1996年 夏(2)
「ねえ、知ってる? 日暮くんと夜塚さん、付き合い始めたんだって」
「えっ! 七草くんかわいそうじゃない?」
「だよね、ずっと追いかけてたもんね」
たった数分の出来事であるのに、噂はあっという間に広がってしまったようだ。
一体、誰が広めたんだと思ったが、すぐにその犯人は七草くんだと発覚する。
「振らーれーた、振られた。俺は振らーれーた。夜塚ちゃんに振られた。日暮っている同じークラスの野郎と付きー合ったー。取らーれた」
七草くんが僕のクラスで自分の悲しみを替え歌にして口ずさんでいた。
どこから持ってきたのか、微かにギターの音が聞こえる。
やはり七草くんは正しいギターの弾き方を知らないのか、休みなく聞こえるのは同じ和音だった。
通りで学年中に知れ渡ってしまうわけだ。
そのため、僕は通り過ぎる人のチラチラと痛い視線浴びていた。
また、七草くんが僕のクラスに居座っているため教室には戻り辛い。
七草くんと顔を合わせれば何をされるか知ったもんじゃない。
僕はなるべくゆっくりとした歩調で廊下を歩いていた。その間にも周りは僕の顔を見てクスクスと笑っている。
「あの小童!」
そんな時、猛スピードで比留間先生が僕の横を通り過ぎた。
それは七草くんに負けないくらいの嵐だった。
どうやら七草くんの騒ぎを聞きつけて走ってきたのだろう。
「おい、七草。貴様何をしてる!」
「ひっ!」
その瞬間、七草くんの歌声とギターを弾く音が止まり、僕のクラスからガタゴトと嵐がその場にあるものを吹き飛ばすような音が聞こえはじめる。
「まったく、お前は周りの迷惑を考えないのか」
嵐のような騒ぎが収まると、比留間先生は七草くんの首根っこを掴んで教室から出てきた。
そしてズルズルとクラスへと引き戻されていく。
「おい貴様! 夜塚ちゃんの彼氏になったからって調子に乗るんじゃねえぞ!」
僕の隣を通り過ぎようとした瞬間、七草くんは比留間先生に引っ張られながらも鬼のような形相で僕にそう言い放った。
「黙れ小僧!」
「はい、すみません」
しかし、比留間先生に引きずられながらそう言われてもそれは間抜けな光景にしか見えなかった。
そして教室に戻るとやはり夜塚さんの姿はなかった。
担任の先生の話によると調子が悪くなったという理由で早退をしたみたいだ。
一体、夜塚さんのあの行動はなんだったのだろうか。
二回目のキスの時に夜塚さんは泣いていた。
それはまるで何かを隠すために、そして誤魔化そうとするために。
その日はそのことばかりを考えていた。
そして、午後の授業の内容なんて頭に全く入ってこなかった。
もうすぐ一学期の成績を決める期末テストがあるというのに不安に余裕がなくなってしまったからだ。
「イテッ!」
ぼんやりと板書されている授業内容に一息ついてため息を吐いている時だった。
突然ルーズリーフをくしゃくしゃにまとめたものが横から僕の頭に直撃した。
一体、誰が投げてきたのかと飛んできた方向に目を移すとその張本人はムッとした様子で僕を睨みつけていた。
よくよく見ると、何度か失敗したのか僕の周りには丸まったルーズリーフの紙くずが何枚か散乱していた。
これは、僕に対する嫌がらせなのだろうか。
ほんの一瞬そう思ったが、彼女の動作を見ると僕に何か伝えたそうな顔をしていた。
とりあえず僕は紙クズを広げてみることにしたが――
「何やってんだ、日暮」
気が付くと、さっきまで黒板の前にいた先生が呆れたような顔で僕の机の前に立っていた。
「それになんだこのゴミは。お前が散らかしたのか?」
「いえ。気がついたら……」
「気がついたら散らかしていたのか? ほら、だったらとっとと片付けろ」
