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1996年 夏(1)

第一章:一九九六年 夏


高校二年生の夏。

その頃の僕はこれといって将来のことを真剣に考えているわけではなく、目の前にある日常をのんびりと送っていた。



唯一夢中になっていたことは、幼少期から習い事として通っているピアノぐらいだった。

特別な才能を持ち合わせていないことに気がついていたが、無性にピアノを弾くことが好きだった。



そんな趣味が高じて僕は高校生になったと同時に楽器屋のアルバイトを始めていた。

叔父である楽器屋の店長にツテでのアルバイトだった。



客の足は日によって違うため、僕は合間をぬっては学校の課題を片付けていた。

僕が入学した北高校は進学校のため、それなりの量の課題が出されていた。



「こんにちは。この前頼んだ楽器は届いているかしら?」



癖のある問題がやっと解けたと一安心をしている時だった。

若干ウェーブがかかった長い焦げ茶色の髪が印象的な女性がにこりと女神のような笑みを見せてカウンターの前に立っていたその後ろには小さな男の子が隠れている。




「あっはい……あの、お名前は」

「大山羊です。この子のヴァイオリンを注文しました」




大山羊と名乗った女性はていねいに折りたたまれた注文書を僕に差し出した。

その時、不意に手が触れたため僕の心臓はドキリと高鳴った。




「どうしたの? 顔が赤いわよ」

「いえ、気のせいです。少々お待ちください」




大山羊さんに顔のぞきこまれると僕は慌てて注文された楽器が保管されているところに逃げていった。

ほんの数秒の間、僕の脳裏には大山羊さんの顔がしばらく焼き付いていた。




「日暮くん、萌癒さんにノックアウトされたようだね」

「店長!」




ぼんやりと楽器を取り出そうとした時だった。

突然、店長がヌッといたずらっぽい顔をしながら僕の顔を覗き込んできた。

僕は驚きのあまり足を一歩後ろにひいた。




「萌癒さん、破壊力のある方だからね……なおかつ美人。まあ、ウチの家内にはかなわないけどね」




店長はいつのまにか僕の手から離れていった伝票を拾い上げると、僕を押しのけて棚からヴァイオリンを取り出した。




「ほれ、行ってこい」




店長は僕にヴァイオリンを押し渡すとトンと僕の背中を押した。

一見、紳士的な容姿であるが、中身はオチャメなところがある。

しょっちゅうニコニコとしながら冗談をいいはなったりして僕のことをからかう。




「ママ、いつからヴァイオリン教室に行けるの? はやくみっちゃんと一緒に行きたいな」

「今度の日曜日。本も買ったからそれまでにたくさん練習をしましょうね」

「うん!」




 カウンターに戻ると萌癒さんとそのお子さんは楽しげに会話をしていた。

ニコニコとした顔で話す萌癒さんはまるで幸せな家族を描いたドラマのワンシーンのようだ。




「すみません、注文のものはこれでよろしいでしょうか?」

「はーい、どれどれ」




僕はカウンターに楽器ケースを置くと、中身を広げる。

そして萌癒さんは真剣な顔つきでヴァイオリンの本体を手にとった。




「持ってみて」




萌癒さんはヴァイオリンをお子さんに持たせる。

お子さんは少しなれない手つきでヴァイオリンを構えていた。




「いい感じ。はい、一旦返してね」

「うん」




そして二人はヴァイオリンを丁寧にケースの中に入れた。

その間に僕は会計の準備を始める。




「じゃあ、お会計の方はこれでよろしくお願いします」




そう言って萌癒さんは財布から一枚のカードを取り出す。

僕はカードを受けとると署名をしてもらうためにレジから出てきたレシートとペンを渡した。




「これから大事にするのよ」

「ありがとう、ママ」




会計が終わると二人は仲良く楽器屋をあとにした。

仲の良い親子の風景は穏やかな日常を映し出しているようだ。




「萌癒さんのお子さん、随分大きくなったね。次の春で小学校に上がるんだよね。じゃあ、ちょっと神無を迎えにいってくるね」




店のウィンドウから二人の背中が見えなくなると、店長はニコニコと鼻唄を交えながら最低限の持ち物を持って外に出て行った。

僕は一人取り残されると、椅子に腰かけたまま課題の問題集を解く作業を再開させた。



ちらりと時計に目を向けるとそろそろ部活動をしている高校生たちが帰宅してくる時間帯を指していた。

そして彼が訪れる時間でもある。





「邪魔するぞ」

「あっ、槙原くん」




問題集に目を戻した時だった。

不機嫌そうな表情がデフォルト顔となっている東高の生徒が店の中に入ってきた。

槙原くんとは中学校時代に音楽が好きだという共通点で意気投合し、卒業してそれぞれ違う学校になっても交流を続けている友人だ。



時々消耗品を買いに来てくれるのだが、大抵はカウンターの横にある予備の椅子に勝手に腰かけ、所属している吹奏楽部の部員がこない、顧問でもないのにイチャモンをつけてくる教師がいる、自分の楽器の腕が全然上がらないと、僕に愚痴を飽きるまで溢していることが多い。




