歌に惹かれて来たのかもしれないじゃん。陸奥のボーイソプラノは実際見事だし……」
「ボーイソプラノではありません、ソプラニスタです」
「え? うぉあっ!」
声がした方を見れば、半ば忘れていた不審者がむくりと身体を起こしていた。
ソイツは何事もなかったかのように立ちあがり、陸奥に身体を向けたまま、顔だけこっちに向けオレを見る。陸奥は握っていた箸箱を短剣のように構えた。
……だからそれ、オレの箸箱……
「話し声を聞くと、高めの声とはいえ変声期は終えられているようですから、ボーイソプラノと呼ぶのは誤りです。
変声期後であればソプラニスタ、あるいはカウンターテナーと呼ぶのが適切です」
突然標準語に切り替わり、淡々と知識を披露するソイツは、さっきまでとはまるで別人だ。両目のギラつきは拭ったように消えうせ、黒々とした静けさを保っている。
陸奥は警戒を解かないまま反論する。
「誰だか知らないけど、よく知ってるね。だけど日本じゃ、ソプラニスタもカウンターテナーも、数が少なすぎて知られてない。ボーイソプラノの方が通りがいいでしょ」
するとソイツは、意を得たりとばかりに深く頷き、ずいっと陸奥に一歩近づく。陸奥はすばやく二歩下がる。
「そうです。変声期を終えてなお女性の音域を出せる人間は、日本人じゃなくとも数少ない……特に日本人の声質は、ボーイソプラノには不向きだと言われています。
なのにあなたは変声期を終えてなお、かなりの高音域まで出していました。
これは奇跡と言っていい」
ソイツはオレ達が身動きするのも忘れるほど流暢に語り尽くすと、ふと陸奥のジーンズに目を落とす。
「……変声期後ですから、去勢済みのカストラータというわけでもないでしょうしね……」
ぷつん、と陸奥がキレる音が聞こえたような気がした。
陸奥は顔を真っ赤にしてベルトに手をかける。
「……どいっつもこいっつも……そんなに僕の下半身が気になるのかっ! だったら見せてやろうじゃないかっ!」
ヤケを起こした陸奥を、慌てて伊達が後ろから抱きかかえ、相模がその手を取り押さえる。
「待て待て陸奥っ、俺が悪かったっ!」
「はーなーせえぇっ!」
「……落ち着け、陸奥」
目の前で繰り広げられるそんな騒動にも、ソイツは眉一つ動かさずにいる。
流れから取り残された三河と二人、顔を見合わせる。
「……なんなんだ? この状況……」
「わかんないけど~……陸奥君の声がすっごくて、あの人の知識もすっごいってことは分かった!」
「あー……うん、そだな」
えーっと、どうしようか。
とりあえず、未だに正体不明のソイツに声をかけてみる。
「あ、あのさ……それで君はどちら様?」
ソイツはあぁと宙を仰ぎ、
「わたしとしたことが……名乗りもせず失礼を。一年一組、脚本演出科の天野耕助と申します」
と、丁寧な口調で名乗る。
アマノコウスケ? どっかで聞いたような気が……どこで聞いたんだったっけ。
おぼろげな記憶を手繰るべく、唇の内でその名前を反芻する。
天野は改めて陸奥を見つめる。黒目がちなその目は、光を吸収して反射せず、黒々として陸奥と伊達の姿を映す。
「もうすぐ脚本演出科では、劇高祭で上演する演目を決めるための脚本コンペが行われます。お二人に、是非わたしの作品に出演してもらいたいのです」
「脚本コンペ?」
オレ以外の四人は首を傾げている。県外から来た三人は仕方ないとしても相模よ。お前は希望校の下調べもしなかったんかい……
ともあれ、補足すべく口を出す。
「劇高祭ってのは、この学校の文化祭の名前。文化祭って、普通はクラス単位で出し物をするじゃん? まぁここはゲキ高だから、出し物は全部芝居だよ。
だけどクラス単位でやろうもんなら、俳優科のクラスには役者やりたいヤツしかいないし、演出科には脚本や演出やりたいヤツしかいない……
だから組を越えて、学年全体を三、四グループに分けるんだ。
それに先立って、脚本演出科じゃ劇高祭での上演を懸けたコンペをやるんだよ。
そこで上演権を得た三、四演目の中から、他科の生徒やコンペで落選した生徒は、自分のやりたいものを選ぶんだ」
「は~……そういうことか」
陸奥の腕を拘束したまま、相模がしみじみ頷く。
いや、だから希望校の文化祭くらい下見にこようぜ……
天野は説明ありがとうとばかりに小さく頷く。でもさ、と陸奥は鼻を鳴らした。
「コンペってこれからでしょ? まだ上演されるかも決まってもないのに、もう出演者探してんの? 随分自信過剰だね」
その言葉に、天野の漆黒の瞳がかすかに光る。
「わたしは必ず上演権を獲得します」