先生は僕の話を最後まで聞かず、教科書を丸めてポンっと軽く僕の頭を叩いた。
すると、周りはクスクスと笑い始める。
やはりこれは紙くずを投げてきた彼女の嫌がらせなのだろうか。
それ以前に僕は彼女に悪いことをしただろうか。
接点というものがまったく見つからない。
とりあえず僕は先生に言われた通り、自分の席に散乱している紙クズを拾い集めた。
そしてどさくさ紛れに紙を広げて書かれている内容に一読してみた。
『放課後、文芸部の隣の空き部屋に来ること 羊山夏初』
癖のある丸っこい字でそう書かれていた。
嫌がらせでないことに気が付くと僕は内心ほっとしたが、また新たな不安が横切った。
昼休みのことを問い詰められるかもしれない。
なぜなら羊山夏初という女子生徒は夜塚さんの無二の友人だからだ。
クラス内では二人でワンセットといわれるくらいに仲がいいし、羊山さんは何かと夜塚さんの面倒を見ているため、同い年でありながらも大人のお姉さんという印象が強い。
トロンとした大きな瞳に華奢な胸元を隠すふわっとした限りなく黒に近い栗色の髪型の影響か彼女の大人っぽい印象を引き立てている。
その大人っぽい性格の役割あってか、男女かまわず頼られている存在だ。
そのため、なぜ彼女ではなく夜塚さんがクラス委員を務めているかが僕の中での不思議である。
それにしても問い詰められてしまうんだろう。
それに何故文芸部の隣の部屋なのだろうか。
別に廊下や教室で話しても問題はないと思う。
まさか、文芸部の隣の教室というわけなのだから、羊山さんと七草くんが手を組んで僕に嫌がらせをするのではないだろうか。それはそれでとんだとばっちりだ。
「ねえ、どういうことなの?」
やはり羊山さんは怒っているようすだった。
感情的ではなかったが、物静かな威圧感が今の彼女の表情をにじみ出していた。
一方、僕は昼休みの出来事を正直に話すか否か迷っていた。
言葉を間違えれば、彼女が隣教室に待機してると思われる七草くんを呼びに行く可能性があるからだ。
そんな展開となれば間違いなく殺される。
「ごめんなさい」
必死に考えて出てきたのはその言葉だけだった。
なにを考えてもこの言葉しか思い出てこなかった。僕は恐る恐る顔を上げた。
「やっぱり有紗に巻き込まれたのね……」
すると同時に羊山さんは色っぽさを象徴するぷっくりとした唇から呆れたようなため息をついていた。
「ごめんね、日暮くん。有紗の悪い癖に巻き込ませちゃって……」
「悪い癖?」
「そう、悪い癖」
まるで自身の妹の面倒をみることに諦めを覚えたような顔だった。
こうして羊山さんを見ていると、普段から夜塚さんに振り回されていることが伺える。
「七草くんに対してもそうなのよ。あの子、自分の気持ちをごまかすときいつも人を巻き込んで迷惑葬るのよね」
「はあ……」
羊山さんはどうやら僕に対して怒っているわけではなく、夜塚さんに対してのようだった。
やはり夜塚さんは僕のことをからかっていたのだろうか。
いや、そんなことはないハズだ。あの時、彼女は微かな涙を見せていた。きっと、なにかを隠しているに違いない。
「ねえ、日暮くん。君はどうなの? 有紗のこと」
ゆっくりと羊山さんは窓に近づき戸を開けながらそういった。
すると強い風が部室内に入り込んできた。
そんな風に遊ばれるかのように、羊山さんの髪が揺れる。
その姿はどこか幻想的だったが、今の僕にとってはすべてを見透かす大きな存在だった。
「七草くんのことがあるから後ろめたい気持ちはあるよ、確かに。でも夜塚さんが僕に関心をもってくれたこと、すごく嬉しかったよ」
自分の言葉に自信はなかった。
言葉を間違えてしまったのではないかと不安で羊山さんの顔を見ることはできなかった。
