1996年 夏(4)
そして案の定、七草くんにピアノを教えることは頭が痛くなることだった。
昼休みになるまでの間、僕は合間をぬっては七草くんに何から教えるべきか考えていたが、あまり必要がないことであった
「じゃあ、七草くん。片手だけでもいいからなにか弾ける曲ある?」
僕は七草くんの実力を確認するためそう促した。
しかし七草くんはピアノ椅子に腰かけたままじっと鍵盤を見つめるだけだった。
そして右手の人差し指を震わせながら一つの鍵盤を押した。ボーンとファの音が響き渡る。
「今の音、ドだよな?」
七草くんの顔は誇らしげだった。
一方の僕はほんの数時間前の夜塚さんと七草くんの会話を思い出した。
そうだ、鍵盤の音の位置ですら怪しいって夜塚さんが言ってたじゃないか。
僕は苦い顔をしながら正しい音を押した。
「とりあえず七草くん、鍵盤の位置から覚えようか。そうしないと話にならないよ」
「なにいってんだ、時間がないんだろう。パーと早く曲の弾き方を教えてくれよ」
「急がなくても大丈夫だって」
七草くんは聞き入る様子はまったくなく、じっと楽譜と鍵盤を見つめると突然真顔でとんでもないことを言い出した。
「楽譜と鍵盤にドレミファソラシドって書いちゃだめ?」
「みっともないからやめて。それにこれは学校のピアノだし、本番のピアノに書けるわけないよ」
無意識に僕の声は感情的になっていた。
すると七草くんはシュンと大きく肩を落としながら顔をゆがませた。
顔の変化に僕は思わずぎょっとした。
「なんだよ、なんだよ。そこまで怒らなくたっていいじゃないかよ」
「ごめん。まさかそこまで落ち込まないでよ。七草くんならきっとできると信じてそんなことをいったんだよ」
「本当か?」
「うん。ほら、練習しようよ。曲が完成に近づくほど夜塚さんが喜んでくれるはずだよ」
僕は落ち込みきった七草くんの気持ちを切り替えるために肩を叩いて促した。
するとみるみるうちに七草くんに空気が入ってきた。
「そうだな。よーし、今日は基礎を教えてくれ。まずそこからだよね」
「うん。あっ、そうだ七草くん。今日の放課後時間ある?」
「あっ? まあ放課後の予定といったら犬にエサをあげてガキどもと遊んだあとなら暇だぜ。毎日そんな感じだ」
「じゃあ、用事がすんだら西街の楽器屋さん知ってるかな? そこに来てくれる?」
「おうっ分かった。西街の楽器屋だな」
七草くんはどことなくご機嫌な様子でそう答えた。
店長に頼めば練習室を使わせてもらえるためしばらくの放課後はみっちりとそこで練習した方がいいだろう。
今週中にまた射原先生のピアノ教室の日だからできればその日までに形を作りたいところだ。
やはりピアノの指導は僕一人だと限界がある。
そのためには射原先生に相談した方が僕のためにも、彼のためにもなるだろう。
それにしばらく射原先生のレッスンを受けれない訳だ。
この機会を活用するしか方法はないだろう。
「日暮くん、その手どうしたの?」
「僕の不注意でちょっと投げ飛ばされてしまったんです。すみません」
その日の放課後。
僕はまっさきににアルバイト先の楽器屋に足を運んだ。
思ってた通りと言うべきか、店長は僕の手の状態を見るなり驚いたように目を丸くしていた。
そんな店長の様子に対し、僕は苦笑いを浮かべることしかできなかった。
「不注意で投げ飛ばされるってどういうことだい? 間違えてクマでも殴ってしまったのかい?」
「そうですね、そうかもしれません」
「 どういうことだい?」
僕が思わず冗談を鵜呑みにしてしまったことに店長はきょとんとした顔をした。
「まあ、しかしこのケガじゃ当分手伝いを頼めないね。この様子だと結構かかりそうだね」
「そうですね。なので治るまでおやすみさせていただきたいんです」
