第六十四話 誘惑
僕が元居た茂みの前へ戻ってきた時には、野雲さんも泰助もいなかった。泰助の電話から五分ほど経っていたから、とっくに泰助は帰路についた野雲さんを尾行しているのだろう。
僕は脇野家の門扉を開け、砂利に囲まれた石畳の通路を渡った。横に見える松が夕日に当てられてやわらかい雰囲気を出している。どこか懐かしい眺めだと僕は感じた。
大きな木作りの扉の前に立つと、僕はインターホンを指の腹でしっかり押した。『ピンポーン』という間のぬけた音が出るかと思ったが、何やら携帯電話の着信音みたいな音楽が家の中から漏れてきた。そういえば、先ほど訪ねたときも同じようなことを考えていたと思い出す。
『はい、どちらさまでしょうか?』
インターホンの機器から脇野母が応答した。
「あ、どうも。さっきも来たんですが……」
『あ、正志は帰ってきてるわよ』
そこで声が途切れると、家の中から「まさしー、友達よー」とのんびりした声が聞こえてきた。暫時あって階段から小刻みな足音で玄関へ下りてくる気配があった。
やがて古めかしい音を立てながらドアが開くと、脇野の顔がにょきっと覗いた。
「お、どうしたの?」
脇野とはあまり関わりがなく、彼からしてみれば僕が家へ訪ねてくるなど思ってもみないのだろう。彼は小柄な体格のわりに太い眉を吊り上げ、驚いた様子で口をへの字にしていた。
「さっき、野雲さんが来てたよね?」
僕が問い詰めると、彼は隠し立てするどころか、まるで自慢げに鼻を高くした。
「まあね。僕の家がどうしても見たかったみたいだよ。まあ、ここらでは一番おおきいんだもんね。興味があるのは分かるよ」
そう言って、脇野は肩をすくめてみせた。しかし、「あ、はい、そうですか」などと言っていられない。僕は一歩踏み出して脅迫するかのように脇野へ顔を近づけると、目を剥いていった。
「彼女から何かされなかった!?」
僕の気迫に押されてか、脇野は一歩さがった。背を仰け反った体勢で少し考える素振りを見せてから、やがて思いついたように言う。
「いや、とくにはないんだけどさ、なんていうか、妙に頻繁に脚を組みかえたり、『あっついね』なんて言いながら制服のすそをパタパタさせてたんだよね。これってけっこうあれじゃない? 誘惑的な」
「いや、そういう意味じゃない」
僕が否定すると、脇野はつまらなそうに「あっそ」と地面に向かって吐き捨てた。
「ま、実際の現場を見てない人には分からないよ。あれは僕をどうにかしようとしてたんじゃないかな。だって、好きでもない男の家に上がりこむかなあー? 正直にいうと、けっこうドキドキしたよ。なんていうのかな、心の制御棒みたいのがとれて肉食系になった気分になるんだよね、彼女みてると」
脇野は口に手を当てて、にやっと笑った。「あー、あそこでちょっと勇気を振り絞ってたら、俺と野雲さんは今頃……」
変な想像を玄関先で繰り広げる脇野にいつまでも付き合ってられないので、僕は早めに切り上げることにした。