1996年 夏(3)
「センセイの料理っていつも美味しそうですよね」
「そうかい? まあ、好きで作っているからね」
キッチンでは射原先生と燕ちゃんが仲良く並んで野菜を刻んでいた。
二人とも変にエプロン姿が似合うため、ハタから見るとまるで仲の良い親子のようにも見える。
「危ないよ」
一方、師恩ちゃんは危なっかしい動作で背の高い棚から食器を取り出そうとしていた。
あまりにも危険な光景だったため、僕はひょいっと師恩ちゃんの頭上から食器を取り出して渡した。
「ありがとうございます」
ペコリと師恩ちゃんは礼儀正しく頭を下げて食器を受け取った。
そしてフラフラと歩きながらテーブルに向かっていく。
そんな仕草が少しばかり可愛らしい。
射原先生も溺愛する訳だ。
「さて、そろそろおばあちゃんを呼ばないと……。師恩、呼んできておくれ」
すると師恩ちゃんは急に顔をうつむかせて射原先生のエプロンの裾をぎゅっと握った。
そんな師恩ちゃんの様子に射原先生はおやおやと困ったような素振りを見せた。
「大丈夫だって。おばあちゃんはちょっと照れ屋さんなんだよ」
そう言って射原先生は師恩ちゃんを説得させようとするが師恩ちゃんはフルフルと首を振るだけだった。
「しょうがない、一緒に呼びにいきますか。ちょっと準備を頼みますね」
「はーい、了解です」
そう燕ちゃんが返事をすると同時に射原先生は師恩ちゃんの背中を押しながら部屋から出ていった。
僕と燕ちゃんだけが取り残される。
「ねえ、センパイ。射原先生の奥さんって見たことありますか?」
二人の足音が聞こえなくなると燕ちゃんはサクサクとキャベツを切りながら突然そう切り出した。
「僕はないけど、燕ちゃんはあるの?」
「ありませーん。多分射原先生は結婚してない可能性が高いと思います」
「死別とか、離婚とかは?」
「ないと思います」
「根拠はあるの?」
「女の勘です。私の勘って結構当たるんですよ」
燕ちゃんにそんな台詞を呟かれるとなぜか信憑性があって恐ろしい。
なんだかんだと燕ちゃんは時々人の心を探ってえぐり取るような発言をする時がある。
現に僕は何度か彼女の前で泣いている人を男女構わず見かけているからだ。
「センパーイ、火元ばっかり見てないで残りの野菜も切ってくれませんか? なんか野菜切るの飽きてきちゃったんで」
「ハイハイ。じゃあ、交代するよ」
そう言って僕は彼女から包丁を受け取る。
野菜を切ることなら父の店の何度か手伝っているから慣れていた。
残りも少ないし、すぐに終わることだろうと思ったが――
「イタッ!」
どうやら無意識に手元から目を離してしまったようだ。
深くはなかったが指をさっくりと切ってしまった。
切ってしまったところから血が指の付け根に向かって伝っていく。
「あーセンパイ、指切ったんですか? もう、気を付けてください」
「ちょっとうっかりしてただけだよ。まってね、今、水で――」
それは突然のことだった。
ひょいっと燕ちゃんは赤く染まる僕の指をつかみあげると、自分の口の中に含んだ。
僕は突然のことで頭が真っ白になった。
自分自身の感覚が一気に指へと集中される。
口内独特の温かみ、そして不規則に舐め回る舌の動きがどこか不思議だ。
「んっ……」
傷口をペロリと舐めると血が溢れないようにするためなのか、燕ちゃんは集中的に唾液を絡めながらそこを舐め続ける。
そして上目使いで僕の目をじっと見つめていた。
「あの、燕ちゃん?」
舐め続けられていることでなぜか僕の理性は段々と保てなくなってきていた。
心拍数が急上昇していくのがよくわかる。
「母さん。今日は日暮くんもいるんだよ」
「そう。少し賑やかになるね」
バタンとドアが開くと同時にそんな賑やかな会話が聞こえてきた時だった。
燕ちゃんはとっさに僕の指を離し、何事もなかったかのように火元へと戻った。
「センセイ、ごめんなさい。お肉がちょっと焦げちゃいました。燕ったらちょっとぼんやりしちゃったみたいなんです」
「おやおや。まあ、ちょっと焦げたくらいが美味しいと思いますよ。あれ? 日暮くん、ボーとしてどうしたの」
「いえ、別に……」
さっきの興奮が収まる気配が一向になかった。
心拍数がいまだにやかましいぐらいに聞こえてくる。
「あれ? 日暮くん、指から血が出てるじゃないか。うっかり切ってしまったのかい?」
「えっ、あっはい。でも水で流せばいいくらいなので平気です」
僕は慌てて傷口からに流れ出ている指を水で洗った。
射原先生はそんな僕の様子を不思議そうに見ていた。
別にただ指の傷口を舐められただけなのになぜこんなにも後ろめたさがあるのかはわからなかった。
「これ、使ってください」
そんなとき、クイクイとブレザーの裾が引っ張られていることに気がついた。
すると師恩ちゃんが絆創膏を僕に差し出してきていた。
