1996年 夏(5)
「日暮先生。七草くんのピアノ指導の調子は如何ですか?」
「如何もなにもね……」
その次の日の朝。
教室に入ってくるなり羊山さんが面白がるようにそう僕に声をかけてきた。
「日暮くんが苦笑いしてんならそうとうひどかったってことでしょう」
「そんなことないよ。七草くん、ずっと一生懸命一つ一つのことを覚えようとしてたよ」
夜塚さんの顔は登校中からずっと不機嫌そうだった。
その反面不安さがにじみ出ていた。
確かにこのままでは時間が足りない。やはり代わりの伴奏者探した方がいいかな……。
「ちょっとどうしたんだ、あれ?」
突然乱暴に教室のドアが開くなり、クラスの人たちはギョッとした様子でその場を見つめていた。
僕たちも不思議に思いながら七草くんの顔をみると同じようにぎょっと驚くこととなる。
「おはよう」
七草くんはいつも通りを装っているようだった。
しかし顔は正直に寝不足を表していた。頬はどことなくげっそりとし、目は眠たそうに充血し今にも目蓋が閉じてしまいそうだ。
なによりも、足取りはフラフラとしていた。
「七草くん、どうしたの?」
すると七草君は羊山さんの問いかけに待ってましたとばかりの反応をしてフッと笑った。
「俺はやったぜ。夜塚ちゃんを安心させるために俺は頑張ったんだ」
僕含めて三人は七草くんの言動をイマイチ理解することができなかった。
一体、昨日の練習のあとに何があったんだろうか。
「俺はあれから徹夜で曲を聞きながら鍵盤の位置と楽譜を暗記したぜ。それができないとなにも始まらないらしいからな」
徹夜明けのギラギラとした瞳はどこか誇らしげだった。
確かに曲を聞いたり、楽譜を見る努力は素晴らしいがどこか方向がずれているようにも見える。
「日暮、イメージトレーニングもバッチリだ。あとなあ、家にピアノがねえからこんなんを作ったんだ」
誇らしげに七草くんはピアノの鍵盤がかかれた画用紙を僕に見せつけた。
鍵盤の数、大きさは実際の通りにかかれており、長さが足りないところはセロハンテープなどでつぎはぎしている。
この出来の良さにはビックリだ。
「昼休みにその成果を見せてやるからな。それまでの休み時間の間もこれでしっかり練習するからな。夜塚ちゃーん、しっかり頑張るからね」
グッと七草くんは親指を立てるといつものように埃を立てて走っていった。
しかし今日は徹夜ゆえの前方不注意となっているのかいつもよりも派手に音を立てて壁やドアにぶつかっていった。
「本当、人一倍努力家なんだけどエンジンかけすぎちゃってるわね、七草くん。そう思わない? 有紗」
「ブレーキが整備されてないのよ」
夜塚さんの顔はあきれ返っていたが若干の笑みもあった。
少しだけ七草くんの努力を認め始めたのだろう。
「でも、一晩中一生懸命勉強してたんでしょう。間違ったこと覚えて変なところ染み付いてなきゃいいんだけどね」
羊山さんはほんの少し冗談を交えたつもりだったのだろう。しかしその羊山さんのジョークは皮肉にも的中してしまう。
「聞けよ、日暮。鍵盤の位置もバッチリ覚えたんだ」
七草くんはウキウキとした様子でピアノ椅子に腰掛け、楽譜を広げ始める。
七草くんの楽譜にはきちんと記号などの指示が書き込まれている。
「これ、全部自分で調べたの?」
「ああ、そうだ。あのあと帰りに本屋に寄ってな。ピアノに関する使えそうな本を何冊か買って調べたんだ」
夜塚さんのためとはいえ、これだけ人のために頑張れるなんて七草くんは僕の予想以上にいい人なのかもしれない。
「よしっ! 準備満タンだ。イメージトレーニングの成果を聞けよ」
そういって七草くんは鍵盤に指を置いて旋律を奏で始める。しかしその音は若干のずれに生じる不協和音によって台無しとなる。
「なんだこれ? すっげーおかしいぞ」
七草くんはイメージした音とはまったく違うことに混乱していた。
頭を抱えながら楽譜とピアノの鍵盤を交互に見つめる。
