第七十五話 幽霊
「閉鎖空間と悪罵少女」を先生に見せたら、『よくできているけれど、もっと山場が欲しい』とコメントされた。人生の山場のような気がした。
校舎の壁に背をつけて、忍者のように教室へと向かう。僕は校舎内には入らずに、窓から教室の様子を覗いてみることにしたのだ。足元には花壇が続いていて、やわらかい土を踏みながら、この覚束ない感じが甚だ気持ち悪いと思った。
やがて、右肩側に教室の窓が現れた。僕はより一層注意して身を潜め、きたる好機を窺いながら腰を屈めた。半ば四つんばいで前進して、ちょうど窓の中央で止まる。もう頭上には犯行現場が広がっている。
そこに広がるのは犯行中の現場か、それとも犯行後の現場か。
僕はモグラ叩きのように不意をついて機敏に立ち上がるのではなく、まずはそうっと教室内を覗いてみることにした。もしも犯行中なら泰助から預かっている携帯で駐在さんに電話して、時間を稼ぐ。もしも犯行後なら、すぐさま助けを呼んで事態を収拾する。
僕は息を呑んだ。
心の中でゆっくりとカウントダウンをかける。そして、カウントがゼロを刻んだとき、僕は有無を言わずにかぶりを持ち上げていた。窓の縁にそっと手を置き、にょきっと顔を半分ほど出してみる。
心臓がドクドクと激しく脈打つのがわかった。見えない誰かから心臓マッサージをうけているかのように、胸の上下が荒い。呼吸が自分でも驚くほど速く、そのくせいくら空気を吸っても酸素を取り込めているきがしなかった。
そこに野雲さんはいなかった。
しかし、荻江先生は無事に立っている。
こちらに背を向ける形で野雲さんの机の脇に立っていた。その後ろ姿が、どこか僕の知らない人間のもののような気がした。
「何なんだ……いったい」
思わず、そう呟いてしまった。荻江先生の後ろ姿はまるで首を吊っているかのようにダラけていて、肩に力が入っていなかった。その後姿だけでも、おそらく荻江先生の表情は暗いのではないかと推測できる。
野雲さんはどこへ行ったのか。脇野のことと言い、なぜ犯行に及ばないのか。なぜ、荻江先生は立っているのか。なぜ、野雲さんの机の脇に立っているのか。
なぜ、荻江先生がこんなに怖く見えるのか。
「……なんなんだよ」
僕は湧き起る恐怖を紛らわすために、そう吐き捨てたが、その声は震えてしまっていた。まるで、荻江先生の後姿は心霊写真などで目にする幽霊の後姿のそれだ。
すると、急に僕の肩に誰かの手が触れた。僕が反応するよりもさきに、もう片方の手が伸びてきて悲鳴を上げようとする口を押さえる。
「俺だよ、俺」
声だけでわかった。泰助だ。案外はやかったなと僕は感心した。
やはり息を切らしている泰助は、僕から手を離すと反転して僕と肩を並べた・
「どういう状況だ?」
「わからない。何かおかしなことになってる!」
僕は冷静さを保とうとしたが、やはり話していると興奮が抑えられなくなってしまう。「野雲さんはいないし、そのくせに荻江先生は教室に独りで佇んでるし!」
泰助は、そう聞いて、少し暗くなり始めた空をを見上げると、うーんと唸ってからこう言った。
「俺の考えは、根本的に間違っていたのかもしれない」