俺は彼女が好きだった 彼女は弟が好きだった
あの日、あそこを通らなければよかった。あのときの俺はこんなことになるなんて思わなかった。あの日は何と無く遠回りをしたい気分だった。いつもの道を通りたく無い。なんでそう思ったんだろう?とあるビルの前を通りかかった時、髪の長い、桃色のワンピースを着たまさに俺のタイプと言わんばかりの美人がめそめそ泣いていた。とにかく訳ありという匂いがぷんぷんしたけど、声をかけちゃった、当時の俺…。
「俺、田丸将大って言うんだけど、君何かあったのか?」
「わ…私…梨子。弟に逃げられちゃった…」
どういうことだろうか?弟に逃げられた、というのは。
「梨子さん。弟に逃げられたってどういうことですか?あ、差し支えなければ教えてください」
「いい?引かないでよ?私は実の弟を愛していたの。彼のためなら何でもしてあげたいし、彼のためならどんなことでもいとわないつもりだった。でも、弟は私の愛に答えるふりをするだけして、彼女と逃げた…」
「酷い弟さんですね!」
「同情してくれる人は初めてよ。あなた、変わってるわね。」
あの日、梨子に出会った。俺の人生を変えた女だった。それから梨子と暮らし始めた。梨子はいつまでたっても弟のことを忘れなかった。でも俺はそんな彼女が大好きだった。彼女は俺に笑ってくれる。彼女の喜ぶことなら何でもしたい。彼女の笑顔は素敵だ。
そんな暮らしを続けていた。あの日までは。あの日、というのは俺が偶然勤め先の高校で彼女の弟であるミーシャを見つけてしまった日のことだ。そして彼女に喜んでほしくてそれを言ってしまった。
「ミーシャ君ね、どうやら俺の高校にいるみたいなんだ」
それからアンナの住所を彼女に教え、『ニゲラレルトオモウナヨ』の文章を送り、なすびのアンナへの気持ちを利用すべくメールを送ろうとメルアドを彼女に教え、さらにアンナが稀血だということも彼女に教えた。今思えば、なすびへのメールはいらなかったかもしれない。彼は自らアンナへ告白しようとしていた。ふられて終わったようだが…。
彼女は俺が新しい情報をもたらすたびに笑顔で喜んでくれた。でも、途中からなんでこんなことしてるのか分からなくなった。だって、どんなに彼女に尽くしても彼女の弟への思いは弱まるどころか、どんどん強くなっていく。たまらなくなった俺は嘘をつきはじめた。
「あの女はアンナじゃない。隣のポニーテールの女がアンナなんだ!」
これは鏡花によるアンナ誘拐の後に彼女についた嘘。八千代はいつもポニーテールをしていた。
「どうしてこの女を殺さないの?」
「残念だけど礼音君は亡くなった」
これは鏡花についた嘘。
俺が嘘をついているって知った彼女の顔は恐ろしかったが、気づいて欲しかった。弟じゃなくて俺を見てくれ。そしたら皆幸せになれるはずなんだ…。
「田丸先生。今更私を止めようたって無駄よ。あなたも同罪よ。生徒の個人情報を勝手に漏らすとか立派な罪じゃないの」
「分かったよ。とにかくやればいいんだろ」
田丸先生はワゴン車のエンジンをかけた。
***
「とにかく行くわ。地下駐車場に」
アンナが立ち上がった時、ミーシャの携帯が音を鳴らした。電話がかかってきたようだ。発信者は如月八千代となっている。一か八か、ミーシャは電話に出た。もしかしたら八千代が普通に「迷っちゃった!」とか連絡してくるかもしれない。そんな淡い期待も半分あった。しかし、ミーシャの淡い期待は裏切られる事になる。
「もしもし、八千代?ミーシャだけど…」
『クスクス…元気かなあ、ミーシャちゃん?』
聞き間違いなどするわけがない。梨子だ。八千代の携帯から梨子がかけてきたのだ。思わず携帯を叩きつけた。
「ミーシャ、梨子なの?!」
アンナが慌てた。不安は的中してしまったのだ。キングが叩きつけられた携帯を取った。まだ、切れていない。キングは電話に出た。
「八千代、そこにいるのか?!」
「この子の彼氏かな、君は?もちろんいるわよ。じゃあ、この施設から一番近いビルで待ってるから必ず来なさいよ」
電話は切れた。
それから4人は施設から一番近いビルに辿り着いた。迷う事なく辿り着いたのは、該当しそうなビルがここしかないからだ。ビルの窓に人影が写り込んだ。八千代と梨子だろうか…?