「日暮くん、優しい人ね。でも怖がりさんでしょう。そういうところ、有紗と似ているわね」
「へっ?」
クスリとした笑い声が聞こえると僕は思わず顔を上げた。
すると先ほどの恐怖感が一気に消え去ったような気がした。
それにしても僕と夜塚さんが似てるってどういうことなんだろう。
僕が羊山さんの言葉がうまく理解できずにきょとんとした顔をすると、彼女はニッとした笑みを見せた。
「合格。これでどう――七草くん」
「えっ?」
するとその瞬間、ノシノシとした大きな足音を立てながら熊のような坊主頭の大男が部室の中に入ってきた。
まさか、彼女の本当の目的はこれからなのだろうか。
「ひーぐーらーしーくーん、なにそんなに怖がってんの? 僕ってそんなに怖い顔してたかな?」
七草くんの声は明らかにひきつっていた。
血の涙があふれでてもおかしくないくらいに目が充血している。
失礼だが、まるでゾンビだ。
僕は恐ろしさのあまり足を後ろに引いたが、七草くんは止まり気配を見せず、僕を部室の隅にへと追いやった。
「七草くん、日暮くんを怖がらせるために呼んだんじゃないんでしょう?」
羊山さんのその言葉に七草くんはハッとした動作を見せると、テヘっと自分の頭を軽く叩いて不気味に舌をだして笑った。
さらに不気味だ。
「ごめんね、日暮くん。怖がらせちゃったね。うん、俺って元々顔が怖いから許してね」
いや、十分に感情が先走っている。
早くここから解放されたい、だれか助けて……。
「夜塚ちゃんが選んだ奴だから俺はかっこよく引き下がるよ、日暮くん。それでね、俺が言いたいのはね、ただ一つだけなんだよ日暮くん――夜塚ちゃんを泣かせたり傷つけたら力の限りぶっ潰す」
その時、僕は潰される以前に殺される確信をした。
これからは安易な行動はできない。
「ほらっ七草くん。これでいいでしょう。私たちはただ二人の幸せを願って応援できるだけいいじゃない。あっ、そうだ日暮くんこれ契約書だからね」
ニコニコと面白がる様子で羊山さんは部室の戸棚の引き出しから一枚の紙を差し出した。
「これに名前と必要事項を書いて顧問の比留間先生に渡してね」
部員届けだった。
どうやら認めてもらう条件として創部の準備に取りかかっている弦楽部に入部することらしい。
別に彼女たちの役に立つなら構わない。
それに僕は夜塚さんが出場するコンクールで伴奏をすることになっている。
入部しても不自然なことではないだろう。僕は迷いなく入部届けを羊山さんから受け取った。
「日暮くん、ありがとう。ところで時間大丈夫? 今日はアルバイトとかあるんじゃないの?」
「大丈夫、今日はないよ……あっ、いけない」
今日の騒ぎですっかり忘れていた。
アルバイトとがないこの日はそれ以上に大事な用事がある。
そう、毎週一回は通っているピアノのレッスンがある日だ。
「ごめんね、長い時間引き留めちゃって。まあ、昼休みと放課後にいつでも開いているから気軽に来てよ。じゃあね」
部室を飛び出す直前、羊山さんをにこりとしながら手を振って見送ってくれた。
その一方、七草くんからは未だに殺意が漂っていた。僕、やっぱり近いうちに殺されるかもしれない。
「日暮くん、今日は遅れてきたけど学校でなにあったのかい?」
「あっ……いえ……ちょっと友だちと立ち話をしすぎただけです」
「そうなんだ。時間を忘れるくらいに楽しかったんだね」
「すみません」
僕が通っているピアノ教室の講師である射原先生はニコニコとした笑顔で僕にそう声をかけてきた。
僕はアタフタと慌てながら鞄から楽譜と筆記用具を取り出す。そしてピアノ椅子に腰かけた。
射原先生は不思議な人だ。