「まあ、ケガしちゃったもんはしょうがないよね。店のことは心配せずにゆっくり治してよ。でも流石にこの時期だと吹奏楽コンクールが近くなって忙しくなるから代わりの子でもいないかね?」
「そうですね……誰かいないかな……」
僕と店長は一緒になって腕を組んで考える。暇そうな友だちはいないだろうか……。
「おーい、邪魔するぞ」
そんな時タイミングがいいと言うべきか、槙原くんがいつものように店のなかに入ってきた。
「おう、日暮。手の調子はあれからどうだ?」
「ごらんの有り様だよ」
「本当、派手にやっちまったな。お前、ケガが治るまでの間バイトはどうすんだ?」
「それを今店長と相談してたところだよ。そうですよね、店長」
「うん、まあね」
すると店長は突然槙原くんの顔を見ると、んーっと考える仕草を見せた。なにか思い付いたのだろうか。
「ねえ、槙原くん。君が日暮くんの代わりをしばらくやってくれないかな? 部活に支障が出ない程度でいいからさ」
「えっ? 俺でいいんですか?」
槙原くんはほんの一瞬驚いているような顔を見せていたがその反面どこか嬉しそうだった。
確かに槙原くんにアルバイトに関しては槙原くんに頼むのも悪くはない。
この時期だと期末テスト近くなり、ましてやテスト後になると午前中で授業が終わる関係で槙原くんがここにくる時間帯が早くなる。
それに僕もなるべくここの練習室で七草くんにピアノを教えたいため様子を見ることができる。
「ああ。私が神無を迎えに行ってる間と楽器のメンテナスに出向いてる間に店番をしてくれる人がほしいんだ。都合はどうだい?」
「部活のあとでいいなら構いませんよ。どうせ夏休みが明けるまでの間は顧問の都合で夕方まで練習できないし」
「そうかい。それだけでも十分に助かるよ。でもテストが近くなったら遠慮なく申し出るんだ」
「はい。ありがとうございます」
アルバイトに関しての僕の代わりはなんとかなりそうだ。
しかしもうひとつの僕の代わりをなんとかしなければならない。
「それで店長。折り入って相談があるんですけどしばらくピアノの練習室を借りても構いませんか? 僕の代わりにコンクールの伴奏を弾いてくれる人に教えるために使いたいんですが……」
「ああいいよ、うちの練習室でよかったら。日暮くんには助かってるからね。部屋が空いてたら勝手に鍵をもって使っても構わないからね」
「はい、ありがとうございます」
これで七草くんのピアノの指導がじっくりとできる。
僕は差し掛かっている問題が少しずつ片付けられていくことに内心ほっとした。
しかし肝心の問題はこれからだ。
「じゃあ、私は神無のお迎えに行ってくるよ。日暮くん、槙原くんに仕事を教えてあげといてね」
そういって店長は店から出ていった。
そして僕と槙原くんはカウンターにある椅子に腰かけた。
少し休憩してから流れを教えよう。
それに槙原くんはかなりの頻度でこの店に足を運んでいる。ある程度は感覚でわかるだろう。
「それにしても随分派手にやっちまったよな。それに日暮、お前コンクール伴奏を依頼されてたんだな」
「うん、まあね。この手で代理を頼むことになったんだけどね」
「ふーん、お前にしては珍しいな。中学の頃なんか合唱コンクールの伴奏を決めるとき、せっかく候補に上がってたのに内申点目当ての奴に迷いなく譲ってたのにな。どういう心境の変化だ?」
「成り行きだよ」
「なんだ? 頼まれた相手が好きな女とかなのか?」
ピタリと僕は固まった。
なぜ槙原くんはこういう時に限って変なところを当てるのだろうか。
「図星かよ。そうだよな、俺がソロコン出たいから伴奏してくれって頼んだときはやんわりと断ったもんな。一緒に演奏するなら女とがいいもんな」
