女王の図書館
ファンタジー百合小説です。軽い同性の恋愛表現を含みますので注意。
私立早見坂図書館。わたくし事の図書館ではあるが、自国だけではなく東洋、西洋との文書がそろい世界一の蔵書を誇る、私の都市の図書館である。数千年前の書物から、今朝発行されたような新刊までそろっているということで、図書館を一目見ようとこの町を訪れる観光者で常ににぎわっている。この地にたてられてから数百年と立っているので、建築物としても評価が高いそうだ。そして今、私はその誉れある図書館にいるわけで。
「うーん」
悩んでいた。この図書館、あまりにも来場する人間が多いせいで、蔵書を借りることは基本的にできない。まあ、その蔵書を博物館に展示する、というのならば別で貸し出しを行っているのだが、一般人は本を読む際、図書館内で読むことになっている。私はこの建物の居心地がよく、ほぼ毎日居座っているので気にはならないが。そうやってどうでもよいことも考えてしまうほど、私の心は目の前の仕事が上の空というわけだ。
(私の才能も落ちぶれてきたのかなあ・・・・・・)
心の中でそっとつぶやく。目の前にあるのは使い込まれたペンと、大量の原稿用紙である。最近はほとんどの作家達がコンピューターに移動していく中、アナログで作業するのは自分ぐらいだろう。機械で文章を書くよりも、紙の手触りが性にあっている。
小説家、という仕事は才能史上主義の世界であり、自分もかつて神童とささやかれた一人である。とはいえ、いくら才能があったとしても思いつくものがなければ書きようもない。もし、この作品が駄目になったとしたら、「奇跡の十六歳」といってもてはやされたことも過去のこととなり、人々から忘れ去られることになる。それだけは絶対に避けなければならない。
再び私はペンを握り、文字を紡いでいく。このシーンは主人公の過去に続く大事な部分で、でもこの人物がの心情も重要だから――駄目だ、全くまとまらない。私は匙ならぬペンをなげ肩を落とした。
しばらく机の上に突っ伏したのち、考えをあらため、この図書館を散策する事にした。ただ机の上で悩むよりも、ほかの作家の作品にふれる方が有意義に過ごせるだろう。
やることが決まったのならあとは実行するだけだー私は机に散乱した資料と紙を片づけて、階段をかけあがった。
もう何階についたのだろうか。息を切らし、思考をたぐり寄せる。
いきおいだけで、階段を上ったはいいものを全く何も考えていなかった。
「というか・・・・・・こんなところ初めてきた」
世界一の規模と謳われるこの図書館だが、まさかここまで広いとは思わなかった。本は重なると非常に重く、そうやすやすと何十階も建てれるものではないと思うのだが。
「しかし、ほんとに人気ないなあ」
町には、この場所に訪れるためだけに押し寄せる人々が一杯だというのに。ここは書庫かなにかだろうか。この図書館は、年季を感じさせる外観とはうってかわり中身は最新の設備なのだが、ここは外観相応の時代が感じられる。
よく見てみると、本棚以外にも丁寧に刺繍されたソファーや、ガラスケースがあったので書庫ではなく個人の書斎のような気がしてきた。
「でもこんな図書館に、何で書斎があるんだろう」
外国では、外装は城であっても、中身は役所、ということが多いそうだ。この場所がはじめから図書館ではなかった可能性もある。
だが、ぱっと見た限り薄暗いだけでほこりはつもっていないし、人が住んでいる形跡がありそうだ。
「しかし散らかってるな」
この部屋の主はあまり整頓が得意ではないのだろう。あちこちに積み上げられた本が散乱している。むしろホコリが全くといってないのが不思議なくらいだ。
「うわ・・・・・・この本今日発刊されたばかりの文庫本じゃない」
これもこれもと、新刊ばかりが積み上げられ置かれていた。それも日が経ってないようなものばかり。目を輝かせて本にふれてみると、明らかに人が触れた形跡があった。
「この人速読でもならってるのかな・・・私でもこんなに速く読めない」
作家であるということは読書家であるということだ。そう人生は長く生きてはいないが、自分だって読む早さには自信がある。けれども、一日では10冊が限界だ。ここにある本はゆうに五十冊を越えているだろう。
「ほかにもなにか知ってる作品はないかなあ」
まだ知っている本はないかと、あたりを見渡してみる。ずらりと並ぶ棚の中に見知った背表紙を発見した。
「これもしかして・・・・・・」
浅井響子、と書かれている。間違いない、先週出版した私の小説だ。手に取ろうとしたがいかんせん、そこまで手が届かなかった。何か台の変わりになるものを探し、部屋探ししてみる。そこで机の前にあったイスがちょうどいいと思いそれに乗って手を伸ばす。
「もうちょっと、もうちょっと」
イスに乗っているおかげで大分距離は縮まったが、それでもまだ届かない。
「えいっ」
私は思い切って背伸びをした。すると目当ての本に手が触れ、やったーそう思った瞬間、気が抜けたのか勢よくバランスを崩しその場に崩れ落ちた。
「んーん?」
曖昧なまどろみの中、少しずつ意識が鮮明になっていく。ここはどこだろう、たしか最後に覚えているのは書斎に入ってから私の本を見つけたところでー
「え?今何時なの!」
ふりかぶって勢いよく飛び起きたせいでそばにあった辞典に頭を打ち付けた。
「いててて・・・・・・」
頭に手をあててしばし悶絶する。ここは少し冷静になってから考えることにしよう。
窓の外を見ると既に日が暮れていた。月がよく見える場所だったので明かりがなくとも、部屋の様子は十分にうかがえそうだ。
この図書館はいつも6時には閉館していて、ここまで長居したことがない。とりあえず受付に行ってみよう。
起きあがって扉に向かい、手を伸ばす。とにかくここを出ないとーそう思ってドアノブを回す
「あれ・・・・・・回らない」
がちゃがちゃと、無機質な音が部屋に響く。
「もしかして、鍵かかってるの」
ここに入ったときは、誰もいなかったはずだが。閉じこめられた可能性も考えてみるが、下に鍵がついていた。
そもそも開きっぱなしだったこの部屋を何で鍵なんて付けるんだろうと、考えたとき後ろから声をかけられた。
「あら、もう起きたの?」
「ひっ!」
思わず後ずさる。つい今の今まで人の気配など微塵も感じてなかったはずなのに。驚いて振り返ると、そこには美しい女の人がいた。
肌は透けるように白く、整った鼻筋は外国人なのだろうと想像させる。おまけに金髪碧眼であったので明らかに自分とは違う人種だと、瞬時に判断できた。