使うのがもったいないくらいの可愛らしいイラストがプリントされている。
「ありがとう、師恩ちゃん」
僕は絆創膏を受け取って傷口に貼ると、師恩ちゃんの頭を軽く撫でた。
「師恩、偉いね。お兄ちゃんに感謝されたね」
「うん」
師恩ちゃんは照れ臭そうに笑っていた。
そんな師恩ちゃんの顔を見ていると早く傷が治りそうな気がした。
「イタイのイタイの飛んでけー」
燕ちゃんは突然人差し指で僕の額をピーンと強く押した。
思わず身体のバランスを崩しそうになったが、僕はなんとか立て直した。
「燕ちゃん、なにするの?」
「おまじないです。結構効き目があるんですからね。さて、準備、準備」
プイッとなぜか不機嫌そうに燕ちゃんは食事の盛り付けを始める。
一方、師恩ちゃんはテテテと燕ちゃんの後ろについて盛り付け終えた食器を運び始めた。
「師恩はよく動く子だね、母さん」
「そうね……」
ふと少し離れたところに耳を傾けるとそんな会話が聞こえてきた。
射原先生のお母さんは燕ちゃんとは違ったような不機嫌そうな雰囲気をだしていた。
確かに射原先生のお母さんは気むずかしそうな人だ。
以前夕食をごちそうになっていた時も口数が少なかった。
射原先生のいう通り、少し照れ屋なだけなのだろうか。
「ハーイ、並べ終わりましたよ。席について召し上がりましょう」
食器と食べるものを運び終えると燕ちゃんはニコニコ愛想よくそういった。
「今日はありがとね。日暮くんが来てくれたお陰でとても賑やかな夕食になったよ」
「そうですか?」
「ちょっとセンセイ、その言い方って普段の夕食はつまらないってことですか? 燕がいてもつまらないんですね。ヒドーイ」
「おっとっと、大変失礼しました。言葉を間違えてしまいました」
「フーンだ。センセイはセンパイがお気に入りなんですもんね」
燕ちゃんはふてくされたかのように頬を膨らませた。これはいつも通りの燕ちゃんのからかいだろう。
「獅子舞さん。そんなこと言わないでください。僕にとって生徒一人一人は宝物なんですよ」
「もうセンセイ、そんな台詞ばっか。でも燕はセンセイのそんなところが大好き!」
「そうですか。ありがとうございます。では気を付けて帰ってくださいね。ほら、師恩。お兄さんとお姉さんにさようならを言いましょう」
「さようなら」
師恩ちゃんはどこか寂しそうに手を振っていた。
燕ちゃんとよく一緒に行動してた訳だし、別れるのが寂しいのだろう。
「じゃあ、センセイ、師恩ちゃん。また来週」
そう言って燕ちゃんが射原先生と師恩ちゃんに向かって手を振ると僕は玄関の扉に手をかけて開けた。
すっかり日が沈んでいるため、外を落ち着いたように涼しかった。
僕は外にでると車の隣にある自転車の施錠を解除して押しながら歩き始めた。
燕ちゃんとは駅まで同じ方向だ。
「ねえ、センパイ」
「なに? 燕ちゃん」
「彼女できたんですね」
「なんで知ってるの?」
僕は急に落ち着きが保てなくなった。
なぜ他学年の燕ちゃんが知っているのか……七草くんの騒ぎがそこまで大きかった証拠だろう。
「熊みたいな大きな坊主頭の人がカッコつけてギターを弾けば嫌でも伝わります。まったく、燕、センパイのこと狙ってたんだけどな」
「はい?」
また彼女得意の冗談なのだろうか。
プリプリと怒ってはいるが真剣な様子はなかった。
燕ちゃんはそんな僕の様子に気がつくとクスリと笑い始めた。
「なんてウソ。燕はセンパイのことをからかうことが好きなだけ。それに燕には彼氏がいるもん」
そういえば彼女にはお付き合いしている人がいた。
なんだかんだと燕ちゃんはモテる子だ。
多分ほとんどの男子に対しては僕と同じように接してるのに違いない。
「でもぅ、センパイってきっとウブだから女の子の気持ち絶対に分からないでしょう。むしろ今回がはじめての彼女でしょう。だから、燕があんなことやこんなことまでレクチャーしてあげる」
「お断りします」
「えー! センパイひどい」
確かに燕ちゃんは恋愛経験豊富だが、余計なことまで吹き込まれそうで恐ろしかった。
笑顔で言われてしまえば信憑性がない。
気がついたら取り込まれて食べられてしまうかもしれない。
そんな僕の悪い予感はほんの少し当たっているのかも知れなかった。
「まあ、センパイが彼女さんのことが飽きて、燕のことを好きになったらいつでも彼氏と別れてあげるからね。じゃあね、センパイ」
「ハイハイ。じゃあね、また今度」
燕ちゃんは投げキッスの素振りを見せると駅の方へ走っていった。
僕は彼女の姿が見えなくなると自転車のサドルに又借り、ペダルを漕ぎ始めた。
それにしても今日は嵐のような一日だったな。
夜塚さんと七草くんのことといい……さて、明日からどんな一日になってしまうんだろう。
「ひーぐらしくーん。今日から一緒に登校しましょう」
次の日の朝。
家族でテーブルを囲って朝食をとっている時だった。