「榊の奴、顧問でもないクセにグチグチとうるさいんだ」




榊先生、つまり例のいちゃもんをつけてくる教師のことだ。

榊先生の愚痴を話す槙原くんの頭は湯気が出ている。

僕は「はいはい」と聞き流して課題に取りかかる作業を続けていた。

槙原くんは話に夢中になるため、僕が聞き流していることには気がついていない。




「あの野郎、いつかギャフンと……」

「ねえ。槙原くん」



僕は課題にキリをつけてシャープペンシルの芯をトンと押すと、落ち着いた口調で槙原くんの話を遮った。

僕が槙原くんの話に口を挟むことは滅多にないため、槙原くんは少し驚いたようにきょとんとした顔を見せていた。




「お茶、飲まない?」

「はあ?」




実際のところ、なにを言いたかったのかは思い付かなかった。

たぶん、無意識に槙原くんの話を聞き流していることに疲れを感じてしまったのだろう。



僕はすくりと椅子から立ち上がると、来客用に使う湯沸かしポットを取りに店の奥に入っていった。

僕は慣れた手つきでカップにお茶を注ぎ込み、お盆の上に乗せる。二人してお茶を一口飲むと、ある程度沈黙が流れる。



「なあ、日暮。お前って将来の夢とか考えているか?」




沈黙に耐えきれなくなったのか、槙原くんは突然そう切り出した。




「考えてないな。槙原くんは?」

「高校教師。俺みたいに人数が少なくてなにもできない部活を助けてやりたいんだ」




槙原くんはどこか照れ臭そうな表情をみせていた。

なぜか納得ができるが、同時に彼の夢は時間がかかるだろうとい失礼な予測もできていた。




「今日、榊の野郎に話したら腹を抱えて笑われた。俺は真剣なのに……あんなのパチモン教師だ」



そう言いながらも、嫌がっているようには見えなかった。

むしろ、榊先生が激励の言葉を槙原くんに話す姿なんて僕には全く想像できない。



槙原くんもきっとその事をわかっているのだろう。

本人にいってしまえば否定するかもしれないが、確実に槙原くんは榊先生の背中を追いかけている。




「おい、どけよ!」

「いってー」




突然の不意打ちに槙原くんはバランスを崩した。

その後ろには園児服を着た神無ちゃんがブスッとした顔で立っていた。




「こら神無!」

「だって……」



そのすぐ後ろには店長がいた。

店長の首には今日、神無ちゃんが作ったものなのか、茶色と黄色の折り紙のメダルを下げていた。

中心部には店長の似顔絵と一緒に「ぱぱだいすき!」とクレヨンで書かれていた。



それが嬉しかったのか、注意らしい口調ではなかった。店長がどれだけ神無ちゃんに甘いかがよくわかる。




「日暮、これあげる。首だして」




神無ちゃんはニコニコと子供らしい笑顔をしながら、店長が首から下げているのと同じものを演じ鞄から取り出した。

