第二十五話 悲鳴
悲鳴っていう漢字をずっと見てると、胸がずきんとします。
悲しい鳴き声。なぜか鳥が連想されますね……。
しかも、舌を切られて血みどろの姿で、人間の手のうちで握り締められながらも「ギ……ギギィ」と苦しそうに血混じりのよだれを吐く鳥。暴れ疲れて抵抗もままならず、艶のよかった羽はむしられ地肌がむき出しになり、まん丸の目には黒目がない。くちばしを痙攣させながら、その小さな身体を――……って、やめい! 自分で突っ込むのも何だけど、そろそろやめい!
「彼女に好かれてはいけないって、とってもほのぼのしてて面白いなあ」って思いながら毎回足を運びに来てくれる人に申し訳ない!
限界まで下りると、大きな段差が立ちはだかった。崖というには段差は小さいけれど、確かに山とふもとを隔てるように断層があった。僕と泰助は肩を並べて段差の縁に立ち、恐る恐る視線を落した。僕の身長が百七十センチであるから、この段差は大体僕が二人分の高さである。飛べないことはない。けれども、下の地面には所々に岩がむき出した部分があって、着地する場所を誤れば身体を強打しかねない。横の泰助を見やると、彼は脇に佇むミッチー湖の水面をじっと見ているようだった。痛みという感覚には臆病な彼のことであるから、いっそ着水でもしてやろうかと考えているかもしれない。だとしたら馬鹿だ。
というか、このまま平行に縁を辿れば段差は少しずつ小さくなるので、わざわざ危険を冒さずとも時間を掛けて下りれば言いだけのことである。急がば回れとはこのことだ。
湖をはさんだ向こう側には、例の神聖なる源流がある。遠回りをすると山を反対方向に一周しなければならないので、やはり湖の脇を通ってショートカットする必要があるだろう。加えて、犯人に見つかって太刀打ちすらできずに追いかけられたとしても、湖からならそのまま住宅街へと逃げ帰ることもできる。それが景色に代わり映えのない山中の場合、僕らは当てもなく逃げ回らなければならないのだ。
手には鋭利な凶器。フードの中で光る狂気の目。音もなく近寄ってくる殺意。それが、僕の中で創造された大柄な男のイメージ。島の中にそんな奴がいるとは思えないけれども、全住民と知り合いというわけでもないし、確かに泰助のような犯罪的人物もいるにはいる。
でも、本当にそんな男が居たとして、今更僕たちにできることがあるのだろうか。のんびりと内容の薄い日誌を書いている駐在さんですら、僕らよりは頼りがいがあるだろう。相談ぐらいはしておくべきだったかもしれない。
今頃、竹内はどうしているのか。フードの男に謂れのない暴力を受けているんだろうか。それとも何かを脅されているのだろうか。それとも、考えたくもないが、既に竹内は――。
僕は脳裏に一瞬浮かんだおぞましい情景を首を振ることで取り払い、有無を言わずに段差を下りた。つかの間の浮遊感と服の隙間を通り抜ける風の気配があって、次の瞬間には着地していた。成功したものの、思った以上に足の裏がじんじんと波打つようであった。
何が急がば回れだ。急がば急ぐべきだ!
僕は振り返って、あんぐり口を開けている泰助に手を差し出した。
「早く行こう」
「お、おう」
泰助は僕の意思というか焦燥感が伝わったようで、すぐに腹ばいになって段差から足をぶら下げた。僕はそれを支えてやり、ゆっくりと下ろしてやる。足が地に着いたとき、微かに聞こえた泰助の安堵からきたホッとするような息には、思わず笑ってしまいそうになった。
そして、腹ばいになったせいで汚れたTシャツを、泰助が叩いているときだった。
悲鳴が聞こえた。
風の塊が山の頂のほうから、落ちてきて、僕らに沿うように住宅街のほうへと吹き去っていった。驚いて目が覚めたような鳥の声がどこからか反響する。
聞き間違いかもしれないと、僕と泰助はじっと固まって耳を済ませた。
「助けてくれ!」
山の奥のほうから、次は人語として竹内の声が小さく反響した。
僕は、静かに息を呑んだ。