「また鍵盤の位置ずれてるよ。最初の音はここだって」
僕は少し呆れ気味に正しい音の鍵盤を片手で押した。
すると七草くんはしまったとばかりに深く肩を落とした。
「なんてこったい。うっかりさんにもほどがあるぞ、俺」
口から魂が出てきているような顔だった。
僕を笑わせるつもりなのだろうか。
いや、彼はいつだって真面目だ。ここで笑ってしまったら彼に失礼だ。
「大丈夫だって。練習して直せば良い話なんだから。ほら、練習しよう」
すると七草くんはコクリと駄々をこねて泣きはらした子どものように頷き、指を楽譜に書かれている音の鍵盤に乗せた。この先、どちらに転ぶか……どうやら察しがつかないみたいだ。
七草くん自身、激しい思い込みや勘違いがあるがそれをどうにか処理すればすざましい方向へと向かうかもしれない。
そのためにはやはり射原先生に相談した方がいいだろう。
「というわけで僕がケガをしてしまったので彼が代理で伴奏をすることになったんです」
僕は放課後、七草くんをつれて射原先生の家にいくと短くケガの理由を話した。
射原先生は説明を聞いている間、一つ一つの出来事に対して驚いたように目を丸くしていた。
「なるほど。七草くんが悪い人だと勘違いしたうっかりさんの日暮くんは棒で殴りかかろうとしましたが、逆に返り討ちにあってこのようなケガをしてしまったんですね。そしてケガを負わせてしまった彼がピアノの初心者なのにも関わらず伴奏をすることになった、そういう訳ですね。面白い展開ですね」
「はい」
僕が苦笑いを浮かべることしかできなかった。
射原先生は多分呆れてしまうだろうと思ったが、逆に陽気な顔をして笑っていた。
「俺、一生懸命頑張りますのでご指導、お願いします」
説明が終わると七草くんは珍しく真面目な顔で頭を下げてそういった。
すると射原先生はんーっとぼんやりと腕を組んで考え始める。
「正直に話すと非常に突拍子のないことだと思うんです、僕は。ちゃんと弾ける代理の方を探すべきだと思います。コンクールの参加者は君たちだけではありませんからね」
射原先生のその言葉に僕と七草くんは深く肩を落とした。
確かに射原先生が言ってることはもっともなことだ。
「お二人とも、そんな肩を落とさないでください僕はまだ出るなっていってもせんよ」
「へっ?」
「誠意をもって演奏することも大切です。コンクールまで時間もありますし、一生懸命練習をすれば気持ちの伝わる演奏ができるでしょう。そのために僕も是非、協力させてください。精一杯バックアップしたいと思います」
「先生、ありがとうございます」
その瞬間、僕と七草くんはハイタッチを決めると一緒になって何度も射原先生に頭を下げた。
「そんな、まだ始まったばかりですよ。これから気合いを入れて頑張っていきしょう」
これらなら多少なりは状況を打破できる。射原先生が指導している間、色々と参考にしたいところがあるため僕は隣の椅子に腰かけて二人の様子をみることにした。
「七草くん、まだ始めたばかりとはいえ良い調子で形ができていますよ」
「ありがとうございます」
七草くんは辿々しい指使いでコンクールの曲の最初のなん小節か弾いている。
さすが射原先生の指導と七草くんの意識があってか昼休みより大分マシな演奏だ。
「さて、では今日はここまでにしましょう。そうだ、二人とも今日は一緒にお食事などいかがですか?」
射原先生はどこかウキウキした様子でそういった。
どうやら七草くんのことを気に入ったのだろう。
「良いですよ。でも電話を貸してください。かあちゃんに連絡しねえと……」
七草くんは二つ返事でそういった。
七草くんがいるなら僕もいいかな……仮に燕ちゃんがいてもなんとなく安心できそうだ。
「今日はとっても賑やかな夕食になりそうです。二人とも、別室で時間を潰してください」
「はーい。わかりました」
そういって僕たちは楽譜を片付けるといつもの別の部屋にいった。