「ずっと気を失っていたから、気になって見ていたの。部屋に戻ってきたらいきなり女の子がたおれているんですもの」
目の前の女性は微笑を浮かべながら、優しく声をかける。彼女のたち振る舞いは、女王のようにしたたかで高貴だった。
「いえ、こちらこそ勝手に部屋に入ってしまってすみません」
頭を下げる。勝手に侵入した上に、倒れられたらさぞかし迷惑だっただろう。精一杯の誠意を込めてお辞儀をした。
「いえ、私の方こそ鍵を締めていませんでしたから。お気になさらず。でもこんな若い方と出会えるなんていつ以来かしら」
「え?」
このひとと私はそう年が離れていそうにないと思ったのだが。以外と若作りしているほうなのだろうか。
「いえ、こちらの話です。あなたのお名前は?」
「えと、私の名前は浅井響子です」
「あさい・・・もしかしてこの本の作者のひと?」
女性が落ちていた私の新刊を手に持ち問いかける。
「ご存じなんですか!」
まさかこんな経験も浅い自分を知っていたのだと驚いた。
「はい、あなたの作品はすべて読んでいますよ。特に『あの丘の下で』のシリーズがすばらしくて」
「ほんとうですか、ありがとうございます!」
思わず嬉しくなっていきおいよくお辞儀をする。そんなわたしを見て暖かく微笑んでくれた。
「どういたしまして、私もすてきな物語をありがとう、あなたとはぜひ本のお話をしたいわ」
「そういえばあなたのお名前は何ですか?」
ここまで話していて、彼女の名前を知らないことに気づいた。もっと丁寧な言い方は出来ないものかと自問しつつ、彼女に問いかける。誰しもこの女性と離していると、圧倒的な気品のせいでつい敬語口調になってしまうだろう。
「ああ、ごめんなさい、いってなかったようね。私の名前はカチルこの図書館の館長もつとめているわ」
「館長!?わわわ、すいませんそんな偉い方に起こしてもらうなんて」
「いえ、館長といっても名ばかりなので気にしないで」
「こんな綺麗な方が館長だったら、この図書館も幸せですね」
「ありがとう、そういってもらえたのは初めてよ」
「そうなんですか!?」
「ええ、友人と呼ばれる人もいないからあなたと会えて嬉しいわ」
はにかんだような笑みを見せた彼女に、私は思わず見とれてしまった。
(ほんとに綺麗だなあ・・・・・・)
よくテレビにでてくる芸能人を見て、美人と思ったことは何度もある。けれどもなんというか、胸を鷲掴みにされるような感覚。作家をやっているくせに綺麗な言葉で言い表せないのが悔しくてたまらない。
少しの間、カチルに見とれているとコンコンとノックをする音が響いた。
「どうぞ、入って」
「失礼いたします、お嬢様」
ドアが開けられた先には、これはまた色味を感じない女性二人が立っていた。
一人の方は黒髪に黒い燕尾服をまとい、もう一人は白髪に白い燕尾服を身にまとっていた。対になっているかのような衣装に続き、これはまた同じ顔できっと双子なのだろう。
彼女たちは、突然の来訪者に驚きを隠せないようで、しばらくは二人でなにやら話し込んでいたがやがて、黒い女性が口を開いた。
「あらそのお方は、お嬢様の・・・・・・」
言いかけた言葉を遮るようにカチルは続ける。
「いえ、彼女はついさっきお友達になってくださったのです。響子さんといって、作家さんなんですよ」
そういってカチルは私のほうに手を差し伸べた。彼女が自己紹介をするタイミングを作ってくれたのだろう。
「浅井響子と申します。今日は夜遅くに来て申し訳ありません」
二人に軽くお辞儀をする。彼女たちは顔を見合わせそしてこちらを振り向いた。
「それは失礼しました。私たちは当館の司書とカチル様の執事をしている者です。私はハイネ、こちらはシロナと申します」
「先ほどの無礼をお許しください」
彼女たちは深々とお辞儀をした。整えた髪は一本も落ちることがなくやはり本業の礼の仕方は違うのだなと感じた。
「ではご紹介もこのあたりで。お嬢様、晩餐の準備が整っております。今宵はどうなされますか」
カチルは少し表情を濁らせ、彼女たちに口元で何かささやいた。私には聞かれたくない話なのだなと思って聞かないようにしていると、カチルはほほえんだ。
「大したことをはなしていた訳ではないの。ほら、食事はでてきたときにメニューがわかった方が面白いでしょう?」
「それもそうですね」
「あと私に対して敬語はもう使わなくても大丈夫よ。カチルで大丈夫」
「じゃあ、私のことも響子って、呼んでくれる」
上目遣いにお願いをする。すると
「今日から友達ね、響子。これからもよろしく」
彼女も恥ずかしかったのか、少し照れて答えてくれた。
***
食事をすませて、出口まで送りに来てくれたカチルたちに別れをすませ、この早見坂図書館を後にした。
(ほんとうに夢みたいな時間だったなあ)
美しく華やかなカチル、絵に出てきそうな二人の使用人、豪華な食事の数々。それらがすべて日常からかけ離れていて、夢のような時間だった。
別れる直前に、カチルは療養中の身でいつも部屋にいるから是非また来てくださいと言い、再び会う約束も交わした。
(明日も図書館に行こう)
世間はいわゆる冬休みで、別に予定があるわけではないのだ。
(それに親がいるわけでもないし)
私の父は単身赴任で海外におり、母は医者で帰りが遅いのだ。付け加え、自分は内気な性格もあってか友人とよべる人間も少なく、遊ぶ予定もない。そもそも作家家業の忙しさで、ろくに関わろうとしていないだけなのだが。
今日の長い出来事を思い返しながら、私は眠りについた。
「これで宜しかったのですか」
突然の来客者を見送ったあとそっとハイネが主人に耳打ちした。双子の姉のシロナも不服そうだ。
「ええ、久々に人間と話せて嬉しかったわ」
人間が好きで、多くの書籍を読み漁っては来たが、生身の人間と話をするのは、実に数百年ぶりだった。
「そうですか、私たちはてっきりお嬢様の贄だと思いましたわ」
「なのにあの下等生物はえらそうに。カチル様ほど高貴な方に対して」
今まで、同族も含めても話し相手は彼女たちだけだった。きっと嫉妬してくれているのだろう。ほんとうに可愛い子たちね、と悟られないように心の中でそっとつぶやく。
「そんなこと言わないで、ハイネ、シロナ。せっかくできたお友達なのに」
二人は、顔を見合わせてためいきをついた。
「それよりもさきほどはお食事を妨害されましたが、どちらにしましょうか」
「そうね、おいでハイネ」
「かしこまりました。お嬢様」
ハイネは自分の襟をゆるめてカチルのそばに寄り添った。
カチルは彼女の首筋を指でなぞる。ハイネは恍惚めいた表情を浮かべながら、これからの”食事”を待っている。