そう言い切った言葉には、少しの躊躇いも感じられない。かと言って虚勢を張っている風にも見えない。
陸奥と伊達を交互に見やり、
「あなたと、あなた。是非わたしの脚本にエントリーしてください。あの芝居にはあなたがたの歌が必要です」
天野は揺るぎない口調で宣言した。細い身体にみなぎる絶対的な自信に圧倒されて、陸奥もそれ以上茶化せなくなる。
「……本当に上演が決まったら考えてあげるよ。でもその前に訂正していきな、僕はちゃんとイチモツ持ってるよ!」
「あ、そこ拘ってたんだ」
思わず口に出してしまうと、陸奥の冷たい視線が飛んでくる。箸箱の無事の帰還は難しいかもしれない。
「不快にさせてしまいましたか。ですがそう疑ってしまうほど、あなたが見事なソプラニスタだということです。褒め言葉だと受け取ってください」
天野の言葉に、陸奥は再びフンと鼻を鳴らす。
「ムスコの存在疑われて素直に喜べるかっ。
まぁ……そこまで言うならいいよ。万が一コンペで受かったら、絶対アンタの脚本にエントリーしてあげる。楽しみだね、発表の日が」
陸奥はいつものように爽やかな笑顔で、皮肉たっぷりに言ってのける。けれど天野はそれをものともせず頷く。
「えぇ、楽しみです。わたしの脚本で、あなたがたが舞台に立つ劇高祭の日が」
天野の方が上手だった。
この自信は一体どこから来るんだろう?
陸奥から伊達と二人分の名前とクラスを聞き出して、天野はぺったぺったと気だるそうな足音を響かせ去っていく。その足元はわらじ風サンダルだった。いかにゲキ高が私服通学とはいえ、随分とラフだ。
アマノコウスケ、天野耕助……どこでその名前を聞いたんだったか、それともなにかで読んだんだったか……
「天野耕助……あっ!」
唐突に脳内検索が完了した。ようやく思い出したその名前に、全身が電気で貫かれたようになる。
「どうしたのさ、ジャン?」
やっと二人の戒めから解放された陸奥が訝しむように言う。
「天野耕助……皆、聞いたことないか? 弱冠一五歳で、テレビ局のドラマシナリオ大賞で特別賞を受賞した鬼才・天野耕助だよ!」
「?」
めぼしい反応は返ってこない。もう、お前ら本当に演劇好きなのかよっ。
「二時間ドラマ化されたそのシナリオ、結構評判になってたじゃん! モモジュンとタナエリが共演してさ!」
「あぁ~、あのタイムスリップもの?」
「あれか! タナエリの着物姿可愛かったよなぁ……って、アレ書いたのがアイツなのか?!」
ようやく手応えのある反応が返ってきた。
「それどころか、金曜の夜中にやってる五分ドラマあるだろ? あれもだよ! 局としては一時間枠持たせたいけど、学業優先するために五分枠に留めてるって、専らの噂だ!」
「………マジ?」
四人は顔を見合わせる。
深夜放送にも関わらず、若い世代を中心に話題になっているシュールな五分ドラマは、三河の部屋に集まった時に皆で何度か見たことがあった。
俳優科の注目株ナンバー一が、中学演劇全国大会銀賞演目の主演・鞍干なら、脚本演出科の筆頭株は間違いなく天野だ。実績と注目度なら桁違いなほどに。
「……おいおい陸奥、とんでもねぇヤツに喧嘩売っちまったんじゃねぇの?」
ようやく事の重大さに気づいた相模が、ぶるりと身震いする。
けれど陸奥は好戦的に唇の端をつり上げる。
「面白いじゃない。それだけの大物が書いた演目なら、劇高祭でも一番の目玉になるよね。上等だよ? 目立ってやろうじゃない」
陸奥は微塵も臆することなく目を細めた。鬼才に見込まれた男もまた奇才ということか……
おいおいおい……どうなるんだよ、これ。もしかしてとんでもないことなんじゃないか?
ふと我に返って見ると、陸奥の手から箸箱が消えている。足元の土の上に転がっていた。あぁ、もう……
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。慌てて食べかけの昼飯をかっこんで、大急ぎで教室に戻る。
──この時、オレ達はまだ誰一人気付いていなかった。
この出会いが、オレ達の将来を大きく変えることになるなんて。
<補足>用語説明
『ボーイソプラノ』
変声期(声変わり)前に、女性音域を出すことができる少年。またはその歌声。
『カウンターテナー』
変声期(声変わり)後に、裏声などを使い女性音域を歌う男性声楽家。
『ソプラニスタ』
カウンターテナーの中でも、女性音域のソプラノに相当する高音域を出すことができる男性声楽家。
『カストラータ』
ボーイソプラノの少年が、変声期を迎える前に、高音域を保つため去勢すること。また、それを行った声楽家。