第九十二話 士気
お久しぶりです。
まあ、とりあえず最後まで力押ししますので、どうか宜しくお願いしますね。
野雲家には、玄関から入ってすぐ左に半円を描くようにして二階へ続く階段がある。リビングから引き返して階段下まで戻った僕は、言いようのない恐怖に駆られた。ぼうっとしていると、階段の上から大量の水が滝のように流れてくる幻覚をみた。恐怖が、僕の足元を濡らす。
しかし、僕は足を踏み出すしかない。幻覚とはいえ、まるで本当に水の流れに逆らっているかのごとく僕の身体は重かった。手すりに身体を預けるようにして、ぐいぐいと拒絶する我が身を二階へと運んでいく。
階段の壁には丸窓がいくつかあって、反対側――手すりが取り付けているほうの壁に丸い日向を投げかけている。その光が手すりの前を過ぎた僕の額に掛かり、そのとき感じる暖かさだけが僕の勇気を支えていた。
二階へ上がると、そこには一階と比べ少し短い廊下が続いていた。階段が途切れてすぐ目前と、短い廊下を真っ直ぐいった突き当たりに、それぞれ一つずつドアがある。今僕の目の前にあるドアは何を隠そう野雲さんの私室である。今さら思い返したくもないが、僕が覗き魔としての越えてはならない一線を泰助に背中を押されつつも越えてしまった場所である。
正確にはドアはもう一つあるが、丁寧にも『WC』というプレートが付いている為あえなく無視しておく。つまり、残ったドアが犯人の部屋への入り口となる。突き当たりとは、いかにもラスボスの間っぽいな、と僕は不敵さを見繕ったようなぎこちない笑みを作った。
突き当たりの部屋からは、物音ひとつしない。ちょうど廊下は薄暗く、まるでみんな寝静まっているような――夜明けに家族の誰よりも早く起きてしまったときのような静けさがあった。
静けさもあってか、僕の心音が際立っている。まるで、自分の心臓を取り出して耳元にあてがっているかのように、心音は外的に聞こえた。
足を踏み出すと、僕は廊下のフローリングの冷たさを知った。さっきまで靴のなかで汗ばんでいた足にはちょうどいいかもしれない。このまま足裏を通して僕の焦れた熱を全部床が吸い取ってくれればいいのに、とも思った。
もっと士気を高めて、ほどよい緊張感をもって、ありったけの勇気を込めながらドアの前まで行こうと決めたときには、もうすでにドアの前だった。決心する暇もないらしい。
「よし」
僕はドアノブを掴んで言った。もしかしたら、中の犯人にも聞こえる声だったかもしれないが、どちらにせよ逃げ場はない。犯人も、ましてや僕にも。どっちが逃げる側の人間になるかは、ドアの向こうに行かなければわからない。
どうか、野雲さんの父が喧嘩が弱いヒトでありますように!
そんな馬鹿なことを考えた。