第九十話 大きな人形
無断で上がりこんでいる時点で僕は不法侵入者であり、当然家の住人から見れば犯罪者だ。ヘタをして野雲さんの母とのコンタクトが上手くいかなかった場合、悲鳴を上げられるかもしれない。そうすれば二階の父親にも状況を察され、逃げられるか、返り討ちにあわされてしまう。
ゆっくりと歩たびに足裏がタコの吸盤を踏んでいるみたいに吸着している気がした。玄関のほうから射している白い光を背中に受け、前方にうっすらと僕の影が揺らいでいる。僕がドアの前に立ったときに、その影はぬうっと廊下からドアへ伝い、僕と向かい合うようになった。
その影の僕が、いきなり喋りだす。
『逃げればいいのに』
「いまさら逃げられるか」
心のなかで呟いたはずなのに、どうしてかその声は周囲に響いているような錯覚があった。ドアに付いたすりガラスから見て取れる人影はピクリとも動かないものの、振り返らないという保障はない。これだけドアと正面に向かっていれば、向こう側からも僕の存在は見受けられるだろう。
『認めてもらいたいんだよね』
影はまだ言う。
「何を」
『存在を』
「どういう意味だ?」
『分かってるでしょ? 君は泰助に認めてもらいたいんだ、自分を』
「なんで泰助が出てくるんだ。何の根拠があって、そんなこと」
言いながら、僕は微かに動揺していた。影が発する言葉はなにか、体の芯を捕まれるような、見透かされたような、主導権を握られているかのようなものだった。
『だって、君には泰助しか……』
「やめろ!」
ハッとした。
今度は心のなかの声ではなく、確かに声に発してしまっていたのだ。いつのまにか僕は頭を抱えて立っていた。目の前の影は平凡に佇んでいる。
今の声で確実に母親にはばれてしまった。僕は一瞬逃げるかどうかためらったが、意を決するとドアノブを握っていた。風を起こすような速度でドアを開け放つと、僕はそこに広がった視界に息を呑んだ。
リビングの椅子に座っていたのは、大きな人形だった。