そして僕が目線に合わせると、神無ちゃんはそれを僕の首にかけた。




「幼稚園で作ったの。金と銀の折り紙はひとつしかないから特別なんだよ」




神無ちゃんのその言葉を聞いた瞬間、店長からガーンという効果音が聞こえてきたような気がした。

僕が神無ちゃんにとって大切なものをもらっていいのだろうか。




「それと日暮にはもうひとつプレゼント」




 すると神無ちゃんはニコッと無邪気に笑うと僕の頬に小さな唇をほんの一瞬くっつけた。




「日暮、だーいすき」




エヘヘと子どもらしい笑顔をみせる神無ちゃんとは裏腹に、その後ろでは店長がメラメラと炎を湧かせている。

これは非常にマズイ。




「神無ちゃん、パパにもチューしてあげよう」




僕は神無ちゃんを持ち上げて店長の目線に近づける。

店長も神無ちゃんが僕と同じようなことをしてくれることを期待したのか、目を輝かせて頬を近づけさせる。




「パパ、ヤッ!」




神無ちゃんはツーンそっぽをむいていた。

すると店長はクリティカルヒットの如く、その場から肩を落とし、しょんぼりとしながら荷物を置くために店の奥へと入っていた。

肩を落として歩く店長の背中は悲しくも哀愁が満ちている。




「お前ってすごいな」




すっかり存在を忘れ去られていた槙原くんは僕の肩を掴みながら苦笑いを浮かべながらそういった。

一体僕の何がすごいのだろうか……。別に普通に接しているだけなんだけどな……。







「ただいま」

「あっ、おかえり」




家に帰ると姉が店の手伝いをしていた。

僕の実家はラーメン屋だ。



これといって大繁盛している訳ではないが、近所の常連さんのおかげで成り立っている。

そして姉は大学を卒業してからは臨時採用の音楽教師として働いていた。




「久しぶりだな」




カウンター席から榊先生がご機嫌な様子で僕に手を振ってきた。

一見、ヴェートヴェンのゾンビのような風貌をして怖い顔をしているが、なにかと陽気な人だ。



槙原くんには内緒だが、僕と榊先生が面識ある。

なぜなら十年近く前の話だが、榊先生は姉さんの高校時代の部活の顧問だったからだ。



姉さんが高校生の頃、つまりは南高校赴任していた頃の榊先生は吹奏楽でそれなりの実績を上げていた。

榊先生が南高校を去るまで、ことあるごとにこの店で打ち上げをしていた。

そのため、今でも榊先生を慕う生徒さんたちが当時を懐かしんでよく足を運んでくれている。




「それでよう、あの例のバカなんだかな、お前の将来の夢はなんだって聞いたら、教員とか言い出しやがったんだよ。まったく、こんな職業のどこがいいんだか……夢ばっかのやつには似合わねえつーの」