今日は師恩ちゃんはいるだろうか。
そう思いながら僕は部屋のドアを引いた。
「こんにちは。また夕御飯を一緒にすることになったかここで時間を潰させてもらうね」
師恩ちゃんと目が合うと僕はそう声をかけた。
すると師恩ちゃんはとてとてとした足取りで僕に近づいていくが、急にピタッと足を止めた。
「こんにちは。かわいいちびっこだな、先生の子どもか?」
いきなり七草くんは僕の後ろから顔を出してきた。
すると元々七草くんの顔が怖いのと、いきなりヌッと顔を出してきたことが師恩ちゃんにとって刺激が強すぎたのか、飛び立つ小鳥のように部屋の隅へと逃げていった。
カーテンを壁にして隠れる仕草がどこか可愛らしい。
「びっくりさせちゃったみたいだよ」
「なんだよ。俺の顔が怖いってことかよ」
正にその通り。
そう言いたいところだが暴れてしまう可能性があるため、僕は軽く苦笑いを浮かべた。
「いいか、俺は小学生のガキどもとよく遊んでいるんだ。子どものあつかいになれてるんだぜ」
それは俗に言う悪ガキ限定での話ではないだろうか。
そんな誇らしげに話す七草くんの顔がどこか間抜けだ。
「師恩ちゃん。ごめんね、驚かせちゃって。この人は七草くんっていう人で僕のお友だちなんだ。顔は怖いけどいい人なんだよ」
「おい、それどういう意味だ?」
師恩ちゃんは遠くからしばらくじっと七草くんの顔を見つめるとゆっくりとまた僕たちに近づいてきた。
そしてある程度の距離に近づくとペコリと会釈をした。
すると七草くんはひょいっと師恩ちゃんを持ち上げて自分の肩に乗せた。
「ほら、肩車だ。高いだろう」
「……」
師恩ちゃんは急に視界が高くなったことに最初は驚いたが、すぐに楽しそうににっこりと笑い始めた。
七草くんはゆっくりとグルグルと部屋の中を歩き回る。
それはまるで人の良い近所のおじさんのようだった。
「そろそろ肩が疲れちまうから他の遊びをしような。なにがいい?」
師恩ちゃんは七草くんの肩から降りると一目散に部屋の奥からおもちゃのピアノを持ってきた。
「これ、またこの前にみたいに弾いてください」
それは僕に対してだった。
弾いてくださいと言われても、今は右手しか使えないしな……。
「ごめんな。日暮お兄ちゃんお手て怪我しちまってんだ。手を使わない遊びにしような」
すると師恩ちゃんはやっと僕の左手に包帯が巻かれていることに気がついたのか、心配そうな顔になった。
「今痛い? どれくらいで治るの?」
「今は痛くないけど、ちょっと時間がかかるかも知れないんだ。ごめんね。手が治ったらいっぱいピアノを弾いて遊ぼうね」
そういって僕は空いている左手で師恩ちゃんの頭をポンと優しく撫でた。
するとにこりと子どもが持つ無邪気な笑顔を見せる。
「……うん。約束だよ」
「じゃあ、ほら。今日はお絵描きして遊ぼうな。みんなで今一番好きな人の顔を描こうぜ」
そして僕たちは射原先生のレッスンが終わるまで仲良く時間を潰していた。
やはり小学生の遊び相手をよくしてることだけあって、終わりの頃になると師恩ちゃんはすっかり七草くんになついていた。
「いやー。今日は更に賑やかですね。そう思いませんか、獅子舞さん」
「そうですね……」
射原先生はウキウキとした様子でスープを煮込んでいた。
その反面、燕ちゃんはなぜか夕食の支度を手伝わず、不機嫌そうな顔をしてソファに腰かけて雑誌を読んでいた。
「ほら、くまさんだ。かわいいだろう。なにかリクエストはあるか?」
「……うさぎさん」
「おう、ちょっと待ってろな」
一方の七草くんは師恩ちゃんを楽しませようとしているのかにんじんやジャガイモなどの野菜を動物の形にして楽しく切り刻んでいた。
ピアノはあれだけぎこちないのに包丁さばきは何一つ無駄がない。
ピアノもあんな風に滑らかにできればいいのに……。
あまりの器用さに師恩ちゃんはワクワクした様子で七草くんの手先を見つめていた。
