第百六話 ランナーズ・ハイ
正式タイトルは、ランナーズ・ハイにする予定です。
だって、いまのままだと『かのすか』でしょ!?
いや、ないって。それはない。
日が暮れるまでもう猶予はない。僕に射す陽光の角度が傾いていくのと同時に、僕のなかにある決意までもが闇に呑まれてしまうように思えて、僕はなお急いだ。住宅街は背後に気配を潜め、僕の眼前には鬱蒼と茂る武美山が広がっていた。武美山の木々のひとつひとつが威嚇するネコの毛のように逆立っているように見え、それは僕の決意を何者かが跳ね返そうとしているようだった。
けれど、追い風。
僕は露のついた芝生をかかとで踏み込み、勢いを崩さぬままに小川を一跨ぎにした。着地と同時に疲労のせいか幾倍かされたような重力が身体に襲い掛かり、一瞬倒れこみそうになる。顎先でゆれていた汗の粒だけが重力に負けて芝生へと落ち、僕は踏ん張って大きく踏み出した。
身体の内側で炎が渦巻いているようで、毛穴から汗がとめどなく流れた。冬の癖に夏のように暑く、汗で肌と服が一体化したように張り付く。石を踏みつけて転びそうになるたび、僕は一旦停止しそうになる身体を、坂道で自転車のペダルを踏み込むような感覚で走らせねばならなかった。
全身の疲労からくる痛みを紛らわすために僕はいつの間にか唇を噛み締めていた。疲労が重ねれば重ねられるほど、僕は噛み締める歯に力を居れ、武美山の木陰へと身を投じたときには、口内に血の味がしみていた。
急な山道が、僕の弱点を突くように曲がりくねっている。珍しく鳥の鳴き声もきこえず、虫たちが岩下に潜んでいる気配すらなく、まるで武美山は抜け殻のように思えた。
僕は後ろポケットに入っていた財布を投げ出し、右ポケットの携帯電話も走る邪魔にならないように捨てた。僕の手から落された携帯は、急な坂を滑り落ち、速度をゆるめることなく、地に突き出た樹の根にあたって転げ始めたかと思うと、僕が来た道を何かから逃げるような勢いで下っていった。
何も考えず、血を吐こうとも走り続ける覚悟で武美山を登り詰めていくと、次第に身体が軽くなってきた。もう満身創痍だったはずなのに、心が何かに充たされていくような感覚があった。手足の疲労が和らぎ、走っていることが気持ちよくなる。
これはランナーズ・ハイだ。昔コーチに教わったことがある。長距離を死に物狂いで走っていると、その苦痛を和らげようとエンドルフィンが分泌され、脳が麻痺するというものだ。気分が高揚し、幸福感すら味わうとコーチは自慢げに言っていたが、まさにその通りだ。
視界がぼやけ、まるで、暗闇のなか、階段を光の射すほうへ昇っていっているような感覚がある。
真っ直ぐ、何も考えず、行き先は感覚に任せる。
そうしていれば、泰助に会える気がした。