「あら先生、それって遠回しに私に教員を目指すことを諦めろって言ってない?」



「バレた?」

「当たり前じゃない。先生、私が高校生の時に何度も向いてないから絶対に教員になるなって言ってたじゃない」



「といいつつ、お前は俺の忠告を無視したじゃねえか」

「そうね。でも、私は思った以上に教員って楽しいと思うけど」

「若いうちだけさ」





二人はハハハと大声を上げながら笑い合う。榊先生は姉さんと話すことを楽しみにしているのだろう。

榊先生は確かに口が悪い人だけど、人を引き付けるなにか強い偉大な力を持っている。

だから槙原くんは榊先生を越えようとしているのだろう。




「そういえば、弟くんは将来の夢ってなんだい?」




不意に投げられたその質問に僕は、榊先生がほんの一瞬槙原くんと重なって見えた。

どこか不思議な感覚だ。




「先生、こいつは普段からぼんやりとしていてなにも考えていないんですよ。まあ、勉強ができるし、いい大学にでもいっていい企業に就職しますよ」




父は突然割り込んで榊先生にそう答えた。

当たり前のように大学へいく、父のその答えに僕はどこか納得ができなかった。



だが、実際に僕は高校を卒業したらなにになりたいか何て全然思い付かない。

世間では不景気で就職氷河期と呼ばれている。だからこそ、将来について真剣に考えなければいけない。




「まあ、まだ期間はありますよ。弟くん自身もこの残りの期間でなにかをみつけるといいですな」

「そうですな。先生、餃子どうぞ」

「ああ、ありがとうございます」



二人は陽気にガハハと笑い合う。

そんな二人の様子とは裏腹に僕は揺らぎを感じながら二階の自室へとむかった。



みんな、やりたいと思っていることを決めている。僕がやりたいことってなんだろうか。

今日の槙原くん、そして榊先生と姉の会話を思い出すとなぜか焦りを感じていた。







「日暮くん、進路調査表かいた? 未提出なの君だけだよ」




その次の日の休み時間、クラス委員の夜塚さんは何枚かのプリントを抱えながら僕にそう声をかけた。

僕は慌ててクリアファイルから言われた進路調査表のプリントを取り出す。

しかし、その紙には名前とクラス、出席番号しか書いてなかった。通りで忘れてしまうはずだ。



大学、短期大学、専門学校、就職……そのいずれかに丸をつければいいのだが、正直なところ、どれに丸を囲めばいいかわからなかった。




「ちょっと、悩んでんの? これでいいじゃない」




夜塚さんは突然僕からペンと紙を強引に奪い取ると未定とかかれている語群に丸をつけた。




「じゃあ、これで提出するから」

「ちょっと待って」




僕は慌ててスタスタと歩きはじめようとする夜塚さんを引きとめようと夜塚さんの肩をつかんだ。

未定のまま提出するとあとで担任にうるさく言われてしまう。



「夜塚ちゃん!」




突然、熊のような坊主頭の男子生徒が嵐のように埃をまき散らしながら教室の中へとズカズカと入ってきた。

浮かれ具合がわかるかのように、ガンゴンとなにかにぶつけている。



男子生徒の人相は決していいとは言えず、ニヤニヤとした顔は逆に不気味だ。

彼は七草くんという男子生徒だ。

夜塚さんがとっても大好きでいつも休み時間になるたびに、嵐のようにやって来る北高校唯一の文芸部員だ。




「まったく、いつも賑やかなんだから、七草くん。今は仕事中だからあとにしてよ」




流石の夜塚さんも何度も七草くんに迷惑をかけられているため、ヤレヤレと慣れたようにあしらっていた。

僕は前々から不思議に感じていた。

夜塚さんは七草くんのことを鬱陶しく感じていないのだろうか。