突如として夜塚さんの声が朝の食卓に響き渡った。
「おい、今の女の子の声じゃなかったか?」
「もしかして彼女? あんた、ボーッとしてる割にはやるじゃん」
「ほっといてよ」
父さんと姉さんは面白いことが起きたとばかりの反応を示していた。
しばらくは内密にしたかったんだけどな……。
一方、母さんは黙々とご飯を口に運んでいた。
「早く仕度してでなさい。待たせちゃダメよ」
きょとんと僕と姉さんと父さんはほんの一瞬動作を止めた。
すると母さんはにやりとした笑みを見せる。
「ほらっ、後片付けは母さんがするから。お姉ちゃんもお父さんもボーッとしてないで早く食べなさい」
よくよく母さんの顔を見ると口角が万遍無く上がっており、どことなくウキウキとしていた。
僕は急いでご飯を口のなかに含ませると急いで残りの支度を終わらせて家を飛び出した。
「ごめんね。またせて」
「ううん、平気。私が勝手に来ちゃったからさ。それに、日暮くんにお話することあるし」
僕と夜塚さんは自転車を並べながら漕いでいた。
どことなく、夜塚さんの顔は思い詰めているようだった。
「日暮くん、ごめんね。あれは事故だったのに……」
「大丈夫、気にしてないよ」
ほんの少しの沈黙。
夜塚さんは肝心な言葉を切り出し辛そうだった。
確実に、僕たちは学校へと向かっているため、時間は狭まれていた。
「あのさ、夜塚さん」
沈黙を破るかのように僕はそうそう切りだすと夜塚さんはじっと僕の顔を見つめてきた。
「あんな風な騒ぎになったけど、僕は嬉しかったよ。付き合ってみよう。それにコンクールのパートナーだから、一緒に頑張ってみよう」
実のところ、どうしていいかわからなかった。
ただ、周りは七草くんの騒ぎで僕と夜塚さんが付き合ってると思い込んでいる。
このまま七草くんをからかうための悪ふざけだったということにする選択もあるかもしれないが、夜塚さんが残酷な人だとレッテルを張られてしまう危険がある。
そんな彼女を傷つけたくなかったし、一緒にコンクールに出たかった。ただそれだけの理由だった。
「確かにそうだよね。恋人同士になってみよう。こんな私ですがどうぞよろしくお願いします」
ニコッと僕にヒマワリのような笑顔で夜塚さんはそういった。
その時の僕は初めて恋人ができたことに有頂天になっていた。
その証拠に僕は前をよく見てなかったのか、数メートル先にある電柱に正面衝突してしまうのである。
しかしそんな有頂天も学校に着いた途端、一気に冷めてしまう。
「なにこれ?」
下駄箱の靴を履き替える時だった。
僕の上履きの上に真っ白な封筒が置かれていた。
封筒には不器用な人が筆ペンで書いたような字で『果たし状』と書かれていた。
犯人はきっと彼しかいないだろう。
「なに? 下駄箱のなかになにか入ってんの?」
夜塚さんはひょいっと首を伸ばすかのようにのぞきこんできた。
僕は慌てて封筒を鞄のなかに放り込む。
「なんでもないよ」
「あーやしーい。なに? 付き合ったばかりなのにほかの女の子からラブレターでももらったの?」
「違うよ。ちょっとゴミが入ってたんだよ」
そう言って僕はごまかすかのように教室へと向かっていった。
やっぱり七草くんは僕のことが許せなくて、この果たし状を僕の下駄箱の中に入れたのだろう。
殺害予告のようなものだろう。
そして僕は夜塚さんに気がつかれないように授業中、こっそりと果たし状の中身に目を通した。
拝啓
この度は夜塚有紗様とのお付き合い、おめでとうございます。
夜塚様が選んだ相手なので私は夜塚様と日暮様の幸せを祈るのが使命だと感じております。
思えば夜塚様は僕にとって天使であり救いの女神でした。
むしろ太陽と言い表していいくらいに私の心にはいつも彼女のような美しい花が咲き乱れていました。
彼女の美しい光あってこそ、美しい花が咲いていたのです。
しかし今は違います。
春が過ぎ去り、夏や秋を忘れてしまったかのように僕の心には冬が訪れました。
深い冷たい雪は僕の花が押し潰され、景色は虚無感を表すかのように白一色でした。
そう、私は日暮様と夜塚様の幸せを祝福する一方、深い悲しみに支配されていたのです。
確かに嫉妬は人としての醜さだと思います。
しかしそれは私が夜塚様を好きだからこその嫉妬なのです。
誠に自分勝手なことだと思っています。
しかし第一に思うことは私が恋する夜塚様のことを思う気持ち故であります。
なので今日の放課後、お時間のご都合がよろしければ元緩川を架ける黒小鳩橋近くの公園で私と勝負してください。
もし、本日都合が悪ければ明日でも構いません。
私は日暮様が来るまで毎日放課後そこで待っております。
敬具
方山北高校 2ー7 七草直之
文章そのものは字の汚さと乱暴さを忘れるくらい丁寧だった。
そう感じ取ると、七草くんは一応文芸部員だということを思い出した。
僕、熊にとって食われるのかな?