カチルはハイネの細い腰を抱きしめて、ゆっくりとその首筋に顔を埋める。そのとき彼女の口からは鋭い牙がのぞかせていた。
あ、と黒い執事は押さえ気味の声を上げる。静まり返った部屋は、彼女たちの吐息と、血をすする音だけが響いていた。
その様子を静かに見守るのは白い執事のシロナである。彼女は普段と変わらない食事風景をただじっと見つめていた。
彼女たちは図書館に巣くう美しくも残酷な吸血鬼だった。
朝。重いまぶたをやっとの思いで持ち上げて背伸びをする。この季節になってくるとほんとうに朝が辛い。ベットから体を起こすと、机に目が向かった。机には片づけていない原稿が散乱している。
(そういえば小説の内容を考えていたんだっけ)
昨日の事の発端は、小説の案が煮詰まらなくて現実逃避したことだった。でも今ならーなにか思いつきそうな気がする。
「そうだ!」
カチルや執事達をモデルに図書館が舞台のファンタジー小説を書こう。図書館には女王がいて、そこに迷い込んでしまった女の子の物語、これだ。
私は机にかじりつき、ペンを握る。方向性が決まったら話は早い。いままで悩んでいたのが嘘のようにペンが走る。
(きっとカチルのおかげだ)
謎めいた彼女の事を思い出す。この作品は一番にあのひとによんでもらいたい。
「そのためにも頑張らないと」
息を大きく吸い、彼女は仕事に集中し始めた。
今日もまた図書館に来てしまった。昨日のような焦燥感はない、とても晴れやかな気持ちでここまでやってきた。この気持ちを代弁するかのような空模様も、私の機嫌をよくするのに一役買っている。
まずは新しい小説の話を聞いてもらおうと、カチルの部屋に行こうとすると、ふと昨日の話を思い出した。
「基本的にいつ来ても私はいるのだけど、朝が弱くて昼間の間は会いに来てもらっても起きれないの。だから私のところには図書館が閉まるぐらいにいらっしゃい」
彼女はこんなことを言っていたような気がする。
(でも、なんで昼間起きてないんだろう)
ふつう、病人は規則正しい生活で寝起きするはずだ。昼夜逆転などもってのほかだと思うのだが、そのあたりはいいのだろうか。そういえば、この前読んだ本に、日に当たれない病気があると書いてあったな、彼女もそういった病気なのだろう、と私は自己完結することにした。
(それよりも、今はこの仕事が大切だよね)
今は小説のことが気がかりだ。せっかくのこのよい流れをつぶすわけにはいかない。
ペンを握り私は為せる限りを尽くした。
「あの子は今日も来るかしら」
ぽつりと、ひとりごとをいう。人気のない書斎に彼女の声が響きわたった。うっすらとひかりが籠もった部屋で、時計を探すと正午を過ぎたところだった。
「すこし早かったかしら」
よっこいしょ、と天蓋付きのベットから体を起こして起きあがった。いつも私が起きる時間だったら、双子の執事がなにからなにまで世話をしてくれるのだが、今は彼女たちが図書館の雑務に追われているために、自分で髪を整えることになった。
腰までかかる長い髪をすいていくと、そもそも図書館を開きたいと言ったのは自分のわがままな発言のせいだったな、と思い出す。
昔から、体が丈夫な方ではなかったために、いつも本を読んでいた。そんなときに両親が療養のために、この別荘を建てて、有能な双子の使用人も与えてくれた。
私が体が弱いのは吸血鬼の強い力のせいだそうだ。もしかしたら両親はわたしを避けて隔離しているのかもしれない。
そうやって閉鎖的な空間で、私は本を読むことにした。別段ほかにする事もなかったので、難しい学術書から週刊誌まで世界中の本を読みあさり、とにかく人間のことを知りたいと思った。そのときに人間の世界では図書館というものがあると知った。吸血鬼は絶対数が少なく、人間を上回る高度な知能も持ち合わせていたので、人間が書いた本を読む必要などない。さらに吸血鬼は自分の血を意思をこめて遺すことで、自分の記憶や経験を同族に知らせるコミュニケーションも持っていたので、なおさら間違いが多く信憑性のない文字を書くことはほとんど無い。なので吸血鬼の世界には図書館はおろか、本の存在すらないのだ。
”「じゃあ、私が図書館を作りましょう。人に広く愛されるものを」”
そういったのが二百年ほど前のことだった。そのとき、もう既に何十万冊と読んだ本があったので、それらを一般に解放することにした。
とはいっても、私が図書館を建てる際、双子の執事がすべて手はずを整えたくれたので、実際の切り盛りの方法も分からなかったし人見知りだったから、人間と話すこともなかった。 こうして名前だけの館長なった私は自分の読んだ本が書架に納められるのを見ながら、この図書館とともに生きてきた。
「この町も大きくなったものね」
私が図書館を建てる前なんて、人が全く住まない森しかない土地だったのに。この図書館は、蔵書数が増えていくとともに噂を聞きつけた人々が村を作り、町を作り、ついには都市となって世界中から読書家たちが訪れるようになった。蔵書数も数億冊を越え、何回も増築を繰り返した。あんまり大きくなり過ぎたせいで貸し出しを行うことができなくなったが、それでも人々はこの図書館を愛し、この都市のシンボルとなっていた。
「わたしはどうだろう」
二百年前から何か変わっただろうか。人間達はこの何百年間でさまざまな進化を遂げたと思う。本だってそうだ、昔は印刷だって手作業でここまで多くの本は出版されていなかったのに、完全に機械での製本ができるようになっていて気がついたら毎日山積みになって部屋に届くようになった。でも自分はどうだ、毎日本を読んでいるだけの生活をだらだらと続けてきただけではないか。
髪を整えたあと、おもむろに本棚の響子が書いた本を手に取った。
本の装丁をめくり読み進めていく。以前読んだときは響子のことを知らなかったから、膨大な書物の一つでしか見ていなかったけれど。彼女と出会い、響子を知ってからは読むのは初めてである。
文章はまだ稚拙で、今まで読んだ作家のなかでもひときわ文章が優れているわけでは無かったが、彼女を見ているようで胸があたたかくなった。
「・・・・・・おもしろいわ」
私はいままで本を読んできたのは、いつも人間のことを知りたいという勉強のような感覚で読んでいたけれど。ただ、読みたいと思って一生懸命読んだのはこれが初めてだ。本を読むことがこんなにもおもしろいなんて、初めて知った。
一冊から二冊目へと手が伸びて、ついに全部の本を読んでしまった。
「・・・・・・響子」
ぽつりと独り言をいう。あの子はまたこの場所に来てくれるだろうか。