なぜなら、七草くんの夜塚さんに対するモーレツアピールが節度を越えているからだ。

入学したばかりの頃は毎日のように休み時間になればドタバタと地震が起きたかのように教室へ飛び込んでいき、大声で夜塚さんに向かって好きだ、結婚してくれと叫んでいた。



その時の夜塚さんが困惑した顔を今でもよく覚えている。



そして、またあるときは校庭の真ん中でギターを弾きながら夜塚さんへのポエムを歌っていた。

笑えることに、七草くんはギターの弾きかたを知らないのか、適当にカッコつけて弦を弾いているだけだった。



さすがにあの時は職員室に連行されていたな……。




「えっ? だって夜塚ちゃんとお話できるの休み時間しかないじゃん」

「休み時間でも、仕事中は別。次の休み時間がゆっくりお話しましょう。今、我慢してくれたらお昼を一緒に食べてもいいよ」

「うん、分かった。俺がおごってあげるからね」




そう言って七草くんは台風のように教室を飛び出して行った。

夜塚さんのすごいところは七草くんを動物のように上手くてなづけているところだ。

たぶん、夜塚さんは七草くんのことを調子よく面白がっているに違いない。




「じゃあ日暮くん、進路調査表提出してくるね。次はちゃんと大学にいくか就職するか考えておくんだぞ」

「あっ」




夜塚さんは風のように教室から飛び出していった。

僕はぼんやりとしていたあまり夜塚さんを追いかけることを忘れてしまった。

それまでは彼女とはあまり接点がなかった。しかしひょんなことで僕は彼女と深く関わる出来事が訪れる。




「ありがとうございました」



 その日の夕方。

僕はいつものようにカウンターからお客さんを見送ると、一息ついて椅子に腰かけた。

そして先ほどお茶を淹れておいたカップに手をかける。




「あっ! 本当にいた」

「へっ?」



店のウインドウが開くと聞きなれた声が耳に入った。

僕はぼんやりとしながら顔をあげた。

するとウキウキとした様子でカウンターへと駆け寄ってくる夜塚さんの姿が目に映った。




「うわっ、熱っ!」

「ちょっと、日暮くん。大丈夫?」




僕は突然のことで頭がうまく働かず、うっかりガシャンと音を立ててお茶を落とした。

幸いなことにこぼしたお茶は僕のズボンの裾と床を濡らすだけであった。




「ごめん、ちょっと驚いたみたい」

「もう、しっかりしてよね」




僕はこぼれたお茶を拭き終え、落ち着きを取り戻すと夜塚さんにこの楽器屋でアルバイトをしている理由を短く話した。

夜塚さんはいつも槙原くんが座っている位置に腰かけて僕の話を聞いていた。



槙原くん、今日は来ないのだろうか。

できれば今日は来なくてもいいや……僕は震える手で夜塚さんにお茶が入ったカップを渡す。




「ありがとう」



 夜塚さんはにっこりとした笑顔を僕に向ける。

そんな笑顔に僕はまた自分のカップを落としそうになった。



「そう言えば、僕に何か用なの」

「あのね。私、弦楽部を作ろうと思っているの。それでね、日暮くんに協力してほしいの」




僕の切り出しに夜塚さんは身を乗り出してきた。

確かに夜塚さんが新しい部活を作りたいという話は聞いたことがある。



「それでね、コンクールに出場して部として認めてもらって仲間を増やそうと思ってるの」




 その時の夜塚さんは誇らしげに胸を張っていた。

まるで一から甲子園を目指す野球ドラマの主人公のようだった。




「夜塚さんはなにか楽器をやってるの?」

「ヴァイオリン。小さい頃からずっと習っているんだ。結構自信あるんだよ。日暮くんはピアノ上手いんだよね。この前、音楽の時間が始まる前に弾いてたよね。ねえ、コンクールに今度出るから伴奏やってよ」