それに、本当にこなかったら雨が降っても雪が降ってもずっと待っているのだろうか……。
「日暮くん、入部届け書いた?」
一時間目の休み時間のことだった。
羊山さんが夜塚さんと一緒に僕の席に近づいてきてそう声をかけてきた。
すっかり忘れていたため、僕はあわてて自分のカバンから入部届けを取り出した。
名前と学年クラス、そして希望する部活を書くだけだからすぐに終わるだろう。
「まってね。今書いて、すぐに出すからね」
「なに? 日暮くん入ってくれるの?」
「そうよ、有紗。これで仲良く楽しい部活ができるわね。彼、伴奏もやってくれるんでしょう」
「うん、そうだよ」
ほんの一瞬夜塚さんが曇らせた顔を見せたような気がした。
やはりコンクールに不安があるのと、僕じゃ頼りないのかな……。
「じゃあ、入部届け出しに行ってくるから」
僕は必要な事項を書き終えるとそう言って入部届けを手に持って教室から出ていった。
この時間の休み時間なら顧問の比留間先生は職員室にいるはずだ。
「センパーイ。学校で会えるなんて運命的」
ぎゅっと突然燕ちゃんが人目を気にせず腕に抱きついてきた。
無意識なのかどうかはわからないが燕ちゃんのムニムニと胸が直接当たり、恥ずかしさのあまり僕は離れようとするが燕ちゃんはエヘヘと笑って離そうとしない。
ただでさえほかの女の子よりも突き出ているんだからもう少し自覚を持ってほしい。
「やっぱりセンパイってウブでおもしろーい。顔が真っ赤っか。燕、恥ずかしいことしてるかな? ねえ、どこに行くの?」
あまりにも僕が困惑しているような顔をしていたのか燕ちゃんはようやく離れてくれた。
「職員室だよ。新しい部活を作るのに協力してほしいって言われてね、これから入部届けを出しにいくんだ」
「ふーん。何部なんですか?」
「弦楽部だよ。それにね、コンクールの伴奏も頼まれているんだ」
「そうなんだ。じゃあ、彼女さんとイチャイチャし放題ですね。ところでいつ活動してるんですか?」
「確か学校がある日の昼休みと放課後みたいだよ。行きたいときに来ればいいって言われてるからさ」
「ふーん……じゃあ、センパイ。燕はここだから。じゃあね」
そう言って燕ちゃんは反対方向へ歩いていった。
確か燕ちゃんが歩いていった方は特別教室が集中しているところだ。
さて、比留間先生はいるだろうか。僕は職員室のドアに手をかけた。
「失礼します」
職員室内は冷房を入れ始めているため、ドアを開けたとたん涼しい空気が一気に押し寄せて来ていた。
「あの……」
比留間先生は自分の机で授業用のプリントを作っていた。
険しい顔つきをしながらプリントと教科書を見比べていた。
「私になにか用かい?」
「はい。これを出しに来ました」
僕は比留間先生にプリントを差し出した。
七草くんをよく威勢よく沈めている印象があるため、比留間先生に対して無意識な緊張感があった。
しかしそんな僕の緊張を書き消すかのように比留間先生はのんびりとした雰囲気をかもし出していた。
「ああ、弦楽部か。創部に協力してあげてるんだな」
「はい、夜塚さんや羊山さん、七草くんのお役に立ちたくて……」
「そうかい、そうかい。段々と近づいてきてるんだな。お前さんもなにか弦楽器ができるのかい?」
「いえ、僕は特に……ピアノが弾けるので伴奏でお手伝いできればと思ってます」
「なるほど。コンクールにはでるんだな」
「はい」
「そうか、楽しみだな」
ふと僕はプリントの隣にあるCDに目をやった。
すべてクラシックのCDだった。
なるほど、だから比留間先生が弦楽部の顧問なのだろう。
それにしても静かな雰囲気の比留間先生はどこか不思議だ。
いつも七草くんを締め上げている姿しか見たことがない故の感覚だろう。
「まあ、七草を多目に見てやってくれよ。あいつはただ加減を知らないやつなだけなんだ。頼んだぞ」
そろそろ授業が始まる時間になるため、比留間先生の席を離れようとしたとき、比留間先生はポツリとそう漏らした。
やはりなんだかんだと七草くんのことを大切な生徒だと思っているのだろう。
その時、僕はほんの一瞬七草くんから果たし状をもらったことを比留間先生に話そうと思ったが、さすがにそれは反則だと思いやめておくことにした。
ただ、この選択は果たして正しかったのか、後に僕はそう考えてしまうこととなる。
そんな嵐の前の静けさと言うべきだろうか。
いつもなら休み時間の度に七草くんが僕のクラスへ訪れ、賑やかにさせてくれているのに今日もどの時間も来なかった。
ショックのあまり寝込んでしまったのではないかと僕のクラスの人たちはそう思い込んでいるみたいだが、そうではなかったらしい。
飛び交ってきた噂によると休み時間になる度に勝手に周りの机を寄せてスペースを作っては腹筋やら背筋、腕立て伏せを試合前のスポーツマンのようにしているようだ。
周りは夜塚さんを吹っ切るための気分転換ではないかと話していたが、理由を知っている僕には殺害準備にしか思えなかった。
「七草くん、なにか企んでいるんでしょうね」