彼女のことを想いながら、私はふただび響子の本を手に取った。
「もうそろそろ六時になるかな」
作業に没頭していて気づかなかった。あたりはすでに暗闇で覆われている。冬となれば日が落ちるのも短い。
カチルに会いに行きたい、そう考えるよりも早く私の足は自然と動き始めていた。
階段をいきおいよく駆けあがり、彼女の元へと向かう。カチルの部屋までは気が遠くなるような階段の数だったが、彼女とまた会えるんだと思うと、不思議と体が軽くなった。
「いらっしゃい、あなたを待っていたのよ」
頑丈そうな扉ををノックするとカチルが扉を開け迎え入れてくれた。昨日よりは整頓されていたが、本を積み上げている机は荒れたままだった。
「あ、あのっ」
「なにかしら」
「今日はその、カチルにみてもらいたいものがあるの」
手に持っていた封筒を開き、まだ乾ききっていない原稿用紙をカチルに差し出した。
「私の小説の新作です、まだ途中だけど是非カチルに読んでもらいたいなって思って」
「あら、いいの?私が最初に読んでしまっても」
「カチルに読んでほしいんです」
原稿用紙を差し出したまま、緊張で固まる私の手にカチルは自分の手を重ねた。
「ありがとう、大切に読ませてもらうわ」
丁寧に原稿用紙の束を受け取ったカチルは、目を見張るほどの早さで原稿を読み上げていった。時間してはそうかかってはいなかったのだが、自分の文章をどんな気持ちで読んでもらっているのだろうと考えると、この一瞬が何時間にも感じた。緊張で手に汗がつたい、こぼれ落ちてしまいそうになったところで、彼女は小説を読み終えたようだった。
なんと言われるだろうか、と期待と不安で私の心はいっぱいになる。
「文章、上手になったね」
顔を上げ、私の目をしっかりととらえて彼女はそういってくれた。
***
それからというもの、私はカチルに会いに行くことが毎日の日課になっていた。彼女は驚くほど知識が豊富な人で、曖昧にいったことは全て見透かされてしまうほど聡明な人だった。ただ、整理整頓だけは苦手なようで「こればかりはしかたない」と彼女の完璧ではない一面をかいま見ることができてうれしかった。私の小説も同じく感化されていって、自分の望んでいるものが次第に書けるようになっていた。
カチルとあってから、驚くほど時がたつのが早くなった気がする。なんせもう二週間が経とうとしているのだから。
「今日はどうしようかな」
小説を書く手を止めて少し背伸びをする。キリがいいところまで書けたので息抜きにでも外を歩いてみるのもいいかもしれない。文章を書くというのはどうしても家に引きこもりがちになってしまうので、暇ができたら外に出ることは私の中で鉄則にしているのだ。
外にでる支度を始め、充電していた携帯を手に取ると、一通メールを受信していた。送り主は私の数少ない友人だ。
「優里から?なんだろう」
そもそも機械類が大の苦手で携帯をさわることも滅多にない私は、メールはしないほうだ。とはいえ、急な連絡があっても困るので、一応友人にはアドレスを教えてある。画面の受信箱をつついてみるとこんな文章が入っていた
『友達なのに何日も音信不通って寂しいな~今日暇だったら喫茶店にでも行かない?』
そういえば優里はこんな人だったな、と思い返す。彼女は友達が多く、思いやりのあるクラスメイトだ。私があまりにも連絡をよこさないから痺れをきらして連絡してくれたのだろう。
どうせ予定も特にないので私は二つ返事をしてメールを返信したのだった。
***
予定していた十二時が過ぎた。もともと、予定よりも早く目的地に行こうとするたちなので、これより二十分早く来ていたのだが、やはり遅い。あきれ顔で何度も腕時計の針を眺めていると、後ろから大声で私の名前を呼ばれた。
「ひっさしぶり~!響子はやっぱり早く来るなー」
「いいだしっぺのほうが遅いんじゃ話しにならないんじゃない?優里」
「あー、ゴメンゴメン。いやあ、あたし朝が弱くてさ」
「もう十二時過ぎてるけど」
「ほら、おやつの時間まではアタシの中では朝にはいるのっ」
顔を赤くして優里はまくしたてる。そんなたわいもない会話をしながら、私たちは目的の場所に辿りついた。
「へえ、こんな店知らなかった」
駅から少しはずれたところにあったのであまり来ない場所ということもあるが、それ以上にあまり目立たない店だ。派手派手しさがなく落ち着いた構えで、ぱっとみただけだったら、民家と思って素通りしてしまいそうだ。
「そうそう、私も最近知ったばっかりなんだよねー。もうここのチーズケーキが絶品なの!」
顔をほころばせながらこの友人は説明する。なんでもこの店は、普段は料理店として営業しているのだが、主人の妻が菓子職人だったそうで、最近営業を始めたばかりだそうだ。そんなことをぺらぺらとしゃべる優里は相当なミーハーなんだろう。
扉をあけ奥に入ると、店員の明るいいらっしゃいませ、という声が聞こえた。二名様でよろしいですかという問いかけに優里はうなづいた。
奥のほうの席に案内され、やっと席につくことができた。
「よっこらせっと、さあ、なに頼む?」
「よっこらせって、おばあちゃんじゃないんだから」
「だって響子よりも年寄りなんだし」
「数ヶ月の差で年寄り発言はおかしくない?」
「はいはい、じゃあ私はいつものチーズケーキ頼もうかな、おっと、でもレアなチーズも捨てがたい」
「もう好きにしなよ。私は優里のおすすめ通りに従おうかな」
メニューを閉じようとしたら、すぐに優里から文句があがる。
「ええー、ちょっと決めるの早すぎじゃない、そこちょっとは悩もうよ」
「私はそんなことでいちいち悩む性格じゃないの」
少なくとも、くだらないことで悩む暇があれば小説の内容を考える方が有益な時間を過ごせると思うのだが、目の前の少女は違う考えらしい。すこし不満そうな顔をしてふてくされていたが、やがて顔をあげる。
「さすが大物作家は考えることがちがうねえ」
「にやにやした顔で言われると無性に腹が立つ!」
こうやってわいわいやっていると無意味に時間だけが過ぎていく。優里が注文を決めたのは十分後のことであった。
「そういや、響子って最近図書館に入り浸ってるんだって?」
「なによ、いきなり。そもそも優里に話してたっけ?」
「このまえ、うちのグループで、勉強会してたときに、響子を見かけたからね。女子の情
報力なめんな」
けたけたと優里は笑い始める。集中してたせいで、見られてるなんて全然気づかなかった。
「それはそうとして、なに?」
「いやー、最近、うちらぐらいの年代ではやってる噂があるからさ」
「噂?」
