最終回 彼女を好いてはいけない
朝の海にはカモメが数羽飛んでいて、沢山の宝石が煌いているような海面のすれすれを低空飛行していた。頬を撫でるような暖かい日差しに、いつの間にか、冬にかぶさるように春の兆しが現れていることに気付いた。
港のプレハブ小屋は、逃げることもなくいつものように佇んでいた。穏やかな潮騒を聞きながら、僕はカウンターの前へたった。夕方になるとよく居眠りをしている港ばあちゃんだが、朝は早起きだ。包帯をぐるぐると巻いた僕を見て「おやまあ」とさぞ驚いたような顔をした。
「ねえ、彼女は、元気だった?」
僕は、視線をカウンターからそらして遥か遠く、水平線のむこうに靄とともに薄っすら見える本土のほうを眺めた。港ばあちゃんは「おほほ、青春ね」と僕をちゃかし、やがてカウンターに一枚の手紙を差し出した。
「これは?」
「彼女が、あんたが訪ねてきたら渡してくれっていうんよ。中身は見てないから内容は知らんけどね」
僕は、四つ折りにされたその紙に見覚えがあることに気付いた。あの、犯行予定の絵が描かれたものだ。お守りから取り出して、それをそのまま港ばあちゃんに渡したようだ。
僕は、それをそっと開いてみた。
白紙だった。もうそこに犯行する予定はなにも書かれていなかった。
それだけで、十分すぎたかもしれない。
彼女が本土に行って逃げ続けるか、自首するかは分からない。けれど、そんなことはどうでもいいかもしれなかった。白紙の右下に小さく書かれた「ありがとう」を見て、僕はそう思った。
「港ばあちゃん、ありがとうね」
僕は礼を言ってから、来た道を引き返した。
彼女は、誰にも頼ることなく、自分ひとりで罪を償っていくことを決めた。一人で背負うにしては、重すぎる傷を心に持ったまま、どこか遠くへいってしまった。僕の知らない、どこかで、また彼女の物語は始まる。
港ばあちゃんの「青春だねえ」という声がしばらく後ろから聞こえ続けたが、それは無視していた。しかし、その声も届かなくなったとき、不意に早朝の海岸沿いの風景が夕焼けの風景へと移り変わったような気がした。
――君って、何か不思議だよね
――でも、そういう不思議なところ、好きだぞ
――やだ! 君ってば変なふうに捉えた?
どこかから、野雲さんの声が聞こえる。
気付けば、僕は泣いていた。痛いほど歯を噛み締めて、大粒の涙を次々としたらせた。なんだかんだ、僕も彼女のことが好きだったんだな、と感づく。
ああ、噂はちょっと違うみたいだよ泰助。
彼女を好いてはいけない。
▼
なんだか気分が軽くなって、肩の荷が下りたような感覚を受けた。すると、まるで何かに取り憑かれたかのように、僕は自宅へ帰るなり学習机の引き出しの奥からコーチの手紙を取り出した。
なんとなく、野雲さんの白紙の手紙の意味を読み取れたから、コーチから貰った手紙の最後も読める気がしたのだ。ベッドに深く腰掛け、やわらかな空気のなかそれをゆっくりと開く。
何十回も何百回もみた内容が廃れない筆圧で書かれていて、僕はまた涙が出てきそうになった。それを必死で堪えて、最後の一文まで目を通す。
「はは、見えた」
なんだ、よく見れば全然見えるじゃないか。なんで、今までこれが見えなかったんだろう。いや、見たくなかったのか。と僕は一人で思い、笑った。
『最後に一言、君だけは□□□……』
涙で消えていたようだったその文は、確かに見えるようになっていた。
君だけは走り続けて。
僕は胸がいっぱいになり、その手紙を閉じた。コーチと野雲さんの手紙を一緒に引き出しへ戻し、やがて僕はまたベッドに横になった。
そして、物置の奥深くにしまい込んだ陸上用のシューズに思いを馳せ、やがて窓から見えるどこまでも続く空を、僕は眺めた。
了
はい、ということで七ヶ月に及ぶ長い戦いが終わりました!
ちょっと、途中文章が乱れ始めましたが、まああんまり気にしないでとしかいいようがない!
一度、野雲さんか、周囲の男たちか、どちらが悪者なのかを考えていただければ、その答えがどちらであろうと、この作品を書いてよかったなと思えます。
よかったら、感想ください。では、またどこかで。