その日の昼休みの活動時間の時だった。
今日から僕たちは部室で昼食を取ることにしていた。
一足早く昼食を食べ終えた羊山さんはヴァイオリンの教本を読みながらポツリとそう言い漏らした。
「企んでるって? まさか日暮くんへの復讐するとか」
「かもね」
二人は他人事のように笑いを交えながら会話を弾ませていた。
七草くんの性分を理解した上なのか、復讐されるのが自分自身ではないためなのか陽気でいられるのだろう。
しかし果たし状を渡された僕はどうもそんな明るい気持ちでは居られなかった。
放課後には殺されるかもしれない。
逃げるという選択肢もあるかもしれないが、逆に呪い殺されそうだ。
「日暮くん、怖がらなくても平気よ。彼、ああ見えても優しいのよ。それに一応常識もあるし。半殺しの可能性はあると思うけど殺されることはないから」
羊山さんにそう促されても全く安堵できなかった。
それは明らかに近い先、僕にただですまないことが起こるという証明だからだ。
「大丈夫。いざとなったら私が七草くんにいってやるんだから。日暮くんは私が選んだダーリンだって」
「さすが有紗。まあ、でも逆上して日暮くんがもっとボコボコにされるんじゃないの?」
「えー? だったらもう七草くんと口聞かなーい」
「もう、有紗ったら」
そして夜塚さんは昼食を食べ終えると弁当をかばんの中にしまい、机の上においてあるヴァイオリンケース取り出す。
そしてケースを開くと中身を取り出した。
「じゃあ夏初。はじめよう」
「うん」
夜塚さんは席に立ちあがるとそう言って羊山さんにヴァイオリンを手渡した。
羊山さんはなれない手つきでヴァイオリンを構える。ふと羊山さんの手先に視線を落とした。
「羊山さんってヴァイオリンを始めたばかりなの?」
「うん。有紗に誘われてせっかくの機会だしね。でもご覧の有り様よ」
苦笑いを浮かべながら羊山さんは絆創膏だらけの指先を僕にみせた。
弦楽器は指の皮が剥けることをなんども繰り返す。特に指が柔らかいうちは一番剥けることが多い時だ。
「練習あるのみよね。ある程度弾けるようになったら夏初と一緒に楽器を買いにいくこと約束してるの。あとね、もっとうまくなったら日暮くんの伴奏で一緒に合奏しましょう」
夜塚さんはウキウキとしていた。
仲のいい友人といつか合奏できることを楽しみにしているのだろう。
しかしそれはまだ少し先になるだろう。
羊山さんはまだまだおぼつかない指先で音階を弾きはじめる。
「でもさ、夏初ってお父さんは中学校の音楽教師で吹奏楽部の顧問をしてるのに最近まで全然楽器に触れたことがないなんて意外だよね」
「親と子は別。私自身が偶然興味を持たなかっただけ。それに元々音楽は聞いてる方が好きなの」
その時、羊山さんは目を伏せながらヴァイオリンを見つめていた。
「そう言ってる割りには真剣に練習してるよね。はじめてつまずかないで音階が弾けたとき、すごく嬉しそうだったじゃない」
「もうほっといてよ」
「だって、可愛かったんだもん。夏初って本当にかわいい笑顔を見せるんだよ。クールビューティでいるよりも、いつも笑ってた方がモテるのに勿体無いよね」
「別にモテたいなんて思ってませんから」
「もう、いじっぱりなんだから。そう言ってるとあっという間におばあちゃんになっちゃうよ」
羊山さんはプリプリと怒っていた反面、楽しそうにもしていた。
その様子は二人の仲の良さをうかがえる。
いつも笑いながらふざけあってヴァイオリンの練習をしているのだろう。
「ねえ、日暮くん。今日の放課後は来れるの」
夜塚さんにそう投げられた瞬間、僕はすっかり忘れていた恐怖がよみがえってきた。
「なに? 私に言えない秘密の約束でもあるの? もしかしてやっぱり今朝、ラブレターが入ってたんでしょう」
「いや、違うよ」
じとっとした夜塚さんの目がなにかを見破っているようだった。
確かに正直に話せば七草くんの復讐を逃れることができるかもしれないが、これも比留間先生に告げるのと同等の反則だ。
「そんなこと、絶対にないから。ただちょっと身の危険があるだけだって」
「身の危険って七草くんの殺意? まあしばらくはありそうだけどほっとけば平気よ。日暮くんに誠意があれはどうってことないわよ」
羊山さんにそう言われても僕の中にある恐怖心は消えなかった。
しかし果たし状も渡されてしまったわけだ。逃げても仕方がない。
七草くんのことだから確かに殺されはしない。
ただほんの少しいたいケガで済むかもしれないし、果たし状と見せかけて僕に別の用事があるのかもしれない。
結局のところ、その日一日中七草くんは僕たちのクラスにやってこなかった。
そのためクラスのほとんどの人たちはどこか落ち着かない様子だった。
そして僕はホームルームが終わるとなるべくゆっくりと自転車で東街へと向かうことにした。
確か東街は槙原くんが通っている高校がある地域だ。
それにしても東街なんて滅多に行かないから通りすぎる景色が新鮮だ。
確かに射原先生の家は東街にあるが、駅から近い位置にある。