「あの人なんなんですかー。センパーイ」
「友だち……一応」
「一応ってどういう意味ですか? それにあの人、校内の有名人のくまさんだし」
「ひょんなことがあって仲良くなったんだ」
「そのひょんなことってあのくまさんに何かの間違いで手を折られて、その責任をとるためにセンパイの代わりに伴奏を弾くことになったってことですか?」
「なんで知ってるの?」
どこかで聞き付けたのだろうか。
そんな感情が顔に出ていたのか燕ちゃんは大きくため息をついてじとっとした目で僕の顔をみつめた。
「本当、うっかりなセンパイらしい展開ですよね。わざわざ聞かなくても察しがつくし、そのときの状況が鮮明に浮かびます」
そういって燕ちゃんは僕の右手に巻かれいる包帯に手を引っ張ってきた。
「燕ちゃん、痛いんですけど……」
「燕が早く治るおまじない書いてあげるー」
すると燕ちゃんは突然上機嫌にテーブルの上に置いてある油性ペンを手に取った。
「ねえ、センパイ。燕ちゃんラブと燕ちゃん命のどっちがいい?」
「冗談抜きでやめて」
「センパイかわいいー。じゃあちゃんと彼女命って書いてあげるー」
「それも勘弁して」
僕は思わず左手で燕ちゃんから油性ペンを奪い取った。
悪ふざけにもほどがある。
「もう、すぐに燕の冗談を鵜呑みにするんだから、まったく。燕の特別サインで勘弁してあげる」
そういって燕ちゃんは僕から油性ペンを奪い返すと包帯の上からツバメのイラストを描いた。
「かわいいー。これでケガもあっという間に治るからね。センパイ」
よりによってこんな目立つところに描かなくても……僕はあきれぎみにその落書きを見つめた。
包帯が変えづらいな。
「ほらほら、獅子舞さん。夕食の支度を手伝ってください」
「はーい。ほら、センパイも腕に怪我をしてるとはいえ、できる限りのお手伝いしてください」
そう言って燕ちゃんは僕をひっぱる。
まあ、片手が空いている訳だし持ち運び程度ならできそうだ。
「それにしても七草くんは器用ですね。時々料理人として呼びたいくらいだ」
「そうッスか! 照れるなー」
食事中、七草くんと射原先生はすっかり仲良くなってしまったのか、ワイワイと会話を弾ませていた。
確かに今日は一段と味が違う。
とても丁寧な味付けはいつもよりも箸が進む。
その証拠に料理が乗っている皿のほとんどは残りが少なくなっていた。
「これだけ要領がいいんですから、ピアノの飲み込みも楽しみですね。僕も気合いが入ってきました。あとで番号を教えますのでいつでもわからないことがありましたらいつでもピアノのことについての相談してください」
「ありがとうございます」
「……」
そんな二人のやり取りに対し、なぜか燕ちゃんは不機嫌そうな顔をしていた。
なにか気にくわないことでもあるのかな?
「センセーイ、くまさんばっかじゃなくて燕のことも誉めてください。昨日一生懸命練習したのにガッカリ」
「すみません、獅子舞さん。でも練習はレッスンの前日に焦ってするのではなく、ちゃんと毎日少しづつやってください。バレバレですよ」
「ちえ、センセイのイジワル!」
燕ちゃんは子どものように頬を膨らませる。
そんな燕ちゃんの様子に射原先生はハハハと爽やかに笑うだけだった。
射原先生、時々爽やかな顔をして痛いところをついてくるんだよな……僕もなんど言われたことか。
この日の夕食はいつもよりもワイワイと談笑で賑わっていた。
いつもなら黙々と蚊帳の外のように静かに箸を進めていた射原先生のお母さんも若干穏やかに笑っていた。
これは七草くんがもつ明るさの力なのだろうか。
七草くんがいると空気が明るくなる。
それは学校の休み時間の度に気がついていることだった。
そんな彼が持つ明るさはきっと多くの人が必要としているのだろう。
なぜか、そんな明るい七草くんを見ていると自分の中にある焦りがゆっくりと動き始めてきているような気がした。