***
八千代は薄暗いビルの一室で目覚めた。どうやら私はソファの上にいるらしい。そばで梨子が包丁を物色している。
「梨子さん…だっけ。こんなこと、やめた方がいい。今なら取り返しがつく…こんなことしても何にもならない!」
「私の事心配してるくらいなら自分の心配をしなさい。私はもう覚悟出来てるの」
梨子はそう言って包丁を八千代の喉元に当てた。八千代は負けまいと強情な姿勢を崩さなかった。
「弟が好きなんて、おかしい。この変人!私は関係ないわ、あなたのわがままに巻き込まないでよ。」
「八千代さん。自分の立場分かってないなぁ。」
包丁を八千代の喉元に当てたまま、もう一方の手からナイフを取り出して今八千代のいるソファに刺した。包丁で刺されるかと冷や冷やしていたが、何故か梨子はそうしなかった。梨子は包丁を引っ込めてしまった。八千代は包丁が引っ込んだ拍子にソファから飛び出し、逃げようとした。ところが梨子が八千代に向かって突然銃で発砲した。
「せいぜい頑張って逃げることね」
梨子は一体いくつの武器を持っているのだろうか。ちょうどドアの前に来た。ノブを回す。何故か鍵はかかっていない。じりじりと銃口をこちらに向けて近づいてくる梨子。
「田丸先生。そこにいるのは分かってるわよ。さっさと出てきなさい」
「え…⁉」
物陰に話しかける梨子。その物陰から誰かが出てきた。紛れもなく田丸先生だった。八千代は一瞬、田丸先生が助けに来たのかと思った。しかし、様子がおかしい。まるで梨子が田丸先生をよく知っているかのようなのだ。八千代はアンナがなすびに伝えたことを思い出した。アンナ誘拐の時に聞いたことだった。
この学校にストーカーの協力者がいる。
「まさか」
八千代は絶望した。
「田丸先生…嘘だよね、嘘って言ってよ!ねぇ!」
田丸先生は何も喋らない。八千代はドアを開いた。非常階段なのだろうか、階段が続いている。八千代は開いたドアから一目散に逃げようとしたが、梨子が銃をまた発砲し、足がすくんで動けなくなった。
「八千代!」
キングの声がした。下を見下ろすとキング、アンナ、ミーシャ、なすびがいた。
「みんな来たみたいだね。さて、八千代ちゃんごめんね?文句ならアンナにでも言いなさい。まあ死人に口無しだけど」
梨子が八千代に向かって引き金を引こうとしたその時だった。
「姉さん!」
ミーシャが鞄から何か取り出した。銃だった。そしてそれを梨子のいる方へ向けた。
「八千代を撃ったら俺も姉さんを撃つ!」
隣ではキングが『そんなの鞄に入ってたの?!』とうろたえている。
「撃てるの?撃ってみなさいよ」
梨子はミーシャを挑発する。ミーシャの手が震えている。田丸先生はそれを見て、恐らく無理だろうなと思った。
「じゃあ、マーくん。アンナを連れて来てくれるかな。なるべく早くしてよ」
梨子に急かされて田丸先生が地上に降りた。そのままアンナの手を掴む。なすびやキング、アンナは八千代と同じように驚いていた。
梨子は引き金を引こうとした。田丸先生は決心した。
次回で完結予定。