「へっ?」




僕は夜塚さんのそのセリフに記憶を掘り返してみた。

確かに一週間ぐらい前に音楽の先生にピアノの調子を見てくれと頼まれてほんの少し弾いた記憶がある。

あの時、誰もいないと思っていたんだけどな……誰かに聞かれたと思うと少し恥ずかしい。




「僕は……あんまりうまくないよ。コンクールとかの伴奏だったら知り合いを紹介するよ」




 すると夜塚さんはピクリと小動物のような反応を見せると、突然椅子をひっくり返しながら身を乗り出してきた。




「日暮くん、自信を持ってよ。私は日暮くんの優しいピアノの音が気に入ってるの」




夜塚さんの顔は近かった。

そのため、僕は緊張のあまりうまく声が出なかったため、小さく首を縦に振ることしかできなかった。




「やったー! 日暮くん、さすが!」

「ちょ……ちょっと、夜塚さん」




その時、夜塚さんは特に何も意識していなかったのか、力強く僕の両手を握りしめた。

しなやかで柔らかい手のひらの感覚が僕の心拍数を上げていく。




「日暮。何やってんだ?」

「ひっ!」




背後から聞こえてきた声は槙原くんだった。

僕は慌てて夜塚さんの手を放す。




「あっこんにちは。日暮くんのお友だち?」

「一応……あんたは日暮の彼女?」



するとその瞬間、異様な間が通り過ぎた。

夜塚さんはしばらくニコニコとした笑顔で槙原くんを見つめるとプッと吹き出し、ネジが取れたかのように大声で笑い始める。




「君、面白いこというね。日暮くんはただのクラスメイトだよ」

「あっそ……」




夜塚さんの様子に槙原くんはどこか調子狂っている様子だった。

その反面、僕はただのクラスメイトだという夜塚さんの発言にどこかあっけなさを感じていた。

確かに僕と夜塚さんは同じクラスである共通点を除いてしまえば何も残らない。




「でも、日暮くんが彼氏ってのも悪くないかもね」

「へっ?」




その時、僕の中の時間が停止した。

夜塚さんは僕をからかっているのだろうか。

そんな僕の表情を夜塚さんは見つめるとまたさっきのように噴出した。




「なーんてね」




慌てている僕の様子に対し、夜塚さんはニッと悪戯っぽい表情をみせていた。

そしてポンと僕の肩を叩く。




「だけどもうお友だちだよね? お友だちならきっと七草くんも嫉妬しないと思うの」




夜塚さんはニコニコとしながら店の外に指を向けた。

すると、そこには電柱の後ろに炎を燃やしているかの如く、七草くんが僕を睨みつけていた。まるでやくざだ。




「怒り狂って今にも壁を壊しそうだね、あれ」




どうやら夜塚さんはそんな七草くんの様子を面白がっているようだ。

それはきっと、彼女なりの愛情表現なのだろうか。

ただ、なんだかんだと気に入られている七草くんが心なしか羨ましい。



僕はちらりと子どものようにあどけない夜塚さんの横顔を見つめた。

彼女の活発さを表現するかの様に短い髪がサラサラと揺れていた。

そのため、彼女がどんな顔をしているのかすぐに分かる。




「じゃあね、日暮くん。明日、弾きたい曲の楽譜持ってくるから。日暮くんも何か希望の曲があったら用意しといてね」




しばらくすると彼女は必要なものを買い揃え、上機嫌に鼻歌を交えながら楽器屋をあとにした。

そんな彼女の背中を僕はぼんやりとじっと見つめていた。




「なあ、お前も人並みに恋をするんだな」




しばらく僕が彼女の余韻に浸っていると、すっかり存在を忘れ去られていた。

槙原くんが突然そう言いだした。思わず、自分の顔が紅潮していくのがよく分った。




「なあ、聞かせろよ。お前はあの子が好きなのか?」

「槙原くんには関係ない話だよ」

「何だよ、面白くない奴」




槙原くんの表情はニヤニヤとしていた。

今日ほど、早く榊先生の愚痴が始まってくれと願った日はないだろう。




「これがやってみたい曲。どれが弾けそう? 日暮くんに任せるよ」




その次の日。

早速夜塚さんは僕の机に楽譜を何冊か並べていた。夜塚さんは何か期待をするかのような眼差しで僕を見つめている。



僕は緊張した面持ちで適当な楽譜を取り出してパラパラとめくる。




「夜塚ちゃん!」




どうやらいつものように七草くんが夜塚さんの元へとやってきたようだ。

教室に入るまではウキウキとした笑顔をしていたが、僕の顔が見えたとたん急激に険しい表情を見せて押し寄せてきた。




「おいおい、なんだお前。俺の夜塚ちゃんに近づくなんて生意気だぞ」

「七草くん、シャーラップ! それにいつから私は七草くんのものになったのかな?」

「イテッ!」




夜塚さんは慣れた様子で楽譜の角で七草くんの頭を叩いた。

さすがにその攻撃は痛い。

