濡れた虚像
横断歩道のない交差点の角に、彼女は俯いたまま立っていた。
金曜日の、午後八時をちょっと過ぎた頃。繁華街に近いこの場所は、帰宅するために駅へと向かう残業組みのサラリーマンと、ネオンの明かりに吸い込まれるのか、足取り軽い若者たちが交錯する場所である。
少し歩けば歩道橋があるものの、怠慢な人間たちは安全な階段を上ろうとせず、つい早道を行ってしまう。しかもこの角には大きな銅像が建っていて、カップルなどの待ち合わせ場所としても知られていた。だから、道路を隔てた向こうから相手を確認すると、ついその道を渡ってしまう人間も多いのである。
そして彼女も、彼が渡って来るのを待っていたかもしれない。
早く会いたいがために……。
彼との約束は八時だった。しかしもう、三十分は過ぎている。といっても、まあいつものことではあるが。
何気なく顔を上げた彼女は、キョロキョロと自分を探している彼を見つけた。
「――ねえ、ここ!」
と、つい手を上げてしまう。
彼はすぐに彼女に気づくと、大きく手を振って笑顔を見せた。そしてガードレールをまたいで、道路に一歩足を踏み出したときだった。
我慢していたかのように、突然激しく雨が降り出したのである。天気予報ではもっと早くから降ると言っていたので、誰もが傘を持っていた。そして彼も、慌てるように傘を差したかと思うと、彼女に笑顔を見せながら道路に飛び出して来た。
「あっ――危ない!」
彼女は叫んだ。しかし激しく叩きつける雨と、車の急ブレーキの音で、その声はかき消されてしまったのだった。
次の瞬間、彼の身体は宙に浮いていた。逆さまになって落ちて行こうとしているのに、跳ねられたことに気がついていないのか、その顔は笑っている。じっと彼女を見つめた目が、雨筋の隙間から見えた。
まるでスローモーションでも見ているかのように、ゆっくりと彼は落ちて行ったのである……。
電話の呼び出し音がいつまでも鳴っている。そんなことは分かっていても、彼女は受話器を上げることができなかった。なぜかというと、テレビのチャンネルをあちこちと切り替える作業で忙しかったからだ。
それでもベルは鳴り止まない。
「もう、しつこいんだから……」
仕方なく電話に出ると、
「何やってんのよ! 早く出なさいよ!」
会社の同僚であって、親友でもある女の子だった。
もちろんその子からだってことは分かっていた。だってもう、五回目ぐらいになるだろうか、この電話。
「ごめん。テレビ見てたんだ」
「テレビ? バカ言ってんじゃないわよ。もう夜中の三時過ぎよ。何もやってないでしょ!」
「――それで、どうだったの?」
相手の言うことなど聞いていないように、彼女は話題を変えた。
「うん、それが……。やっぱりダメだった、って。ついさっき、息を引き取ったらしい」
「――そう」
しばらくの間をおいて、彼女は小さな声で肯いた。
彼が死んだ。車に撥ねられて救急車で運ばれたものの、やはり助からなかった。もちろん彼女は祈っていたが、事故の瞬間を見ていたのである。即死でなかったのが不思議なくらいなのだ。
一緒に病院へ行きたかった。彼の手を握り締めてあげたかった。
でもそれは許されないことなのである。だって彼には、愛する妻と、子供がいたのだから。
会社の上司と部下。四十歳の彼と、二十二歳の彼女。不倫はよくないと頭では分かっていても、互いを引き寄せる愛に逆らうことはできない。だからといって、奥さんから彼を奪い取るほどの勇気もなかった。
だから、病院に行くことすらできなければ、葬儀に参列することもないだろう。だって彼の遺影を見たら、その場で泣き崩れることが分かっていたから。
「――もしもし? ねえ、聞いてるの?」
受話器の向こうから、彼女の代わりに様子を見に行っていた友人の声が聞こえた。彼女はリモコンのボタンを押しながら、テレビの画面を見ていたのだ。
「あ、ごめん」
と、彼女は我に返った。「今ね、テレビに彼が映ったの」
「え? 何言ってるの、あんた?」
「何の番組か分からないけど、雨が降っているシーンなのよ。そこに、彼がいたような気がして……」
その時、窓を叩く音が聞こえた。彼女が振り向くと、優しい笑顔を見せている彼の顔がそこにあった。
驚いて受話器を落としてしまった彼女。――どうしてそこにいるの? 雨でずぶ濡れじゃない。風邪を引いたらどうするのよ!
「私……待ってたのよ!」
彼女は駆け寄ろうとしたが、身体がいうことをきかない。そして彼が何か言っているのに、雨の音が邪魔して聞こえなかった。
テレビ……。そう、テレビを消せばいいんだ。
窓を見つめたまま、手探りでリモコンをつかもうとしている彼女。それでも声をかけながら、必死で彼の名を呼び続けていた。
彼の唇が動いている。何を言っているのか早く聞きたくて、やっと手に握ったリモコンの赤いボタンを押した。
テレビの画面が、一瞬にして暗くなる。そして、雨に濡れた彼の姿も、リモコンの指示なのか、窓という暗い画面の中に消えていたのだった。
受話器から彼女の名を呼ぶ声が聞こえている。しかし大きく泣き叫ぶ自分の声で、それはかき消されていた。
こぶしを固めて床を殴りつける彼女。その拍子に、ついリモコンに手が当たって、テレビの電源が甦った。
画面に映っているのは、さっきと変わらない雨のシーン。
しかしそれが、すべての放送が終了した後の「砂の嵐」だとは、いつまでも気がつかなかった……。
おわり




