開幕 「横浜人問題」
真新しい教室の中に、初々しいざわめきが満ちている。互いをさぐり合う視線が交差しあい、独特の緊張感と期待感がたまらない。
その片隅で一人、入学式直後のホームルームらしさを胸いっぱいに吸い込んだ。
今頃県立高校の新入生達は、誰しもこんな空気を味わっているんだろう。
ただ少し、他の学校と違う点が二つある。
一つは、皆私服なこと。
入学式の後だから、男子も女子も無難なスーツやブレザー姿が多いけど……
……おぉ、ロリータだ! あの子ふりっふりのロリータワンピ着てる!
あっちの男子は、「ガイアが俺に囁いている」某雑誌からまんま引っ張ってきたようなホストスーツだよ……
キミたち、それで入学式に出たんかい。
立派すぎる講堂に気を取られて、気づかなかったよ……
そしてもう一つは、希望と不安に満ちたざわめきを構成する一人一人の声が、やたらとデカいこと。
それもそうだ。ここは神奈川県立某区演劇高等学校──通称・ゲキ高の俳優科なんだから。
全国でも、公立で演劇科がある全日制高校はごくわずかだ。多分片手で数えきれてしまう。
同じ芸術分野の美術科や音楽科と比べると、悲壮感すら覚えてしまう数。
でも、しかし、だからこそ。
学区を越え、県境を越え、地方の枠さえ越えて、全国から演劇を愛する学生達が集うんだ。
四年前に設立されたばかりのゲキ高には、俳優科・総合舞台芸術科・脚本演出科と、充実の三科が揃っている。
その中で最も倍率が高いのがこの俳優科だ。
俳優科定員一二〇名のうち、推薦入試枠が三割強を占める。
その多くが中学演劇全国大会を経験済みか、あるいは外部の養成所や劇団に所属しているような猛者ばかりだ。越境の烈士はほぼ推薦組と言っていい。
それに満たない、だけど演劇が好きだという生徒は、がむしゃらに勉強して一般入試で入り込むより他ない。
倍率が高いから、当然偏差値も高い。
推薦・一般いずれも狭き門。それを突破し憧れのゲキ高へ入学できたんだから、そりゃ人一倍大きな声もますます大きくなるってもんだ。
各々、担任が来るまでのささやかな時間を満喫しているんだ。
ふと見ると、教卓近くに数人の集まりができている。一際通る声に耳を傾けると、前年度の全国大会の話をしているらしい。
……つまり、あの一団がこのクラス内の推薦組、そしてその取り巻きってことか。
視線を移せば、あちらに一群こちらに一群と、親しげな様子で集まる生徒達がいる。うっすらと見覚えのある顔だ。
記憶の糸を手繰り寄せると、彼らが神奈川県大会常連校の演劇部員達だと思い当る。
推薦組以外は、やっぱり県内の人間が多いらしい。同じ中学出身者同士、数名ずつ固まって楽しげに肩を揺らしている。
……これは想像以上の群雄割拠っぷりだぞ。
ぶるりと肩が震える。いや、これは武者震いだ。気圧されてなんかない。
オレはまた一人、大きく息を吸い込んだ。
そう、一人……
うん? うん、一人……
一人、いやむしろ独りだよ、オレ。
視線だけで周りをチラ見しつつ、しこたま吸い込んだ息を細く長く吐き出す。
……ヤバいヤバい、教室内の勢力分析してる間に、いつの間にかぼっちじゃん!
もともと同じ出身校のヤツがいないのは分かってたし、地区大会突破もままならない弱小校の出なんだ。顔見知りなんていやしない。
ここはのんびり構えて俯瞰的に見ている場合じゃなかった! 完全に出遅れた……!
あれ、ホントどうしよう。
あんまりキョロキョロしてると、「あ、アイツぼっちじゃね?」みたいに思われんじゃね?
今更立つと、「ぼっち焦ってんじゃね?」とか思われんじゃね?
