第七十三話 先生
「精神障害?」
僕は思わず眉をひそめた。言葉の意味を理解するのに、少し時間が掛かった。
「まあ、こういう絵なら狙って描くこともできるが、狙って描いたとしても異常だとしかいいようがないな」
僕の中で、精神障害という文字が大きく浮かび上がった。やがて、その文字とかぶさるようにして野雲さんの顔が重なる。しかし、どうも僕には納得がいかなかった。野雲さんが精神障害をきたしているようにはとうてい見えなかった。
しかし、そういうふうに振舞っているのかもしれない以上、僕はなにも口答えはできない。
「これは、誰が描いたものなんだ?」
精神障害、などというセリフを吐いたわりに医者の表情は穏やかだった。僕が思っているよりは軽度のものなのかもしれない。
「言えません。ただ、少し意見をいただけたらと思って」
そう言って、僕は紙を折りたたみ始める。誰の目があるかわからない以上、こういう絵はあまり広げっぱなしにはできない。
「探偵ごっこかなにかか? まあ、ほどほどにしておけよ」
内心すこし心配していたが、どうやら医者はこの絵と一連の事件への関連に気付かなかったようだ。医者がすこしでも眉をひそめれば隠し立てせずにその場で事情を説明しようと思っていたが、気付かないのなら別にそれでもいい。泰助のほうも無理に公言する必要性はないであろう。
「では、これで」
僕は頭を下げると、医者の脇を通って去ろうとした。しかし、肩をつかまれるでもなく、僕はすぐさま立ち止まった。急だったので泰助は僕の背中に鼻先を打ち「なんだよ」と面倒そうな声を出した。
「あの、今なんて言いました?」
僕は振り返ると、何の気なしに歩いて行こうとする医者をそう言って呼び止めた。立ち去ろうとした瞬間、確かに医者はポツリと何かを呟いたのだ。よく聞き取れなかったのだが、その医者の発した声がどこか耳の奥で熱を帯び、いつまでも消えなかった。何か重大なセリフであったような気がして、思わず呼び止めたのだ。
「ん? なんだって?」
医者はとぼけたように首をかしげたが、僕がもう一度「今なんて言いました?」と訪ねる前に「ああ、今言ったこと?」と自分で気が付いた。
「いや、なんで荻江先生が描かれてあるのかなって思って」
心臓から伸びた血管に何かが詰まったような感覚が僕を侵した。
荻江先生……?
少し考えてから、眠りから覚めたような気分になって、折りたたんだ紙をすさまじい勢いで広げなおした。泰助も医者のセリフで何かに気付いたらしく、かじりつくように僕の手元に顔を押し込んできた。
「これ! 荻江先生だ!」
絵を見て、なおさら納得した。
メガネを掛けてタバコを持っている人間。僕たちはずっとそう思っていた。しかし、やはりそれだけでは個人を特定するのに情報が少なすぎる。僕であったら、タバコとメガネなんていう組み合わせでなく、もっと個人を特定できる内容にするだろう。しかし、その考え方は誰もが同様にもっていて、犯人も同じように誰かを特定できる内容にしてあったのだ。
メガネと、チョーク。
こう見直せば、この島で唯一の人間へと特定できるようになる。
教員のなかでメガネを着装しているのは、荻江先生だけだった。
バケツの水を顔にぶっかけられたかのような衝撃が走り、そのあとに、後頭部をバットで殴られたような衝撃が立て続けに起こった。おそらく、泰助も同じような気分であろう。
今、荻江先生は野雲さんと教室で二人きりだ。