いつもは、適当に流すことが多い彼女の話だが、小説を書く身としては噂話というのは興味がある。食いついた私を満足そうにみて、さらに彼女は話を続けた。
「うんうん、好奇心旺盛なのはいいことだよね。さすがは浅井響子大先生っていうか」
「早く話して」
ジロリと相手をにらみつける。こういったまどろっこしいのは嫌いなほうだ。
そんな私を見て少し焦ったのか、早めに言葉をまくし立てる
「ちょ、冗談だって。あの図書館についての噂。うちらの町の早見坂図書館のこと」
「あの図書館?」
昔から通っていたのに加え、今は館長であるカチルと親しくなった身だ。滅多に図書館に通わない優里よりは、あの図書館について知っているほうだと思っていたのだが、噂なんて思いもつかなかった。
そうやって興味を示している私の顔をみて優里はご満悦である。
「あの図書館の人たちはね・・・・・・実はみんな吸血鬼なんだって」
「ふーん・・・・・・ってなにそれ!」
あんまりに話しが突飛すぎて、おもわず紅茶を吹きそうになった。吸血鬼?カチルたちが?
「そんなに驚いてくれるなんて友人冥利につきるわー」
にたにたと優里はこちらを見ている。
「根拠はあるの?」
「いやー初めは嘘だと思ったけどさ、だって私のおじいちゃんが小さかったときからずっと見た目が変わっていないんだよ、怪しいと思わない?」
「うーん、でもそんなの現実感がない話でしょ」
私だって、人間以外の存在がいて欲しいと思うことがある。たとえば宇宙人が発見されたとか、人造人間が襲ってきたりとか。SFのジャンルも嫌いではないので有名どころはたくさん読んでいる。
しかしこれが現実に存在するとなると話は別だ。これを本気で信じているのは、どうしようもない馬鹿か、精神を病んでいるのだろうと私は考えてしまう。私は妄想家でもなければ、周りが認識できなくなるほど気を病んでいるわけではない。
「それと、図書館の主は毎晩女の子をさらって血を啜っているんだって。響子もあそこよく行くんでしょ?気をつけた方がいいんじゃない」
「はいはい、分かりましたよ優里さん」
噂は噂、真剣につきあっていたらこちらの骨が折れる。
「あー!その顔信じてないなー、ええい、これも食べてやる」
「ちょ、やめてよ」
自分の反応が不服だったそうで、彼女は私の手を付けていないケーキに手を付ける。それを必死にガードしながら、私は残っていたケーキをすべて口に運んだ。そうやってくだらないことを延々とするのも悪くないな、そう思った。
***
優里とくだらない話しをしていたら、時間は驚くほど早く進み、もう太陽が沈む時間になってしまった。
「ふー、やっぱり外はまだ寒いな」
自分の手に息を吹きかける。吐いた息は白くなって外に拡散して次第に消えていく。上を見上げると、早見坂図書館があった。今日も懲りずにまた来てしまったのだ。
「カチルに喜んでもらえるかな」
今書いている小説は中盤にさしかかり、担当に読んでもらったところオーケーがでた。そのことをはやく彼女に伝えたくて私のこころは浮き足だっていたのである。
「今日はやっぱり人が少ないな」
もうすぐ年末なので、今日からこの図書館も長期休業になるそうだ。本来なら出入り禁止なのだが、カチルからの招待があるので気にせず書籍をみれるようにしてもらえた。
「ほんとに不思議なひとだよなー、あんなに若いのに図書館長だなんて」
どうしても私のイメージでは、館長というといかにも堅苦しい老人が出てくる。こんなに若い責任者というのもなかなか存在しないのではないだろうか。
「実は年をとらないとか・・・・・・そんなわけないか」
そうやって誰かに聞かれたら困る独りごとを続けながら、入り口に向かったのであった。
***
「こんばんわ、浅井響子です」
挨拶をしながらノックをする。そうすると、奥の部屋から物音が聞こえ、施錠が外された。
「ええこんばんわ、今日も来てくれたのね」
かちゃりと、扉が開くと美しい女性が出迎えてくれた。匂い立つような気品が彼女の内側から溢れ出ているようだ。
部屋を通された私は、彼女に勧められてソファーに座る。この部屋に初めて来たときは無かったのだが、私と話すためにわざわざ用意してくれた代物らしい。見るからに高価そうなソファーにおそるおそる座ると、カチルはほほえんでそんなに気を使わなくてもいいのよと言う
(気を使わないでって、こんなに高そうなものなのに)
自分も一般家庭からしたら裕福なほうだと思ってはいたのだが、彼女の部屋にある家具はどれも芸術品と見まがうほどで、この部屋だけでも十分に博物館に展示できるレベルだろう。
「ねえ、カチル」
「なに?」
名を呼ばれた女性は私の顔をのぞき込む。
(そんなに近くに寄られたら言いづらいよ・・・・・・)
おもわず、もじもじと口ごもってしまう。これでは初めて彼氏の家に来た女のようじゃないか。母親や、友人だったら緊張する内容でも何でもないのにと心の中でつぶやく。
すー、と息をすい平常心を整える。大丈夫、話せそうだ。
「あのね、カチル。読んでもらってた小説、出版社から許可が出たの。上手くいけばあと一ヶ月ぐらいで本にできそうだって」
「すごいじゃない、響子。あなたの才能は本物だわ」
「カチルのおかげだよ、あなたに会ってから飛ぶように書けるようになったんだから」
うれしい――彼女にそうやって喜んでもらえることが。さっきまでの緊張とは裏腹に、あたたかい気持ちで満たされていく。
「それでね、嬉しくて今日はいつもよりも調子よくて、原稿がよくすすんでたくさん書けたの」
がさごそと原稿用紙を取り出す。クリップで留められた原稿の束は、はじめて見てもらったときよりもはるかに分厚くなっており、こんなにも書けたのかと実感した。
少しでも早く彼女に渡そう思い、あわてて取り出したので原稿用紙を落としてしまった。そのとき、すっと何かがすれる音がした。
「いたっ!」
急いで渡そうと思ったせいで、原稿用紙で指を切ってしまった。とにかく止血をしないとーそう思ってハンカチを取りだそうと思ったとき、細くしなやかな手が私の指を捕まえていた。
「カチル?」
彼女は答えない。返事をしないことなんかこれまで無かったのに。
不思議に思って彼女に顔を向けると、今まで見たことのない、恍惚めいた表情をしていた。
「一体どうしたの、ねえ!」
彼女に再び問いかけても、虚ろな表情のままだった。
そしてつかんだ指を自分の方に引き寄せ、それを口に含む。
「!?」
いきなりのことで恐怖よりも驚きで声が出ない。そんな私を知ってか、彼女は見せつけるように自分の指を愛おしげに舌で這わせていく。
(これって牙・・・・・・?)
