第四十七話 よきつ屋
「肉じゃがでも作ろうかな」
野雲さんは妙にウキウキしながら冷蔵庫の中を眺めている。
「材料あるんだ」
「昨日の夜に移動販売車が来たから買ったの」
よきつ屋だ。
この島で自給自足できないものを本土から仕入れ、島民に販売する店。十九時には閉店するが、それから食料や調味料をたっぷり積んだ販売車に乗り込み、島中を『よきつや、よきつやだよお』と拡声器で言い回る。食べ物に限らずトイレットペーパーから洋服まで売っているので、島民にはこれ以上ありがたい話はない。
「お肉を買ったら、なぜかジャガイモまでオマケしてもらっちゃった」
鼻の下をのばしながら美少女にジャガイモを献上するよきつ屋の店主の顔が脳裏に浮かぶ。
「それは良かった。この島で暮らすなら、取り敢えずよきつ屋とは上手くやっていかないといけないからね」
「そうなんだ」
野雲さんは蛇口の水で手を洗いながら、応える。
しばらくすると、キッチンのほうから、包丁がまな板を叩く音がリズムよく流れてきた。ジャク、ジャク、と野菜が新鮮な音を立てて切断されていく。「ふんふふふーん」と上機嫌な鼻歌も途中から加わり、ダイニングを隔てて向こう側は何とも賑やかである。
そして、ソファで人形と肩を並べる僕は、理由の分からない孤立感に襲われた。いたたまれない気持ちが込み上げ、何となく帰りたくなってしまう。こんな小さな島で、僕がこんなにも心細い気持ちになる場所があったのかと少し驚きもした。
僕はここにいてはいけない存在なのではないか。
隣の人形が僕に視線を向けてきているような気がする。ここから出て行けと訴えているのだ。それだけではない。ラックに置かれた絵画や時計、植物にはじまり、ガラス机やその机上に置かれたティッシュやリモコン、僕が腰を下ろしているソファまでもが、僕に「立ち去れ」と怒鳴っているようだった。
耐え切れずに顔を伏せて目を瞑ると、次第に野雲さんの鼻歌や包丁の刻む音が遠のいていくようだった。僕は、深く生暖かい泥沼へとゆっくり沈んでいくのだ。僕の存在を認める者も、認めない者も誰一人としていない、本当の孤独へ。
しかし、そうして完全に自分を塞ぎ込んだとき、ふと気が付いた。頭の先からつま先まで血液を抜き取られたように、表情が真っ青になるのが自分で分かる。
そうだ。すっかり忘れてしまっていた。
背後で包丁を握る彼女は、事件の犯人の可能性があるのだと。
そして、知った。
遠のいていくようだった包丁のリズムは、遠のいていたのではなく本当に途絶えていたのだと。野菜に向けられていた包丁は、今は別の何かに向けられているのだと。
ソファに深く腰掛ける僕のすぐ後ろで、近寄ってくる足跡。
高速で脈打つ僕の心臓。
僕は、一か八かで自分が座っている場所から立ち上がるかたちで飛び退いた。
そうして、背後の彼女と対峙する。
やはり、いた。
僕が先ほど座っていた場所のすぐ後ろに。
感情のない表情で、突っ立つ野雲明美。
そして、その手には包丁が――あれ? ない。
「え?」
僕は、思わず口をあんぐりと開けてしまった。
「どうしたの、そんなに機敏に立ち上がって」
野雲さんは包丁の代わりに両手で肉じゃがの盛られたうつわを持っていた。