市街地からも外れると、ポツポツと田んぼや畑が存在し始める。
そして元緩川の堤防付近には東高生が横に並びながら自転車を走らせたり、散歩している老人などがいた。
のんびりとしている地域だ。
なんとなくそんな気がした。
さて、肝心の黒小鳩橋はどこにあるのだろうか。
確か通る橋のなかでは一番目立つ橋であり、広い公園が立地されている。
そのため、すぐに黒小鳩橋にたどり着くことができた。
僕は自転車を邪魔にならないところに止めると七草くんはいないかと思い辺りを見渡した。
すると七草くんは橋の隅っこで小さくうずくまっていた。
一体、なにをしてるんだろう……僕は後ろから様子をうかがおうかとおもったが、七草くんの背中が大きくて確認することができなかった。
まさか僕を陥れるワナでも仕掛けているかもしれない。
そんな結論に至ると僕は足元に落ちている少し長くて太めの木の枝が目に入った。
僕は木の枝を握りしめると覚悟を決めた。
気がつかれないように後ろに立って一瞬のうちに強く振りかざせば勝てるかもしれない。
「おい、日暮。こんなところでなにやってんだ」
「ひっ!」
聞き覚えがある声に僕は思わず正気に戻った。
僕は恐る恐る後ろを振り返った。
すると槙原くんがきょとんとした顔で自転車にまたいでいた。
背中には相変わらずトロンボーンケースを負っている。なぜか僕の顔からは冷や汗が流れ始めていた。
「槙原くん? 今の時間って部活だよね。どうしてここに?」
「榊も顧問も出張でいなくて部活ができねえんだよ。だから今日はちょっと先にある公園で練習しようかと思ってよう。それにしてもお前がここにくるなんて珍しいな。だれかと待ち合わせでもしてんのか?」
「ちょっとね……」
「ここは危険だから相手と連絡が取れんなら待ち合わせの場所を変えた方がいいぜ。ここ最近不気味なやつの目撃情報があるんだ。だから一人で木の棒を持ってたら警察に勘違いされて職務質問されちまうぜ」
「そうなんだ」
僕はちらりと七草くんがいる方に目を移した。
よくよく見ると、七草くんの足元には金属製のバットが転がっていた。
マズイ、やはり僕を殺す気でいたんだ。
「なあ、あれって噂の不気味なやつか? いかにもそれっぽい顔してるな」
槙原くんも七草くんの存在に気がついたのか、興味深そうな目をしながら七草くんを指していた。
このままだと槙原くんも巻き込まれてしまう。
やはり早めに終わらせなければ……。
「槙原くん。やっぱり僕、ここで片付けないと命の危険に関わるかもしれない」
「はっ? どういうことだ、日暮」
「僕は君が友だちでよかったと思うよ」
「おい、日暮。いまいち状況がのみこめねえんだが……」
そして僕は木の棒を力強く握りしめると狂ったように叫びながら七草くん目掛けて駆け出した。
一度スイッチが入ると不思議なくらいに恐怖が吹き飛んでいく。
「はっ?」
そんな僕の様子に七草くんはぎょっとした表情を見せたが、素早く僕が振りかざそうとした木の棒を素手でつかんだ。
そしてなれたようなツバメ返しの如く、僕の身体を勢いよくひっくり返した。
地面に落ちる衝撃は思いの外大きく、左腕が最初に叩きつけられたため、そこから痛みが伝わっていた。
なぜか感覚がない。
「日暮、大丈夫か?」
槙原くんは慌てた様子で僕のところに駆け寄ってきた。
僕は情けないことにその場で起き上がりもせずうずくまっていた。腕が尋常ではないくらいに痛い。
「おい、様子がおかしいぞ。腕と手首がヤバイ方向に曲がってんぞ」
槙原くんのその言葉に僕は恐る恐る痛みの発信源に目をやった。
確かに手首が本来曲がらない方向へ曲がっている。
そして不気味なくらい何倍もの太さに腫れている。
その手首の異変に気がつくとさらに痛みが増してきたような気がし、声にならない叫びを思わずあげてしまった。
「日暮、しっかりしろ!」
槙原くんは必死になって僕に声をかけるが痛みのあまり僕は正気でいられなかったため、槙原くんの声が耳にはいらなかった。
なぜこんなことが起きてしまったのか。
僕は無意識に七草くんの足元に目をやるとつぶらな瞳をした犬はちょこんとその場に座っていた。
「日暮くんどうしたの? その手」
「ちょっと転んじゃったんだ。ごめんね、だから今日はバスで通学するね」
その次の日の朝。
夜塚さんは僕の左手の様子を見るなり驚いた様子でそう問い詰めてきた。
コンクールで伴奏を弾くといいながら、手をこんなにでもしてしまえば誰だって取り乱してしまうだろう。
そのため、今日は夜塚さんと顔を会わせづらかった。
昨日一晩中言い訳を考えていたが、結局ベストだと思える言葉が思い付かなかった。
「治るのにどれくらいかかるの?」
ギクリと冷や汗が流れた。
僕は思わず歩き始めた足をピタリと止めた。
同時に夜塚さんもきょとんとした顔で自転車を押す足を止めた。
「結構かかるの?」
「うん」
僕は恐る恐る彼女の顔をのぞきこみながら頷いた。マズイ、怒ってるかもしれない。
「お医者さんには大体これくらいって言われてるんんだ」
