第八十二話 顔色
翌朝、僕は泰助と話し合うことばかり考えていたが、実際に学校へ行ってみるとそれどころではなかった。
教室から漏れたクラスメイトの慌ただしい話し声が、廊下にまで反響していて、いやな予感がした僕は駆け足で教室に滑り込んだ。
HR前であるというのに、そこにはすでに担任の先生が居り、席を立ち上がって興奮している生徒たちを落ち着くように説得していた。しかし、高潮の騒ぎを前にしてその呼びかけは煩さの一部にすら思えた。
「ほら、みんな席に座れ!」
担任が声を張り上げる横を通り過ぎて、自分の席へ向かう。机と机の間にできた通路を歩くと、「聞いたか、聞いたか?」とクラスメイトが声をかけてきた。しかし、僕はそれを無視して、とりあえずは自分の席へ座る。
騒音に囲まれながらも、自分だけは取り乱さないように静かに過ごす。誰にも悟られないように横目で四つ机を挟んだ位置にいる野雲さんを見た。彼女もまた、澄ました顔で前をじっと見ている。まるで、自分には何も関係がないというようだった。
そして、今度は泰助のほうを見てみた。すると、偶然にも視線がぶつかった。もしかしたら泰助は僕が振り向くよりもずっと前からこちらを見ていたかもしれないから偶然とは言えないが、どちらにしても僕はぎょっとした。僕は泰助こそ澄まし顔で佇んでいると思っていたのだが、実際の表情はそうではなかった。
困ったように眉をひそめていて、あからさまに顔色が悪い。とはいえ、体調には問題ないようで、どちらかというのなら精神面。簡単に言えば、宿題をすっかり忘れてきたときのような顔だった。心なしか、額に青筋が浮かんでいるようにも見える。
「荻江先生の捜索願いは出しましたので安心してください!」
手を叩きながら黒板の前に立った担任は言った。僕の席の近くから「はっ」という馬鹿にしたような短い笑いが雑音のなかから現れた。「駐在ひとりでどうやって捜索するんだよ。本土の警察も島なんだからくまなく捜せば出てくるだろう。なんて言って出動を渋ってるそうじゃないか」言っていたのは、クラス委員長の清水だった。
彼は、めずらしく怒りをあらわにしていて、腕を組んだまま俯いている。
そうか、と僕は思い至る。彼は確か高校を卒業したら本土の大学を受験するらしく、その大学と関わりが深い荻江先生に自分を紹介してもらうという約束をしてもらっていたのだった。いわゆるコネであるが、彼は切実らしい。
しかし、反応すべきはそこではない。
荻江先生に捜索願?
泰助の顔色が悪い理由が漠然と分かる。
やられた、そう思った。
野雲さんは毎晩のように父親からその日あったことを訊ねられる。そして、嫌々ながらも野雲さんは人間関係までを綿密に答え、父に自分の置かれている状況を話す。すると、父はその話のなかにでてきた邪魔な虫、自分の溺愛する娘にたかる男を標的にする。そして、その決意をお守りとして野雲さんに持たせ、自分は犯行に移す。
もしも、昨日の放課後。荻江先生が野雲さんになにかしていたら? それを、野雲さんが父親に報告したら?
僕自身、泰助同様に顔色が悪くなっていくように感じられた。