誰もお前のことなんか見てないよ、自意識過剰だと言ってくれるな。
あえて言おう、ぼっちは繊細であると。
あぁ、どうしよう……再びこっそりとため息をついた時だ。
「なぁ、もしかして○○中の人?」
突然後ろから野太い声をかけられ、飛びあがりそうになる。
なんとか堪え振り向くと、筋骨隆々の小山のような男が立っていた。
褐色の肌によく伸びた手足。元バスケ部でセンターやってましたと言われたら、素直に頷ける。
その元演劇部らしからぬ姿には覚えがあった。
「あぁ、□□中の! 去年のワークショップで同じグループだった……!」
「そうそう、覚えてくれてたなんて嬉しいねぇ!」
そいつは白い歯を見せてにっかり笑うと、主が不在のとなりの席に座りこんだ。
去年、神奈川県の中学演劇連盟主催のワークショップがあった。
県内の演劇部所属の希望者を集め、交流を図る目的で催されたもので、参加者は一〇〇人を超えた。
とても全員は覚えてないけど、声も身体もぬきんでて大きく目立っていた彼のことは、よく覚えてる。
それに比べると、なんのインパクトもない自分を覚えてくれていたなんて、ありがたさで拝み倒したいくらいだ。
さっきまでのぼっちの寂しさや惨めさなんて吹っ飛んで、オレはイスごと彼に向き直った。
「あの時はお疲れさん、オレは鮎川っていうんだ」
「おう、鮎川な。俺は小島」
「よろしく小島」
「こちらこそ!」
そう言って、小島は豪快に笑った。名前は小島だけど、相変わらず身体もデカけりゃ声もデカい。笑い声はまるで地響きだ。実際、何人かのクラスメイトがこちらを振り返っている。
小島はネクタイを緩め、
「いやぁ、知った顔がいて安心したぜ。推薦組は推薦組でもうまとまってるし、強豪校の連中は連中で固まってるしよぉ」
ため息混じりに苦い笑顔を見せる。同じ不安を抱えていたらしい。
所在なさげに小さなイスの上で身じろぎするこの巨漢は、なんとも愛嬌がある。湧きあがる親近感を込めて頷いた。
「うんうん、オレも。すげーメンツに内心ガクブルしてたトコ」
「なぁんだ。一人でも平気そうな顔してるモンだから、これでも一応声かけるの気ィ遣ったんだぜ?」
それは申し訳ないことを……むしろ声をかけてくれて感謝でいっぱいだ。
そんな心の内を素直に吐露していると、小島の豪快な笑い声に誘われてか、近くにいた三人が寄ってきた。
「おはよ~。なー、君らも一般入学組?」
地毛だろうか、栗色の髪をくるくるふわふわ揺らせて、一人が口を開いた。
小島も歳不相応な外見だけど、彼も逆の意味で同じだった。
小柄な身体に、あどけない顔をちょこんと乗せている。言葉のイントネーションで西の人間を思わせた。
「おう、一般組の小島だ。こっちは鮎川」
小島が応じると、彼は人懐こい笑みを浮かべオレの前の席に座った。
「よかった~お仲間発見っ! ぼくは工藤、一般組だけど愛知から来たんだぁ。よろしくな~。はい、次!」
工藤の手のひらに促され、残りの二人に目をやり驚いた。系統は違うけど、どちらも美少年、あるいは美青年と呼んで差し支えない顔立ちだったからだ。
一人は透き通るような色白で、しっとりとした黒髪と瞳が印象的な正統派の美少年といった風。
もう一人は、眼鏡の奥で切れ長の双眸が光る、知的さ漂う純日本風の美男子だ。
まず、工藤の手の先にいた美少年が口を開いた。
「次って……まぁいいけど。僕は藤原。工藤と同じく越境組で、秋田から来たんだ。こっちも越境組の……」
語尾を引き受けるように、眼鏡の美青年が続く。
「……千葉だ。仙台から来た」
二人とも、工藤のようなイントネーションの違和感はない。役者を志す者として、苦労して直したんだろうなぁ……なんて考えていると、隣で小島が素っ頓狂な声をあげる。
「仙台って、あれだろ? 牛タンで有名な……宮城県だっけ。宮城県出なのに千葉かよ、分っかり辛ぇな」
おいおい。
内心ツッコんでいると、案の定千葉は少し眉を寄せ、
「そう……言われても。仙台では割と多い名前なんだが……」
ヘルプを求めるような千葉の視線を受けると、藤原はからかうように目を細める。
「そうだね、ちょっと紛らわしいかな」
「うん。せっかくだから、なんかあだ名つけようよ~」
工藤もどう「せっかく」なのかよくわからない提案をする。それに即座に乗ったのが小島だ。
「おっ、いいな! 仙台といや……伊達政宗! よし 、今日から伊達と呼ぼう!」
「え……いや、それは……」
小島の有無を言わさぬ勢いに押されつつも、宮城……いや、千葉はもごもごと抵抗を見せる。
そこへ藤原が畳みかけるように蠱惑的な笑みで言う。
「牛タンってテもあるね、どうする? それともずんだ餅?」
「…………伊達で、いい」
千葉はうっそりと頷いた。
抗っても無駄だと早々に悟ったのか、もともと押しに弱いのか……うまいこと助け舟出せずすまんと、千葉改め伊達に心の中で手を合わせた。