ピッと僕はその場の空気をごまかすかのように右手の人差し指を一本立てる。
「一週間ぐらい?」
「ごめん……一ヶ月ぐらい。右手の骨が複雑骨折してるのと、転んだ拍子に指も三本ほど折れてるんだ」
実のところ、お医者さんにも大分驚かれていた。
投げ飛ばされて受け身を失敗しただけでこれだけ骨折するなんてどれだけ骨が弱いんだかと呆れられていた。
それ以前に七草くんの腕っぷしの強さもうかがえる。
「なにやってんのよ……」
夜塚さんは大きなため息をついて自転車を押す足を止めた。
マズイ、やっぱりそうとう怒ってるに違いない。
「ねえ、もしかして七草くんの仕業よね?」
「違うよ。七草くんはまったく悪くないんだよ」
「やっぱり七草くんが関わってるじゃない」
しまった、言葉を間違えてしまった。
原因を考えると僕自身の勝手な思い込みでこのような結果を招いてしまった。
七草くんはただ単に巻き込まれただけだ。
それに、救急車が来るまでの間、慣れているかのように応急手当てをして僕を病院まで見送ってくれた。
そのことに関してはお礼を言いたかったけど、お医者さんにその時のことを話し、僕に対する謝罪を終えるとすぐに帰ってしまった。
「もう、日暮くん。後ろに乗って! 急いで学校に行こう」
「へっ?」
夜塚さんは突然僕を引っ張りあげて自転車の荷台の上に乗せると、猛スピードでペダルを漕ぎ始めた。
「ちょっと夜塚さん。二人乗りは危ないって」
「そんなこと今関係ないでしょ。ほら落ちたらもっと大ケガするからしっかり掴まって!」
言われるがまま、僕は身の危険を感じて夜塚さんに掴まった。
それにしても逆の立場で自転車の二人乗りなんて情けない。その証拠に通りすぎる人々はクスクスと笑っていた。
「ちょっと、七草くん」
学校に着くなり夜塚さんは僕を引っ張りながら自分のクラスに寄ることなく七草くんがいる教室に入っていった。
「おお、夜塚ちゃん。こっちから遊びに来てくれるなんて嬉しいね」
そんなことなどつい知らず、七草くんはのんきにスクワットをしていた。
そんな七草くんの様子を気にとめず、夜塚さんはズンズンと剣幕な顔をして七草くんに近づいていく。
「なあに? 夜塚ちゃん」
七草くんはスクワットを中断するとお気に入りの小動物をみるような目で夜塚さんの顔をのぞき込む。
すると夜塚さんは掌をグッとあげるとパーンと痛々しい音を立てながら七草くんの頬を叩いた。
その瞬間、この場は一気に凍りついた。
「ちょっと夜塚ちゃん。痛いよ。なにすんの?」
「バカ」
「へっ?」
「バカバカバカバカバカ、七草くんのバカ!」
そして夜塚さんはもう一回七草くんの頬を思いっきり叩いた。
「なんて邪魔してくれるのよ。日暮くんにケガを負わせるなんて七草くんサイテー。そこまで小さい人だとは思わなかった。もう大嫌い、これから先ずっと口聞いてあげないんだから」
夜塚さんは言いたいことをいい終えるとその場から走り去っていった。
多分、せっかくコンクールに出れる兆しができたのに、僕が怪我をしたせいで台無しになったことが悔しかったのだろう。
そう考えると心がチクリといたんだ。
一方、七草くんは夜塚さんに叩かれたのと大嫌いと言われたことが相当ショックだったのか落胆した様子でその場に座り込んでいた。
「夜塚ちゃんに嫌われた……もうおしまいだ」
「ごめん、僕のせいで。でも果たし状を渡してきたのは七草くんの方だよね」
「はあ?」
すると七草くんは不思議そうに眉を歪ませた。まるで身に覚えのないことを言われたかのようだ。
「昨日、これが僕の下駄箱の中に入ってたんだ。これ、七草くんが書いたものだよね?」
僕は鞄から例の果たし状と取り出して七草くんに渡した。
すると七草くんは怪訝そうに果たし状を広げた。
「これ、俺の字じゃないぜ」
「へっ?」
予想外の言葉に思わず声が裏返った。
いや、今になって言い逃れをしている可能性があるかもしれない。しかし事態は思わぬ方向へと進み始める。
「時々いるんだよ。俺の名前を使って勝手に決闘をさせようとするやつが……。お前も騙されたって訳だ。それにしてもセンスねえなこの文章。それに俺はこんなに字が汚くねえよ」
「へっ?」
「こうみえてもな、俺は小学校の頃から今までずっと硬筆、習字のコンクールを総なめにした男なんだ。その証拠に、ほら」
七草くんは机から適当に一冊のノートを僕に手渡した。
僕はノートのページを開いたとたん我が目を疑った。
一文字一文字乱れなく文字がノートの線にそって書かれていた。まるで印刷された文字のようだった。
「それじゃあ、何であの時金属バッドなんて持ってたの?」
「ああ、あれな」
ポリポリと七草くんは頭を掻くとさらりと度肝を抜くようなことを言い放った。
「捨て犬の面倒をあそこで見ててな、夕方になるとガキどもが犬にちょっかいだしにくるんだよ。別に殴るつもりはないんだが、持ってるだけで大人しくなると思って持ち歩いているんだ。まあ、最近じゃあいつも俺に懐いてきて野球ごっこをしてるんだ……」
七草くんの顔はどこかウキウキとしていた。
