第四十三話 好きだぞ
「……そうなんだ」
僕は野雲さんから視線を外して前を見た。
「君は深入りしないのね」
「あまりしないね。海だって山だって深く進めは進むほど暗くなって、不気味で、はかなげで、未知になってくる。それは他人の悩みだって一緒だよ。深く入りすぎると、こっちまで呑み込まれるんだ」
「やっぱり君って不思議」
野雲さんはそう言ってから噴出して微笑んだ。それで、なんとなく僕に擦り寄ってくる。握りこぶし三つ分ぐらい空いていた僕らの距離が消え、彼女の肩と僕の二の腕が歩くたびに擦れ合った。
「でも、そういう不思議なところ、好きだぞ」
ふっと、ろうそくの火を消すような素っ気ない息遣いで、野雲さんは言葉を紡いだ。僕は二十秒ぐらいして、ようやく「え?」と声に出して驚きをあらわにすることができた。
「やだ! 君ってば変なふうに捉えた?」
「ち、違う違う! いきなりだったから驚いただけ」
僕は慌てて手を大きく動作させてごまかす。しかし、野雲さんはニヤニヤしたまま「ホントかなあ」と首をかしげる。「こんなにほっぺを赤くして?」
野雲さんは僕のふところに擦り入ってくると、何かのボタンを押すように僕の頬をつんつん突いた。やわらかくてすべすべした指の腹が、くすぐるように肌の上を這う。
「ちょ、ちょっと」
僕は困惑して野雲さんの指を振り払うために首を振った。しかし、さらに機嫌を良くした野雲さんは「ほれほれ」と指を突き出して僕をからかう。僕の顔が赤くなっているかどうかは自身では判断がつかないけれど、目の前の野雲さんだって見るかぎり紅潮している。まるでお酒に酔っているようにすら見える。夕焼けに照らされているというのもあるだろうが、少しは彼女だって照れているのだ。たぶん、さきほどの「好きだぞ」という台詞は案外無意識のうちに出てしまった台詞なのではないかと考える。
「この、この」
野雲さんのほうが身長が低いため、防御体制はこちらのほうに利がある。しかし、僕からは攻撃しないため、一方的に突かれる身である。ぴょんぴょんと跳んでのけぞる僕の頬を狙う野雲さん。その間にももちろんのこと歩みは止めない。
すると、ふいに前へ踏み出そうとした右脚がガッと何かに突っ掛かった。前のめりになりながら足元を見ると、僕と野雲さんの脚が絡まっているのが見える。「あ」っと思った瞬間には僕と野雲さんの身体は傾いていた。目の前に出されていた彼女の人差し指が、さっと受身に入ろうとする。しかし、僕はその腕ごと彼女を包み込むと、そのまま倒れこんだ。