しかし、七草くんの頭は頑丈にできているのか、さほど大きなダメージを受けているようには見えなかった。




「この人は日暮くん。コンクールでピアノの伴奏をしてくれる恩人さんだよ」

「へっ?」




すると七草くんはきょとんとした表情になった。

しかしすぐに威嚇をする獣のような表情ですぐに僕を睨みつけはじめた。

マズイ……僕は彼に殺されてしまうかもしれない。




「そうか、君が夜塚ちゃんのヴァイオリンの伴奏をしてくれるんだー」




声は確実に震えていた。

嫉妬というものが目に見えて伝わってきていた。

そんな僕と七草くんのように周りからはお気の毒にというオーラが漂っていた。

そんな嫉妬と憐みに挟みこまれてつぶれそうだ。




「七草くん、笑顔、笑顔。日暮くんが怖がってるでしょう。私のお友だちなんだからね。邪魔しないで」




するとプツンと彼の中にある我慢が切れたのか、徐々に七草くんの顔の皺がおでこ集中し始める。

失礼かもしれないが、漫画のような顔の崩れ方だった。




「ヤダヤダヤダ……夜塚ちゃんの意地悪。俺も夜塚ちゃんの役に立ちたい。夜塚ちゃんにカッコイイところ見せたい!」




それは駄々をこねる子どもの顔だった。

高校生にもなって床に寝転がって手足をバタバタとさせる人なんて初めて見た。

そんな七草くんの様子に同じ気持ちだったのか、周りも僕と同じにようにギョッとした目をしていた。




「七草! このバカ者」

「ヒッ! その声は……」




もはや天然記念物と比喩してもいいくらい、勢いのある通った声だった。

もし、その場に小さい子どもが泣き出してしまうだろう。




その声の主の威厳を表すかのように、その場が一瞬にして静まりかえる。

身長は低く、一見物静かそうに見える中年の教師だが、口を開ければその印象は一気にひっくり返る。



さすがに熊のように怖い人といわれている七草くんも流石に逆らうことができない人だ。

なぜなら、その怖い先生は七草くんのクラス担任でもある比留間先生だからだ。





「なんだ、高校生という立場でありながらその情けない態度は?」

「……」




 いつの間にか七草くんはしゅんとした顔で正座をしていた。

そして比留間先生は七草くんの首根っこを掴み、ズルズルと引っ張りながら教室から出ていく。




「ホームルームの時間だ。クラスに戻るぞ」

「待ってよ、先生。俺は夜塚ちゃんに……」

「黙れ、小童。続きは休み時間にしろ!」




まるで漫画の一コマを見ているような気分だった。

僕をはじめとしたその場にいた人たちはクスクスとほほ笑ましい様子で二人が自分の教室へと入っていく様子を見届けていた。




「七草くんって本当におかしい……」




そんな周りと同じように夜塚さんも手を口にあてて笑っていた。

僕も七草くんと同じようにアタックしていれば笑ってくれただろうか。

いや、僕の場合だったら七草くんのような愛嬌がないから間違いなく嫌われるだろう。




「ねえ、昼休みに早速練習しよう」




そんな僕の心情を知らずに夜塚さんは反則的な笑顔を僕に向けながらそう言った。

僕は迷わず「うん」と小さな声で呟くと首を縦に振った。



心なしか、昼休みが楽しみになったため、僕はその日の授業はあまり見に入らず、早く昼休みにならないものかとソワソワとしていた。

そんな落ち着きのない自分に気が付くと、僕はふと遥か遠くの彼方の席で先生の説明を真剣に聴きとっている夜塚さんに目を向ける。



なるべく、周りに悟られないよう遠くの景色を見ているように……視界の中にあえて夜塚さんのすぐ隣に位置している窓の外の景色を入れていた。



暖かい日差しが優しく夜塚さんに差しこんでいた。

ポカポカと当たる日差しは徐々に彼女の集中力を奪い取り、眠りの世界へと導いていく。



そんな誘惑に負けまいと彼女は自分自身がウトウトしていることに気が付くと、ハッとさせて首をプルプルと振っていた。




本当に夜塚さんって真面目だな。

そんな夜塚さんの仕草を見つめるたびにそう心の中で呟いてしまう。

明るさと真面目さのどちらとも持ち合わせているところが僕にとっての彼女の魅力かもしれない。



そんな彼女を見つめているうちにも刻々と昼休みの時間へと近づいていた。





「お互い、準備ができたら早速合わせてみましょう」




待ちに待った昼休みになると、夜塚さんは僕に伴奏用の楽譜を渡して自分の楽器の準備に取り掛かった。

僕は一通り楽譜に目を通すと、一番良く弾けそうだと思うものを開いた。

そして、ある程度指ならしに適当な音階を弾きはじめる。



ピアノの調弦を定期的にしている証拠にどの音も狂いはない。

弾いていてとても心地よかった。

そんな気持ちのまま、僕はちらりとピアノを弾きながら夜塚さんがいるところに目を向けた。

 