「そういう訳じゃないよ。ただちょっと色々と偶然が重なっただけだよ」
しかし実のところ、槙原くんと一緒に音楽をやること自体に抵抗があった。
榊先生も言っていたがまだ槙原くんはソロコンに出れる実力達してないし、僕のピアノで引き立てる自信すらない。
「まあ、俺がソロコン出るのは場違いだよな。中途半端な演奏して大恥かくくらいなら出ない方がましさ。最初っから結果なんて決まってるんだしよ」
ほんの少し、なぜか僕は槙原くんの今の言葉に納得することができなかった。
なら、好きな人のために、ケガを追わせてしまった責任をとるために今から頑張ろうとしている七草くんはどうなるんだろうか。
「でもいいんだ。今はじっくりと水面下で練習して周りがあっとするぐらいに上手くなるんだ」
ふと僕は槙原くんの雰囲気がなんとなく七草くんに似ているような気がした。
目的は違えど、情熱的に打ち込む部分が共通している。
「いつかは、出てみなよ。予定が空いてたら槙原くんの演奏を聞きにいくよ」
「あくまでも伴奏はしないんだな」
「いなかったら考えるよ」
「なんだよ、ちえ……それよりもお前の代理ってどんなんだ? もし上手いやつだったら紹介してくれよ」
その瞬間、僕は思わずおかしくて吹き出してしまった。
上手いもなにも初心者なんだけどな……。
「なんだよ。おかしなことでもいったか?」
「ちょっと思い出し笑いをしただけだよ。待ってればその人くるよ。指導を頼まれているんだ」
「はっ?」
槙原くんが意味を理解できず、険しく眉を寄せた瞬間、ヌッと黒い影がおおった。
振り替えると七草くんがぼんやりとした様子で立っていた。
「あっ七草くんどうも」
「おうっ」
七草くんは楽器屋が珍しいのか、そう言ったあとキョロキョロと鞄を抱えながら辺りを見渡していた。
「あんた昨日、日暮に大ケガをさせた奴だよな」
一方の槙原くんは七草くんが現れたことにより、さらに顔が激しく歪んでいた。
あのあとの展開を飲み込むことができていないのだろう。
考えてみれば、七草君は僕に大ケガをさせた張本人だ。槙原くんにはけっかいに見えているのだろう。
「ああ、そうだ。だからこうして落とし前をつけるためにきたんだ」
「どういう意味だ?」
「七草くんだよ。その、例の伴奏者の代理って……」
すると槙原くんはじっと一瞬真剣そうな顔で腕を組んで七草くんを見つめると口を開いた。
「あんた、ピアノどれくらいやってんだ」
「今日」
ポカンと間抜けな沈黙が走った。
どれだけ意味を理解できていないか槙原くんの顔を見ればよくわかることだった。
そして槙原くんはあまりにもことの事態に納得できなかったのか、七草くんに聞こえないように僕を少し離れたところに引っ張った。
「全然意味がわかんねえんだけど……」
「ごらんの通りさ。七草くんが僕にケガをさせてしまった責任をとるために、伴奏を請け負ってるって訳だよ」
「でも初心者なんだろ」
「まあね。でもなんとかなると思うんだよね……確信は無いけど」
なにがなんだかわからない。
槙原くんの顔からはそう出ていた。
顔がさらに面白いことになっている。
「大丈夫。槙原くんが心配するほどじゃないよ」
とは言ったものの、実際に練習をはじめてみると槙原くんと同じ気持ちになる。
僕は七草くんを練習室に案内して基礎的な練習を促すとその間に一通りの流れを槙原くんに教えることにした。
「音階、明らかに間違った位置で弾いてんな、あいつ」
「うん。さっき教えたんだけどね」
七草くんがピアノの練習をしている音は微かではあるが別室からでも聞こえていた。
昼休みと同じ間違いをしている。
やはりまったくの初心者である七草くんにコンクールの曲の伴奏を任せることは馬鹿げた茶番となる運命なのか。
その展開は次の日に予想外の方向へと向かう。