常に楽しそうに笑っているし、明らかに間違えた演奏をしても決して厳しいことを決して言わない。
そのお陰で僕自身安心してレッスンに打ち込むことができ、焦りさえも書き消してくれている。
だから僕はこの週に一回のピアノのレッスンを大事にしていた。
「それにしても今日の日暮くん、顔色が悪いですね。何かあったんですか」
不意に僕は先程の殺意がよみがえってきた。
彼の顔を思い出してしまえば顔色も悪くなってしまうわけだ。
「学校の勉強が大変なのかい?」
「……いえ」
「それじゃあ、お家のことで何かあったのかい?」
「……いえ」
「何か悪いものでも食べてしまったのかい?」
「……大丈夫です」
僕はうつむいたまま、ピアノの鍵盤を見つめながら答えるだけだった。
そんな僕の様子に対し、射原先生は心配そうに頭を抱えて悩み始めた。
「困ったなあ。僕は心配です。とても心配です」
「先生が心配することではありません。今日は少し色々ありすぎて疲れてしまっただけですよ」
すると射原先生は不思議そうにきょとんとした表情で首を傾げた。
「ならいいんですが。ではレッスンを始めましょうか」
「そうですね。あっ、この楽譜見ていただいてもいいですか?」
僕は夜塚さんからもらった楽譜を取り出す。一応射原先生の意見を聞いてみたかった。
「おやおや、伴奏をするんですか」
「はい。友だちがヴァイオリンのコンクールに出場するから弾いてくれって頼まれたんです」
「なるほど。素晴らしいですね。では、しばらくコンクールの伴奏を中心に練習していきましょう」
射原先生はとてもうれしそうな顔をしていた。そして僕から楽譜を受け取ると、鼻歌を交えながらパラパラとページをめくる。
「んっ?」
そんな時、制服の裾を引っ張られる感覚に気がついた。
僕が座っているピアノ椅子の隣に長い栗色の髪をした女の子がちょこんと立っていた。
身長は神無ちゃんと大体同じぐらいだ。
「どうしたの?」
僕は女の子に目線を合わせた。
すると、女の子はニコッと笑って僕のブレザーのポケットに何かを突っ込むと、その場から走って行った。
ちょこちょこと走る姿がどこか可愛らしい。
一体、何を入れられたのだろうか……取り出してみるとチョコレートとビスケットが二つずつ入っていた。
この子は射原先生の娘の師恩ちゃんだ。
「最近はお客さんを見つけるとね、こうしてお菓子を渡しているんだよ。かわいい子だと思わない?」
射原先生は師恩ちゃんが走って行った方向をやさしいまなざしで見つめていた。
射原先生にとって大切な娘なのだろう。しかし、射原先生の家族については謎が多い。
時々、夕食をごちそうになっているが実は師恩ちゃんや射原先生のお母さんはよく見かけるけど、奥さんの姿を一度も見たことがなければ、存在すら聞いたことがない。
奥さんの話……下手に聞かない方がいいだろう。
「それにしても日暮くん、僕は関心したよ。ピアノの伴奏を引き受けるなんて自分の演奏に自身を持つことができたのかい?」
確かに僕にしては珍しいことだった。
夜塚さんがはじめて僕のピアノに興味を持ってくれたにせよ、もし他の人だったら何を言われても丁重に断っていたのかもしれない。
「さて、楽譜を見せてごらん」
射原先生は楽譜を広げて鼻歌で譜面を読み始める。
時折、曲の世界に入り込んでいるのか身体を前後左右に揺らしていた。
「これは素敵な曲です。難易度としてはそんなに難しくありませんが工夫や日暮くんの気持ち次第ではもっと素敵な曲になる可能性がありますね」
「そうですか」
射原先生から楽譜を受け取ると僕はもう一度譜面を読み始めた。
「それでこの曲はいつ頂いたんですか? 譜読みと練習は終わりましたか?」