なにふりかまわず指を吸いついた彼女の唇からは白く鋭いものが見えた。やがて血が止まると彼女は指を離してくれた。
「・・・・・・響子」
切なくつぶやく彼女の声におもわずドキっとしてしまった。私を見つめている彼女の瞳は、私だけを映している。
「きゃっ!」
今度は両腕を掴まれて、ソファーに押し倒された。荒い息づかいの中、彼女の瞳が間近に映る。
その目はひとというよりもー獲物を見つけた肉食動物そのものだった。
「あ・・・・・・」
カチルが自分の顔をよせ、さらに近づいてきた。
首筋に舌を這わせ、動脈を探る。彼女の牙が光り、皮膚を喰いちぎる寸前に――
「「お嬢様お止め下さい!!」」
扉を蹴破るように、執事たちが入ってきてーそこで私は意識を無くしたのだった。
***
「ほかに外傷などはございませんでしょうか」
あのあとシロナが甲斐甲斐しく手当をしてくれたことで、大事には至らなかった。
ハイネのほうは、カチルに付きっきりで手が放せないために、姉のシロナだけが私の家で手当をしてくれた。
「あなたたちは、一体何者なの?」
人並みはずれた腕力に、鋭利な白い牙。カチルが私を襲ってきたという事実。認めたくはないが、これらは全て現実で起きたものだった。実際に肌で――その言葉通り私の肌には彼女の牙の後が残っている。
不幸中の幸いというのだろうか、双子の姉妹が駆けつけてくれたおかげで、大事には至らなかったのだが。なんにせよ、私は真実を知る権利はあるだろう。
「そうですね、できればお嬢様はご自分でおっしゃりたいようでしたが、致し方ありません、私から申し上げますね。私たちの一族は、あなたたちの言葉でいう吸血鬼、にあたります」
「きゅ、吸血鬼!?」
驚いてつい聞き返してしまった。だがカチルの行動をあとから考えてみると、確かに当てはまる答えではある。もし私がカチルに咬まれていなかったら到底信じられないことだっただろう。
「はい、その名の通り血の生気を啜って生きるもの。特に人間を捕食してたびたびその命を脅かすもの。私たちはもとよりそういった存在です」
この話だけ聞くと、到底信じられないことなのだが首筋の痛みが自分に真実だと訴えかける。あれは悪ふざけではない、もっと明確なものであったはずだ。
「ですが、お嬢様は違いました。あの方はむやみに殺傷することをなによりも嫌う高貴なお方です。人間のことも、ただ捕食されるだけではない、対等な立場でいたいとおっしゃっていました。身勝手なことをもうしますがどうか、あのお方を嫌わないでほしいのです」
「・・・・・・」
私は押し黙ってしまった。いっそのこと何かの冗談だと誰かに言ってほしい。こうやって無言でいるとシロナが優しく話しかけた。
「信じられない話なのも無理ありません。もうあのお方にあいたくないかもしれませんが、もしよければまたお嬢様に会いに来てください」
そそくさと帰る支度をするシロナが見えなくなるまでずっと眺めていた。
***
あの事件からもう一週間が経っただろうか
まさかあの噂が本当のものだっただなんて。シロナが説明してくれたことは今でも信じられない。
あれ以来足を運ぶことをためらっていたが、勇気を出してカチルに会いに行こうと思ったのだ。きっとなにか理由があるのだろう。
首筋の傷は浅かったので、一週間で完治したが、この図書館に向かっていると、ズキズキと痛んでいる気がした。
まだ図書館は長期休業に入っているのでまだ人の気配はなかった。そう、人間の気配は。
重い足取りで館内に入ると、本の整理をしていた双子が振り返った。
「響子さん、いらしたのですか」
シロナがほほえんで出迎える。ハイネに至ってはだんまりだった。
「よくもう一度くる元気があったものですね。てっきり私たちを避けているのかと」
「こらハイネ、そんな言い方は無いでしょう。響子さんは、今日どんな用事でしょうか」
「カチルのことで・・・・・・私はあの人のことを何も知らない。だからあなたたちにカチルのことを教えてもらいたいの」
それと吸血鬼のことも、とふるえた声で言ったのを双子は聞き逃さなかった。
「よろしいでしょう。そこまでおっしゃられるのならば、私たちの秘密をお教えします」
「こら、ハイネ、お客様になんてことを言うのです・・・・・・妹が失礼しました、ハイネは根っからの人間嫌いなのもので、不快に思われるかもしれませんがお許しを。さて、お嬢様のこと、といってもどこからお話しましょうか」
シロナはハイネに目配せをする。話せ、と無言の訴えにハイネはため息をついて口を開いた。
「まずは吸血鬼のことでしょう。古来より私たちは人の生気を摂取して生きてきましたが、それにより人間間との争いが絶えませんでした」
「まって、そんな話聞いたこと無い」
もしハイネがいっていることが正しかったとしたら、なぜ自分たちは存在さえ知らないのだろうか。私の言った言葉に、またため息をついたハイネは続ける。
「吸血鬼は人間と比べようのないほど長寿なのです。人間と争っていたのも有史が始まる前のこと。人間が理解できる文献もありません」
「ですが、人間たちは私たちの予想を遙かに上回る繁殖能力で世界中を支配していったのです。食らっても食らっても、途切れることなく人間たちは数を増やしていった」
「それに比べ、長寿ゆえに私たちはあまり種を繁栄させようとは思わない吸血鬼は、だんだんと世界の端においやられてきました」
ハイネの顔が屈辱に歪む。自分の一族に誇りを持つ彼女にとって、この事実は受け入れたくないものなのだろう。さらに彼女は続ける。
「人間を殺傷するのには赤子の手をひねるよりも簡単なこと。ですが数が膨大なことと凶悪な兵器を次々に生み出していく人間を、今残っている吸血鬼では太刀打ちできなくなってしまったのです」