一方の僕は全て思い込みで、見ず知らずの誰かにからかわれたということに対してなぜか身体の力が抜けていった。
結局七草くんが夜塚さんのことが大好きなのは変わらないが、僕に対して大きな嫉妬があるわけではない。
なんだか自分が格好悪い。
「ごめん、全部僕の勘違いだったんだね」
僕は我にもあらず深々と頭を下げた。
すると七草くんはポンッとにこりと笑いながら僕の頭に手を乗せた。
「お前、いい奴だな。夜塚ちゃんを奪った汚い野郎かと思ったけど、見直した。それに俺はお前に怪我を負わせた責任があるからな。よーし、俺に任せろ!」
七草くんはなぜか張り切った様子でそう言い放つと、猛ダッシュで教室を飛び出していった。
一体、何を企んでいるんだろう。
僕はいやな予感を感じ取ると慌てて彼の後ろを追いかけた。
そんな僕と七草くんの様子にその場にいた人たちはまた面白いことが起きたと思わんばかりにクスクスと笑っていた。
「夜塚ちゃん!」
七草くんの目的の場所は僕のクラスだった。
七草くんが久々に来たことにクラスの人たちは少しばかりギョッとしたような反応を見せていた。
「ごめんね、夜塚ちゃん。こいつに怪我を負わせちまって……」
七草くんは夜塚さんの席の近くまで寄ると突然その場の床に座って顔を床に擦り付けるぐらいに頭を下げた。
そしてその場にいた人間が聞いたら驚天動地だと思ってしまうようなことを言い放った。
「この落とし前、絶対に払いたいんだ。だから――俺が日暮の代わりにコンクールの伴奏をします。指導はもちろん日暮からしっかりと受けます」
ザワッと一瞬の雑音が立つと急にその場が沈黙に支配された。
この場にいるほとんどの人間が予想外の言葉だと感じ取ったのだろう。
僕も七草くんが僕の代わりに伴奏を弾くなんて言葉……初耳だ。
七草くんはピアノをどれくらい弾けるんだろう。
「七草くん、急になにいってんの? 鍵盤の音すら知らない君がほんの一、二ヶ月で伴奏を弾けるはずないじゃない」
「だって俺のせいでこんなにメチャクチャになったんだよ。責任をとるために……」
「ふざけないでよ!」
その時の夜塚さんの声はいきり立っていた。
さすがの七草くんも夜塚さんの感情的な声にギョッとほんの一瞬小さくなっていた。
「舐めないでくれる? コンクールの伴奏なんて素人にそう簡単にできるもんなじゃないんだからね」
「だから一生懸命練習するよ。俺、夜塚ちゃんの役にたちたいんだ」
「いい加減にして。七草くん」
夜塚さんの機嫌がなおる様子なんて全くなかった。
一方の七草くんも一歩もそこから動こうとはしない。
これはおとなしく比留間先生が迎えにくるのを待つしかないだろう。
「有紗、いいじゃない。彼も反省してるんだし。試してあげてもいいんじゃない」
「夏初……」
いつの間にか羊山さんは落ち着いた様子で夜塚さんと七草くんの間に入ってきた。
するとなぜかさっきまでの冷えきった空気が緩和されたような気がした。
「チャンスぐらいはあげましょう」
「チャンス?」
夜塚さんは羊山さんのチャンスという言葉に難色を見せた。
「そう。例えば一週間以内にゆっくりでもいいから最後まで弾けたら伴奏を合格。でももしダメだったら別の伴奏者を探す約束でいいじゃない。それに、優秀なピアノの先生付きだからきっと七草くんを素晴らしい伴奏者に仕立ててくれるはずよ。ね、日暮くん」
羊山さんは僕にウインクを向けるとどう反応すべきか非常に迷った。
今まで僕はピアノを他人に教えたことなんてない。
だからこそ、期待をされても応えられる自信がなかった。
「七草くんもそれならいいよねえ? 一週間後にテストだからしっかり日暮くんに叩き込んでもらうのよ 」
「わかったよ、羊山さん。見ててね、夜塚ちゃん。俺、一生懸命練習してくるから。日暮、昼休みに早速練習だからな。音楽室でまってるぞ!」
「ちょっと七草くん、私はまだいいっていってないから」
最後まで話を聞かぬまま、七草くんは通り道の机の整列を見出しながら教室から出ていった。
周りはそんな七草くんの様子にあきれ返っていたが、どこかほっと安心しているようにも見えていた。
それほどまで七草くんはこのクラスにとっての日常の一部となっていたのだろう。
「ねえ、ちょっと夏初。勝手に決めないでよ。初心者の人が一週間以内に伴奏なんて弾けるはずないでしょう」
「あら、じゃあ有紗は七草くんがどれくらいで弾けると思う?」
「一ヶ月ぐらい……?」
ふてくされたように夜塚さんは指を一本立てながらそう答えた。
多分夜塚さんは七草くんなりの生懸命打ち込む誠意を知っていたに違いない。だから本当はうれしかったに違いない。
結局僕も思い過ごし故に怪我をしてしまった責任がある。七草くんと夜塚さんのためにしっかりしないと。
それよりも初心者の七草くんにどこから教えればいいんだろう……。
「頼んだよ、日暮先生」
自分の席に向かおうとしたとき、羊山さんはそういいながら僕の肩を叩きながら通りすぎていった。
その瞬間なぜか大きな責任が僕の肩にのしかかってきたような気がした。