初めてみるヴァイオリンをもつ夜塚さんの姿。

それはあまりにも新鮮だったため、思わずピアノを弾く手が止まってしまった。



その瞬間、ポーンと弦の余韻が徐々に小さくなりながら音楽室内中に響き渡る。

すると、夜塚さんはきょとんとした顔でヴァイオリンをいじる手を止めた。




「ヴァイオリン、珍しい?」

「ちょっと気になっただけ」




不思議な緊張感がなぜか自分の中で通りすぎていた。

静けさを感じるかのように、遠くからは放送部は昼休みの度に流しているクラシックの曲が聞こえていた。

なにか話すべきだったのだろうか。




「ねえ、日暮くん」

「うわわっと……」




いつの間に夜塚さんが僕の目の前に立っていた。

僕は驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになったが、寸前のところでバランスを持ち直した。




「大丈夫?」

「うん、ぼんやりしすぎたみたい」

「そうなんだ。日暮くんって意外と面白い人だよね」



「へっ?」

「他の人とお話しているところを見ていると真面目そうに見えるけど、私と話している時は面白いところを見せてくれるよね」




僕はふと、夜塚さんと話し始めた時のことを振り返ってみた。

そう言えば、彼女の前ではかっこ悪いところしか見せていないことに気がついた。

僕って本当に情けない……。




「そういうところ、七草くんと似てるよね」




ニコッと夜塚さんは満面の笑みでそう言った。

僕と七草くんが似ているというのはどういう意味なんだろう。




「どうしたの? そんな複雑そうな顔して……もしかして、七草くんと一緒にされることが不服だった」

「そんなことないよ」

「ウソ。だって日暮くん、実は七草くんのことあんまり好きじゃないでしょう」




心を読まれているかのような心境だった。

もしかして、夜塚さんは鋭い人なのだろうか。

だからこそ、僕の調子を狂わせたり、七草くんを傷つけない程度にあしらうことが上手いのだろう。




「キャッ!」

「へっ!」




突然ブーンと不気味な音が耳を掠めた瞬間、なぜか夜塚さんが急に僕に飛びついてきた。

今回ばかりはバランスを保つことができなかった。



椅子とともに僕の身体はひっくり返ろうとしている。

スローモーションのようにゆっくりと僕は床に向かって転倒していく。



頭に鈍い痛みを感じた瞬間、僕は別の衝撃をうけることになる。

唇から何か柔らかい感覚が伝わっていくことに気がつくと、僕は大きく目を見開いた。



何が起きているか、理解するのにさほど時間はかからなかった。

それと同時に身体全体から人間一人分の体重と体温が一気に伝わっていく。



そして、ドスンと音とともに不思議な時間の感覚から解放された。

しかし、しばらくお互い身体を放すことはしなかった。



唇が重なったまま静かに時間が流れるだけだった。

なぜか、その時聞こえた音は一匹のスズメバチが不気味な羽音を立てながら天井を飛び交う音と僕の上を覆いかぶさっている少女の心拍数だけだった。




「夜塚ちゃん、俺考えたよ。夜塚ちゃんのために応援歌をつくろうと……」




これは最悪のタイミングというべきなのだろうか。

七草くんが揚々とした様子で音楽室の中に飛び込んできた。

そして彼にとって信じがたい光景が目に入ると、蒼白とした顔をして手に持っている紙束をバサバサと落とした。




「夜塚……ちゃん?」




七草くんの声にハッと我に帰った僕たちは慌てて起き上った。

僕はこの後、彼に殺されるかもしれない。そんな恐怖心によって尋常ではない程に鼓動が速くなっていた。




「あらら……バレちゃった。ごめんね、七草くん。実は私ね、今さっきここで日暮くんに告白をしたの」

「へっ?」




その時、僕は驚きのあまりことの状況を理解することができなかった。

なぜ、夜塚さんは突然そんなことを言い出してしまったのだろうか。

それとも知らない間に僕は違う次元に移動してしまったのだろうか。




「何言ってんの、夜塚ちゃん。俺、夜塚ちゃんのことが世界で一番大好きなんだよ。だから俺、夜塚ちゃんが他の男と付き合ったら……」

「ごめんね。諦めて」




すると、夜塚さんは突然僕を引っ張り上げるとまた唇を重ねてきた。

その時、僕の視界に映ったのは真黒な瞳から一筋の涙を流している夜塚さんの顔だった。

彼女は何かの気持ちを押し殺している。なぜかその時は冷静さが戻りつつあった。




「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!」




今度はほんの数秒だった。

しかし、僕にとっては何倍もの遅い時間の感覚になっていた。

お互いの唇が離れると七草くんは大きな声を上げながら音楽室を飛び出して行った。




「ごめん」

「……」




僕はなんて言葉を返すべきか分らなかった。

なぜなら夜塚さんの声が震えていた、瞳から涙があふれ出続けていたからだ。




「さっきの言葉、嘘じゃないからね」




そう言って夜塚さんはヴァイオリンを片付け終えると音楽室から飛び出して行った。

一人取り残された僕はぼんやりとしたまま天井で飛び交い続けているスズメバチを目で追いかけていた。



君のせいで大変なことに巻き込まれたようだ。

心の中でそんなことを呟いたが、スズメバチはブンブンと音を立てながら不規則に飛び続けるだけだった。



そして僕は重い腰を上げると、七草くんが落としておった紙束を拾い上げた。

彼が書き上げた詩が紙一面にぎっしりと書かれている。




それほどまでに七草くんは夜塚さんのことが好きなんだ。

それなのに、僕が七草くんにとって世界一大好きな人を奪ってしまった。

そんな罪悪感が急にのしかかってくると無意識のうちにため息が出てきた。






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