「そして私たちは人間たちに契約を申し込んだのです。人間たちの秩序を乱さない程度の補食行為を認める代わりに存在を隠し、むやみに人間を襲わないと」
「これは我々にとって屈辱でしかありませんでした。なぜ非力な存在に屈しなければならないのかと」
「これで私が人間が憎い理由はお察しされたでしょう」
一気にまくし立てられたことで、さらに訳が分からなくなった気がする。頭を悩ませている私にシロナが優しく声をかける。
「大丈夫。今は理解できなくても、あなたなら分かるときが来るわ」
「次はお嬢様の話しですが・・・・・・シロナのほうが詳しいでしょう」
「はい、次はわたくしですね。お嬢様のことですが、あの方は吸血鬼の中での少し、いえ大分と変わり者の方なのです」
「変わり者?」
たしかに、私が知っている吸血鬼像とは似ても似つかぬ彼女だったが、何が変わっているのだろうか。
「はい、お嬢様は人間に強いあこがれを持っていたのです。ほかの吸血鬼はハイネのように人間たちを強く憎んでいるものがほとんどなので、彼女は一風変わった存在です」
確かに、カチルは本の話をするときにはいつも嬉しそうにしていたと思う。さらにシロナは話を続ける。
「お嬢様は人間たちを自分たちと同じ目線でみていました。だから人間を手に掛けることが一度もなかったのです」
ですが、と話を続けながらシロナは私の目を見た。目があって蛇ににらまれたように体が凍り付いてしまう。
「いつも自分に会いに来てくれる優しい友人、お嬢様は完全に貴方に気を許していたのでしょう。そのときのあなたの血が、あのお方の吸血鬼としての本能を目覚めさせてしまった。そして、人間であり唯一の友人でもあるあなたを手に掛けてしまいました。あのお方は今、響子さんと同じように苦しんでいるのです」
カチルが苦しんでいるなんて、思いもよらなかった。傷ついたのは私だけだとどこかで考えていた自分を恥じた。
「彼女の苦しみや飢え、それらを私たち二人は必死に癒して差し上げたいと思い、この一週間努力を重ねてきました。ですが、私たちではもう限界です。彼女が飢えて正気を失ってしまうのも時間の問題となりました」
シロナはここまで話しきると、主人の苦しみを共有するかのように押し黙ってしまった。少しの間、沈黙が流れる。この時間が永遠のように感じ始めてきたとき、白い執事が口を開いた。
「ですが、一つだけ方法があります」
「どうすればカチルを助けられるのっ!?」
私はつい身を乗り出して聞いてしまった。咬みつかれたときは、何も分からなくて、カチルのことも恐ろしいと思っていたけれど。彼女がそこまで私のことで苦しんでいたと想像すると、今は彼女をどうしても助けたいーそう思うようになっていた。
「お嬢様の飢えが愛しい人の血を欲することから来ているのならば、響子さん、あなたの血があの人を飢えから救えるはずです」
シロナが全部言い終える前に、私は自然とその場から駆け出していた。私だけがカチルを救えるーそんな思いを胸に秘めて。
***
「案外、あなたの方がえげつないと思いますが、シロナ」
響子が立ち去った後、この場所は執事だけが残された。
「あら?そうでしょうか、わたくしは主人のことを一番に思うただの執事ですよ」
シロナが双子の妹に対し笑顔を見せる。響子に見せていた表情とはまた別の、含みをもったものだった。
「まさかあんな風に言うなんて。吸血鬼に咬みつかれても生きていられるようなことを」
ハイネが片割れをにらみ付ける。怒り、というよりは諦めに近いものだった。
「ええ、深く質問されることが無かったので、本当に助かりましたよ。まさか、飢えを紛らわせるために命まで捨てろ、とまでは言えませんから」
やっと残酷な本性を見せた姉に対し、さらに畳みかける。
「そうし向けるところがあなたらしい。私には恐ろしくて真似できませんよ」
ため息をついて、皮肉をこぼす。だが目の前の片割れはたいして気にした様子ではなかった。
「これでお嬢様が吸血鬼の女王になっていただければ、これほどの名誉はありませんからね。お嬢様の本来の魔力が戻れば、長らく続いた王位継承者争いも決着が付くでしょう」
もう何をいっても聞き入れようとしないだろうな、そう長年の経験から察した妹は、反論を諦めて普段通りの業務を続けることにした。
***
「はぁ、はぁ、はぁ」
カチルが苦しんでいるーそう聞くといてもたってもいられなくなってしまい、いきおいよく階段を駆け上がった。息を荒らしながら彼女の部屋を目指す。カチルの書斎の前にたち、荒い息を整えて、扉をたたこうとしたとき、違和感があることに気づいた。
「扉が空いてる・・・・・・」
いつもは鍵がかかっていて、中からあけてもらわないと開かない扉が開けっ放しになっている。
「カチル、そこにいるの?」
両手でドアノブ握り、重い扉を押しのけると、ぎぎぎ、と不吉な音を立てて扉が閉まり、視界が暗闇に包まれた。
「血のにおい?」
部屋に入った瞬間、部屋に充満していた湿っぽい独特のにおいが鼻をかすめた。
不吉な予感を感じながらも、とにかく彼女を探そうと、まだ夜目がきかない状態でカチルの姿をとらえようと必死になった。
「響子、なの?」
か細い声が書斎の中に響いた。以前あった余裕に満ちた彼女からは想像もつかない、弱々しいものだった。
「カチル!いるの!」
彼女の声がしたほうに振り向くと、丁度雲で隠れていた満月が露わになり、暗闇の中から彼女の姿が浮かび上がる。血に濡れたカチルの全身は、危険と分かっていても目を離せない、そんな妖艶さを身にまとっていた。
「駄目、響子、私に近づいたらいけないわ」