「いえ、今日もらったばかりで忙しかったのでまったく……」
「そうですか。ならほんの少し譜読みと練習をして残りの時間は冒頭と課題の曲の指導にあたりましょう」
「はい、お願いします」
そういって射原先生は部屋から出ていった。
やっぱり切り出すならある程度練習したあとの方がよかったかな。
でもなるべく早くこの曲の練習に打ち込みたかった。
さて、曲の形を作り始めなくては……。
僕はゆっくりと指を定められた位置に乗せ、鍵盤を押し始めた。
「今日はここまでだね、曲そのものは難しくなかったので結構進みましたね。日暮くん、つかみはどうだい?」
「はい、先生の指導のお陰で曲そのものの雰囲気つかめた気がします。余裕をもって演奏者に合わせて弾けるかどうか不安ですね」
確かに曲そのものは難しくはないが、弾いているうちに日々どれだけ基礎的な練習をしているかを問われる曲だ。
同じフレーズの繰り返し、そして一つ一つの音の強弱……そのことを意識しながら弾かないと夜塚さんの演奏を台無しにしかねない。
「まあ、日暮くんは真面目だからね。だからまずは肩の力を抜くことから始めた方がいい。あんまり入れすぎると演奏する人も疲れてしまうからね」
「はあ……」
「さて、そろそろ次の子がやって来る時間だ。すぐに帰るのかい? それとも別室でお茶でも一杯飲んで休憩するかい?」
「いえ、すぐに帰ります。学校の課題もたまっているので」
以前はレッスンが終わったあとはその流れでよく夕食をごちそうしてもらったが、最近はどうもそれを避けたかった。
確かに家族のように接してくれることは嬉しいが、射原先生の厚意に甘えすぎてはいけない。
そしてもう一つ理由があった。
「ええー! つまんなーい。センパーイ、燕が終わるまで待っててよー」
甘ったるい声の遮りに僕は後ろを振り返った。
獅子舞燕。
同じ高校に通う一つしたの下級生だ。
彼女の甘ったるい雰囲気がどことなく苦手だから最近はなるべく早めに射原先生の家をあとにしていた。
「もう、センパイ。絶対に燕のこと避けてるでしょ。ひどいよね」
燕ちゃんはプンプンに怒りながら頬を膨らませていた。
そして楽譜を取り出すと、適当な椅子に鞄を放り投げた。
彼女に一度捕まってしまうともはやここから逃げ出すことはできない。
「こらこら、獅子舞さん。日暮くんだって忙しいんだから困らせちゃダメですよ」
「ウソッ。そんなことないもん」
「ハイハイ。獅子舞さんは日暮くんがお気に入りなんですよね」
「そういうこと。先生、分かってるじゃん」
ニコニコと燕ちゃんはピアノ椅子に腰かけた。
そして楽譜をパラパラとめくって譜面台の上に乗せる。
それにしても燕ちゃんのお気に入りとはいったいどのようにとらえればいいか分からない。
なにせ彼女は校内での男子の評判が高い。
本人も自分の立ち位置を理解しているのか、評判のいい男子には手当たり次第声をかけてるし、正直恐ろしい子だ。
「というわけでセンパイ。燕がレッスン受けてる間待っててね。逃げたらお仕置きだからね」
そういって彼女は僕にウインクを向ける。
これで逃げてしまったら次回出くわしてしまった時が大変面倒臭い。
「それじゃあ、待たせていただきます」
「そうか、今日の夕食は日暮くんがご一緒なんですね。よーし、獅子舞さん頑張りましょう」
「はーい。センセイ」
僕は二人がいる部屋から出ると少し離れた部屋の中に入っていった。
そこは先生の書斎としても使われている部屋だ。
レッスンの順番を持っている時など、時間つぶしにはピッタリな部屋だ。
ずらりと並んでいる本棚には楽譜がたくさん並んでいるし、部屋の空間そのものが落ち着いているから課題を進めたり新しい楽譜を譜読みしたりするのにもってこいの場所だ。
