第百十一話 ありがとう
何で、ためらったのだろう?
僕は窓から差し込む朝日を半身に受けながら、ベットの横たわったまま考えた。いつもの天井が僕の心に平穏さをもたらしてくれるからこその、思考かもしれない。
思ったよりも軽傷でよかったな。
僕は頭に巻かれた包帯をそっと撫でてみた。
あの時、僕はふりかざした木刀を、野雲さんへと振り下ろすだけだった。何も難しいことはなかったはずなのに、僕は野雲さんの寸分頭上のところで固まってしまった。人を殴る恐怖だとか、完全に消えてなかった手の痺れとか、色々と理由はあるかもしれないが、やはり一番大きいのは野雲さんのあの言葉。
やっぱり、君も男だね。
別に大したセリフじゃないはずなのに、その言葉を聴いた瞬間にまるで走馬灯のごとく、野雲さんの過去がフラッシュバックされるようだった。もっとも簡単な言い方をするのなら、僕は彼女に同情してしまったのだった。
そして、その隙を突かんとするように僕の肩にスタンガンが押し当てられた。僕の身体は激しく揺さぶられたかのように波打った。正確にはまだその時には意識があったのだが、身体から力が抜け、糸の切られた操り人形のようにその場に挫けた僕は、川のなかに在った岩に頭をぶつけ、流血とともに意識も飛んだ。
僕の救出劇は、見事に失敗したのだった。
やがて携帯のGPSを頼りに僕が武美山にいることを知った前期交渉探偵団各位が現場に駆けつけた。そして、僕はいつもの医者のお世話になり、そのまま安静に自宅待機という指示をいただいた。
結局、野雲さんは一人の女子だったのだと、僕は思った。周囲の男たちが、今の彼女をつくったのだ。八方からの苦難の波に彼女の心の輪郭はゆがみ始め、やがてあの狂気を生み出した。
欲に駆られて女に暴力を振るう男が悪いのか、それを過剰に防衛して楽しむ彼女が悪いのか。それは、僕にもよく分からなくなっていた。
そして、どうにも奇妙なことがもう一つあった。
前期高尚探偵団が辿り付いた時、泰助へと迫っていた炎は消され、僕は水面から引き上げられ、泰助の隣で横にされていたという。
そして、今朝になると野雲さんは見る影もなかった。夜のうちにフェリーが一本通っていて、おそらくそれに乗って本土へ逃げたのだろうと皆推測していたのだが、港ばあちゃんがとぼけるので、真偽は定かでない。ただ、彼女が寂しさから両親に見立てていた二つの人形だけを覗いて、野雲さんの自宅はそのままに残されていた。
金髪の男は駐在さんと終わらない喧嘩の真っ最中、他の高尚探偵団は仕事や学校の関係で早朝のフェリーで本土へ帰り、両親は僕が秘密で危ないことをしていたと知り激怒、竹内と産田はどうやら深く反省しているようで、泰助は相変わらず汚い部屋で今回参加できなかった前期高尚探偵団のみんなにメールで結果を報告。
「ありがとう」
病院でともに治療を受けたとき、となりに座っていた泰助は憎めない笑顔でそう言った。気絶していたくせに、まるで、すべてを把握しているような表情だった。
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僕は、なんとなく気になって、自宅安静の掟をやぶり港へと向かった。