「いいなぁ、あだ名! 仲良しってカンジするなー 。ぼくにもなんかつけてよ~!」
まるで小学三年生のノリだな、工藤は。
語尾を緩く伸ばす口調が幼さを増長している。それでも何故かイラつかないのは、彼が全身から醸すのほほんとしたオーラのせいなのか。
小島はうーんと腕組みして、
「愛知だったか、工藤は。愛知のどこだ?」
「名古屋市よりも東の、豊川市ってトコでー……」
「あー。うん、じゃあ三河な!」
どうだとばかりに人差し指を突きだす小島に、伊達が首を傾げる。
「……三河なら、三河の虎こと徳川家康がいただろう? 戦国武将好きなのかと……」
「それも思ったけど、この顔に『家康~!』って呼べるか?」
小島の言葉に、思わず伊達と藤原と顔を見合わせる。
まぁ、確かに。江戸三百年の歴史を開いた家康公とは、全くイメージが違う。
「三河! いいね~ありがとー小島君!」
いや、本人が気に入ったならいいけど……礼を言うほどのもんでもないと思うぞ。
新しいあだ名にはしゃぐ三河は、秋田出身の藤原の顔をまじまじと見やる。
「じゃあ、藤原君は~……秋田って出羽だったっけ? 陸奥だったっけ?」
「え、僕にもあだ名けるの?」
「そりゃそうだよぉ、伊達君にだけ押しつけるのいくない」
嫌そうな顔をする藤原に、三河は両手を突き出しノーと言う。
確かに言い出しっぺじゃないが、伊達にあだ名を容認させたのは藤原によるところが大きい。
うんうん、押しつけるのいくないと復唱して頷くと、藤原は不服そうに口を尖らす。
「えー……それなら、僕の実家があるところは出羽だけど。陸奥の方がかっこいいから陸奥がいい」
「え、なにそれ、カッコイイからとかアリなの?」
「どうせあだ名なんだから、なんだっていいでしょ」
思わず口を挟むと、藤原は面倒くさそうにパタパタと手を振った。
……まぁ、確かにあだ名だから、分かればいいけどさ。
ともあれ、それ以上誰も突っ込まず、藤原のあだ名が陸奥に決まると、話の矛先がこちらに回ってきた。
「二人は神奈川の人~?」
「あぁ。俺は神奈川ン中でも山梨寄りの方なんだ。古い地名は相模だな」
「なら、小島君は相模君~! 鮎川君は?」
のほほん三河の主導で、ぽんぽんとあだ名が決まっていく。尋ねられて首を捻った。
「オレは生まれも育ちも横浜だよ。古い地名は……って、な、なに?」
話の途中から四人の間に漂い始めた微妙な空気に、思わず腰が浮きそうになる。
ふぅっとため息をついたのは陸奥だ。
「でたでた。鮎川も出身の都道府県を聞かれて、『横浜』って言っちゃう人なんだね」
「うんうん、前にテレビで言ってた~、横浜人には横浜人のプライドがあるんだって~っ」
「同じ神奈川県民から見ても、ちょっと鼻につくんだよなぁ、『出身地横浜』っつーヤツ」
「……宮城県民が仙台、愛知県民が名古屋と言うのと比べても、やはり別格だな、横浜は……」
人畜無害そうだと思っていた伊達にまで言われてしまい、俄然焦る。
「い、いや、だって今は神奈川県民って前提があったじゃん? それに、伊達だって仙台出身だって言ったじゃんか」
「仙台や名古屋は、『仙台県』『名古屋県』があると思ってる他県民がいるくらい、県名がマイナーだからだよ。横浜は横浜がメジャーだと思ってるからそう言うんでしょ」
理由が違うよねぇ、と陸奥に同意を求められ、再びうっそり頷く伊達。
なんなんだ、この二人の「ちょっと毒のある主人と従順な僕」っぷりは……
でもそれぞれがイタズラっぽく笑っているので、本気じゃなくただのイジリだとわかってホッとする。
その時、教室のドアが開いて担任の先生が入ってきた。
「おっと、じゃあ鮎川のあだ名はまた後でな」
「だね、またあとで~」
手短に言い交わし、各々席に戻っていく。
ラッキーなことに、このクラスの担任は若い女の先生だ。先生の号令で起立・礼を済ますと、この特殊な学校についての簡単な説明が始まった。
あぁ、このあとは自己紹介とかやるんだろうな、面倒だな……そう思いながらも、気持ちは晴れやかだった。
なんとなく集まった五人。
中学で演劇に関する優秀な成績を修めた推薦組でもなく、地元の強豪校出というわけでもない。
それらの枠からあぶれた、いわば余り物のような五人。
こう、なんとはなしに湧き上がる、安心感と親近感。
机の下で、よしっと一人拳を握る。
教室に入った時の焦りも劣等感ももう感じない。もちろん、ぼっちの疎外感もない。
ふと見れば、窓の外には桜の枝が揺れている。もう大分花を散らせて寂しくはなっているものの、残りわずかな花弁を誇らしく陽にかざしている。
自己紹介が始まった。いよいよゲキ高俳優科一年生としてスタートだ。
出席番号順でいくと、オレは二番目。
心地よい緊張を感じつつ、小さく息を吸った。