「こんにちは」
部屋の中にはすでに先客がいた。
僕は荷物を置くと、一生懸命画用紙にクレヨンを走らせている師恩ちゃんの前にしゃがんでそう声をかけた。
すると彼女は不思議ように目を丸くして僕の顔をじっと見つめていた。
「射原先生に夕食を誘われたんだけど、ここでまっててもいいかな?」
コクン彼女は小さく頷いた。
そしてクレヨンをその場に置くと、トテトテと小動物のような足取りで部屋から出ていった。
「悪いことしちゃったかな」
僕の気をつかって部屋から出ていったのだろうか。
僕は師恩ちゃんが出しっぱなしにしていたクレヨンと画用紙を軽く寄せると、その空いたスペースに先程の楽譜を広げた。
とにかく使える時間は楽譜を読まなければ……。
「はーい」
譜読みをしてある程度の時間が経過した時だった。
ドアの向こうから弱々しいノックがした。
しかしいくら待ってもドアが開かなかった。
僕は不思議に思い、ドアを開けると師恩ちゃんが若干手を震わせながら紅茶が入ったカップ二つ乗っかったお盆を持って立っていた。
満タンにいれてしまったのか、若干紅茶がこぼれている。
「用意してくれたの? ありがとう」
僕はなるべくニコリと笑って彼女からお盆を受け取った。
このままだとなにかの拍子につまづいてひっくり返してしまう危険がある。
僕は慎重な手つきでお盆をテーブルの上に置くと、自分の分のカップを口へと運んだ。
「ん?」
師恩ちゃんは隣に座ってじっと僕を見つめていた。
紅茶の味が気になるのだろうか。
「とっても美味しいよ、ありがとう。お父さんに淹れ方教えてもらったの?」
「うん!」
美味しいという言葉に師恩ちゃんは、ぱあっと嬉しそうに笑うと大きく頷いた。
するともう一杯僕にごちそうしたかったのか、トテトテとドアの方へ走っていった。
「そんなに気を使わなくていいよ」
すると師恩ちゃんはきょとんと大きな目を丸めるとその場から立ち止まった。
「お絵描き、してたんだよね。よかったら僕も一緒にお絵描きしていいかな?」
僕は先程片付けたクレヨンのセットと画用紙を指した。
すると師恩ちゃんはコクンと頷き、わくわくとした様子で僕の隣の椅子に座った。
「お絵描き、しなくていいの?」
コクン、また大きく頷く。
絵を描くことに飽きてしまったのだろうか。
なにか喜びそうなものはないものか。
僕はふと鞄のなかを探ってみた。
するとこの前神無ちゃんがくれた折り紙のメダルが入っていたことに気がついた。
そういえば、いれっぱなにしてたんだ。ふとこの前の出来事が脳裏に蘇る。
「ん?」
そんな僕が取り出したメダルに師恩ちゃんは興味深そうにじっと見つめていた。
ほしいのかな?
「ごめんね、あげられないんだ。これはね友だちからもらったものなんだ」
しょんぼりと残念そうに師恩ちゃんは肩を落とした。
師恩ちゃんの分を作ってあげたいのはヤマヤマだがメダルの折方なんて知らないし、ましてやちょうど良さそうな紙も見当たらない。
「でも、今度作ってきてあげるよ。お友だちに作り方教わるから。師恩ちゃんは何色が好き」
「黄色と茶色」
ぱあっと嬉しそうな笑顔で師恩ちゃんはそう言った。
そんな時、ふと部屋の隅におかれているおもちゃのピアノが目に入った。
師恩ちゃんのために先生が用意したものなのだろうか。
すると師恩ちゃんは僕がピアノの存在に気がついたことに反応してちょこちょことした足取りでピアノを持ってきてくれた。
「僕が弾くの?」
コクン、なにかを期待するような眼差しを僕に向けていた。
なにか弾けと促されてもこのピアノじゃあ鍵盤数が少ないし、僕の指の大きさだと少々弾きづらい。
「お父さんの曲、分かる?」