うつろな目のままで彼女はそう答える。さっきから私の全身が総毛立って、補食されるものの本能が、彼女をを敵だと訴えていた。
「カチル、苦しいの?その血はあなたのものなの?」
「・・・・・・」
彼女は答えない。この沈黙がなによりも事実であるということを示していた。
「カチル、私ね、あなたに咬まれたとき、なにが起きたのか分からなくてすっごく怖かったの。でもハイネとシロナにあなたのことを教えてもらって、もう一度あなたに会いたいと思うようになったの」
ゆっくりとカチルに歩み寄っていく。足がすくんで、ひどくみっともない歩き方だけれど、そんなのお構いなしに、彼女に近づいていった。
「カチルは、私が悩んでいることを真剣に聞いてくれて、私の知らない世界も教えてくれた。私はあなたに何一つできることは無いと思っていたけれど、ひとつだけ、あなたにあげれるものがあるよ」
首もとをゆるめカチルの細い体に腕をまわし抱きしめる。そのときに彼女と目があう。私の目的を知った彼女は、目をそらし私の腕をとこうとする。
「響子、お願い、これ以上あなたのそばにいたら、私は貴方を手に掛けてしまう。私の中の吸血鬼の本能が貴方を欲してやまないの」
「大丈夫、カチルなら、咬まれたってちっとも怖くないの」
「でも・・・・・・んぅ」
反論を続けようとするカチルの唇に背伸びをして自分のそれを重ね合わせる。彼女の唇は甘くて、ずっとふれあっていたいとさえ思った。
「ほら、カチル。私はあなたにキスしたよ。だからカチルも私のこと、好きにして」
私はカチルに精一杯の笑顔を見せた。カチルはもう理性を保っていなくて、とろんとした目で私を見ている。それでいい。私は貴方を助けようとここまで来たのだ。
彼女の牙が月に照らされて強く光ったと思うと、一気にそれが私の首を貫いた。血管を傷つけられ血が溢れ出てくるその痛みよりも、カチルがこの上なく満たされている事実が嬉しかった。
だけど、血を抜かれるというのは意識を失うということ。カチルとの想いを共有したいという願いはむなしく、私は眠るように気を失ってしまった。
***
「きょうこ・・・・・・響子!」
我を失って、彼女のことを私は食らってしまった。ようやく理性を取り戻した私は、冷たくなってしまった彼女を強く抱きしめる。
だが、少女は答えない。その代わりに彼女の首筋から滴り落ちる血の音が部屋に響いた。
私の、私のせいだ。私が彼女の血が求めてしまったから、唯一の友人さえも手に掛けてしまった。いや、”友人”としてではない。響子の血をほしい、彼女のすべてを自分のものにしたい。いつしかそうやって歪んだ愛情を向けていたのだろう。
彼女の口に手を近づけると、かすかに息をしているのが分かる。彼女はまだ死んではいない。だが、大量に血を抜かれ、体温が下がっておりいつ生命が途絶えてもおかしくない状態だ。
彼女の死を、ただ待つしかないのかと自分にできることはないのかと、そう諦めかけたときに、一つの考えが閃いた。
吸血鬼に伝わる禁じられた術式。
古来、人間を愛してやまなかった吸血鬼が編纂した、死の淵から彼女を唯一救う方法。
並みの吸血鬼なら扱うことすらできないだろうが、自分の力なら発動することができるだろう。
だが、その代償は重い。吸血鬼は己に通うすべての血を失い、人間は己の存在を跡形もなく忘れてしまうのだから。
さらに、成功する可能性は著しく低いものだ。失敗すれば無駄死にをさらすだけだろう。
だけど、これしかない。どんな代償があろうとも響子にはこの世界をまだ生きていてほしい。
すう、と深呼吸をする。そして愛おしい人の頬をなでて彼女のことをひたすら想う。
「愛してるわ、響子」
禁じられた術式がこれより始まった。
***
「・・・・・・うーん」
ゆっくりとまぶたが開いていく。ここはいったいどこなんだろう。
ぼやけた視界がだんだんと鮮明になっていく。ゆっくりと体を起こして起きあがろうとすると膝を打ちつけてしまった。
「いったあ・・・・・・ってここ何?図書館?」
本を読むのに夢中になって、寝てしまったのだろうか。時間を確認しようと時計を探すがこの部屋に無かったので窓から空を覗き込んだ。
空全体が霞がかって、太陽はまだ完全に上りきっていない。
「ってことは朝なの!ちょっと、図書館の人、寝てたんなら一声駆けてくれたらよかったのに」
ぶつくさ文句を言いながら、荷物をまとめる。散乱した原稿用紙をまとめているときに、ふと思い出した。
「あれ、この小説って結構悩んでたはずだったんだけど・・・・・・いつ私こんなに書けるようになったんだっけ?」
思いだそうとしても、頭の中にもやがかかったように思い出せない。どうしてか、とても大切なことを忘れてしまったようなー。
「まあ、とにかくここを出よう」
荷物がまとめ終わって、出る準備ができた。よっこらせ、と疲れた体を起こし、長い階段を下りきって図書館を後にした。
図書館に背を向けて、帰路についていると大きく風が吹いた。
「きゃっ」
思わず原稿用紙が入った封筒を落としてしまった。ばさりと音を立ててなかにあった紙が散乱する。とにかく早く拾わないと、そう思って原稿用紙を拾おうと思ったとき、題名が入っていないことに気がついた。
「あれ?この小説まだ題名ついていないんだっけ」
拾いながら、ふとそんなことに気づいた。
「えっと、この小説は図書館についての話だから・・・・・・うーん」
こんなところで決めるものでもないのだが、一度思考に入ってしまったらなかなか抜け出せないもので。
「そうだ、女王の図書館にしよう」
どこか懐かしい響きを含むこのタイトルは、私の中に染み渡っていった。
END