お父さんの曲って、射原先生が時折鼻唄で口ずさんでいるあの曲のことだろうか。
射原先生のあの曲と言われてもメロディーしか知らないからな……。
この前、なんの曲か訪ねても詳しく教えてくれなかったし、思いでの曲なのだろうか。
「師恩ちゃん。お父さんの曲好きなの?」
「うん。お父さんいつも楽しそうに歌ったり、ピアノを弾いたりしてるの。私もあの曲をいつか弾きたいの」
ウキウキと曲のことを話す師恩ちゃんの様子は子どもらしくて可愛らしかった。
本当にお父さんのことが好きなのだろう。
その証拠に師恩ちゃんはさっきまでクレヨンでお父さんと自分の似顔絵を一生懸命描いていたからだ。
僕は射原先生が口ずさんでいたあのメロディーの音を思い出しながら鍵盤の一つ一つを押してみることにした。
なんとか特徴的な部分を拾い上げることができそうだ。
そんな繋ぎあわせのメロディーに師恩ちゃんは嬉しそうな顔をしながら途切れ途切れに歌っていた。
この子も射原先生と同じように音楽が好きなんだろう。
「お兄さん。ありがとう」
師恩ちゃんは今日一番の笑顔を僕に見せてくれたような気がした。
そしてポケットからさっきと同じようなビスケットとチョコレートを小さな両手一杯に差し出した。
「ありがとう。じゃあ、僕は君にこれをあげるよ。交換だよ」
そして僕は素直に師恩ちゃんからお菓子をを受け取るとカバンの中からちょうど入れておいたあめ玉数個をあげた。
すると師恩ちゃんはきょとんとした顔であめ玉を見つめた。
「すっごくおいしい飴なんだよ。僕のお友だちが教えてくれたんだ」
実のところ、このあめ玉をいれといたのには理由があった。
この前、神無ちゃんにこのあめ玉を買ってくれと駄々をこねられて今日の登校前に家の近くにあるコンビニで買ってきたものだ。
「ああ! ちょっとセンパイ。勝手に師恩ちゃんとイチャイチャしてるなんてズルーイ」
師恩ちゃんが僕から飴を受け取った瞬間だった。
燕ちゃんがプリプリと怒った様子でドアの前に立っていた。
一方の師恩ちゃんは燕ちゃんの声に驚いたのか、小動物のようにカーテンの影に隠れてしまった。
「イチャイチャって燕ちゃん、遊び相手になってただけだよ」
「それが十分楽しそうに見えたんです。センパイ、燕には冷たいから小さい子とはいえ嫉妬しちゃう」
「そんなこと言われてもね……」
「なんて、ちょっとセンパイのことをからかってるだけです。幼稚園児に嫉妬するほど燕は醜くありませんよーだ」
燕ちゃんが僕のことをからかっているのは分かっていた。
しかし、時折見せる思わせ振りな態度が本気なのではないかと錯覚してしまう。
だから僕は燕ちゃんが苦手だ。
「しーおーんちゃん、燕お姉ちゃんにもお菓子ちょうだい」
そういって燕ちゃんは愛嬌を振り撒きながら師恩ちゃんにぎゅっと抱きついてきた。
ほほ笑ましく見えるがどこか裏がありそうにも見える。
「もっとおいしいお菓子あげるー。じゃっじゃーん……何が出てくるかな?」
燕ちゃんはガサゴソを自分の鞄を探り始めた。
一方の師恩ちゃんはクリッと目を丸くさせながら燕ちゃんの手を見つめた。
「はい、ポッキーだよ。一袋どうぞ」
「ありがとう」
ニコッと燕ちゃんに笑顔を向けてポッキーの袋を師恩ちゃんは受け取った。
そしてポケットの中にしまい込んだ。
「夕御飯のあとに食べてね。ほら、パパがきっとおいしい晩御飯の支度をしてるから一緒にいこう!」
面倒見のいいお姉さんのように燕ちゃんは師恩ちゃんの手を引いて出ていった。
「ほら、センパイもはやくはやく。晩御飯の支度のお手伝いをしましょう」
「ハイハイ」
僕はある程度師恩ちゃんが出してきたものを片付けるとその部屋をあとにした。