春の舞踏会までに夫を一人選べと言われた女公爵ですが、寝台の男は三人いて、欲しい男はもう一人いる
夜明け前、寝台の帳のすき間から、若い騎士が裸の背中を丸めて靴下をはいていた。
オディロンの首の付け根に、赤い跡がひとつ残っている。わたしの歯の跡だ。襟を立てても、たぶん隠れない。
「見えるわよ、それ」
わたしが枕に頬をつけたまま言うと、オディロンは首に手をやって耳まで赤くした。
「……隠しません。私には、隠す理由がありません」
「近衛の詰め所でなんて言うの」
「犬に噛まれたと言います」
わたしは声を出して笑った。笑うと、ゆうべの葡萄酒が喉の奥で甘く酸っぱく戻ってきた。
オディロンは二十四歳。王宮の近衛騎士で、去年の夏、わたしの馬車の扉を開けた男だ。扉を開けるときに、わたしの手袋の指先をほんの少し長く握った。だから、わたしのほうから握り返した。それが始まりだった。
彼は剣帯を締めると、寝台のそばに膝をついて、わたしの手の甲に唇をつけた。
「公爵閣下。次はいつ」
「呼んだら来なさい」
「はい」
この「はい」が、わたしは好きだった。疑いのない、まっすぐな返事。それがほかに二人の男がこの寝台に来ていることを知らない者の返事だと分かっていても。
分かっているから、好きなのかもしれなかった。
オディロンが使用人の階段を下りていく足音が消えると、侍女のフェリシーが盆を持って入ってきた。わたしが八つのときから仕えている女でもう五十を過ぎている。
「お嬢さま。王宮からお使いです」
わたしはもう二十六で、ドラクール公爵家の当主で、この屋敷でわたしを「お嬢さま」と呼ぶのはフェリシーだけだった。
盆の上に、王家の封蝋の手紙がのっていた。
従兄である国王陛下の、几帳面な字だった。
――ドラクール女公爵ヴィオレーヌ。近ごろ王都に聞こえる醜聞を、余は好まない。春の舞踏会の夜までに、夫を一人選び、余の前で名を告げよ。
春の舞踏会はひと月後だ。
わたしは手紙を二度読んで寝台の上で指を折った。
近衛騎士のオディロン。宮廷楽師のヴァレリアン。宰相閣下の甥で外交官のエルヴェ。
三人。
それから、折りかけた四本目の指をわたしはしばらく眺めた。
厩番のガスパール。
あの男だけはまだ一度も、この寝台に来ていない。
十八のとき、父の決めた男と結婚した。
相手は六十を過ぎた伯爵で、わたしの手を握るときはいつも、手のひらがじっとりと冷たかった。婚礼の夜、彼は寝台の端に座って、わたしの髪を一房ずつ数えるように撫でた。わたしは天井の染みを数えていた。三年後に彼が死んだとき、わたしは泣かなかった。泣かなかった自分に、少しほっとした。
その翌年、父が死んで、女のわたしが公爵家を継いだ。北の峠と、峠を越える荷の通行料と、王家への貸し付けの証文も、一緒に継いだ。
それからはわたしが選ぶ。
二度と、誰かに選ばれて、天井の染みを数えたりしない。
そう決めて四年。わたしは好きな男を、好きな夜に呼んできた。
陛下の手紙が届いた日の夕方、わたしはヴァレリアンを呼んだ。
宮廷楽師のヴァレリアンは二十三歳で、細い指と、いつも少し寝不足の目をしている。半年前の夜会で、彼はわたしの席のそばで竪琴を弾き、曲の終わりにわたしだけを見て、弦を一本、わざと弾き損ねた。
「ねえ、公爵さま。今夜はね、新しい曲を持ってきたんだよ」
彼は窓辺の長椅子に寝そべって竪琴を胸に抱いた。
「誰の曲」
「公爵さまの曲。まだ題がないんだ。つけてよ」
甘い声で言って彼は弦を鳴らした。悪くない曲だった。悪くないけれど、三小節目の節回しに、どこかで聴いた覚えがあった。
「それ、ロズリーヌ伯爵夫人の夜会で弾いていた曲じゃないの」
弦の音がぷつりと止まった。
ロズリーヌ伯爵夫人は、ヴァレリアンを王都に連れてきて宮廷に推した女だ。四十を少し過ぎていて、指輪を左右に五つずつはめている。ヴァレリアンの借金も、たぶん、まだあの女が払っている。
「……違うよ。少し似てるだけ」
ヴァレリアンは笑って長椅子からすべり降りた。わたしの膝に頭をのせて下から見上げた。
「ねえ、怒ってる?」
「怒ってないわ」
「嘘だ。公爵さまは怒ると、口の端が下がる」
彼の指がわたしの口の端に触れた。竪琴の弦でできた硬いたこが、唇の上をなぞった。
嘘をついているのはどっちだろう。
わたしは彼の髪をつかんで顔を引き寄せた。この子は嘘をつく。あの女から金を受け取ってわたしの寝台にも来る。分かっていて、わたしはこの子の細い首が好きだった。嘘ごと手のひらにのせて、重さを確かめるのが好きだった。
帳を下ろしたあと、ヴァレリアンは、わたしの肩に額を押しつけたまま眠った。
寝息の合間に、彼が小さく何か言った。女の名前のように聞こえた。わたしは聞かなかったことにして、彼の汗ばんだ前髪を指でよけた。
三日後、宰相閣下の甥のエルヴェが、正面の玄関から、昼間に、堂々とやってきた。
「閣下。陛下のお手紙の件、伺いました」
エルヴェは三十一歳で外交官をしている。灰色の上着の襟を一分の隙もなく立てて、わたしの書斎の椅子に、勧められる前に座った。
「早耳ね」
「叔父が宰相ですから。王宮の噂で、私の耳に入らないものはありません。たとえば、近衛のオディロン卿の首の傷が、犬の歯にしては小さすぎるという話も」
彼は二年前から、わたしの寝台に来ている。
来るたびに、何かを置いていく。峠の通行料を下げろという叔父の伝言。隣国の使節が欲しがっている毛織物の話。わたしの貸し付けの証文を、王家がいつ返せそうかという見込み。そして、何かを持って帰る。わたしの返事。わたしの機嫌。わたしの体温。
「それで、何の用」
「求婚に参りました」
エルヴェは通行料の話をするのと同じ声で言った。
「閣下が夫を選ばねばならないなら、私がいちばん損のない相手です。オディロン卿は若すぎる。楽師どのは借金がある。私なら、叔父を通じて、閣下の峠を王家から守れます」
「峠を守る代わりに、峠を半分よこせ、でしょう」
「三分の一で結構です」
エルヴェは少しも笑わずに言った。
わたしは笑った。この男のこういうところが、嫌いではなかった。愛していると言われるより、三分の一と言われるほうが、ずっと安心できた。
その夜、エルヴェは帰らなかった。
彼はわたしを抱くときも、どこか値踏みをしている。どこを触ればわたしが息をのむか、何度目でわたしの指が敷布をつかむか、ひとつずつ確かめて覚えていく。わたしもそうしている。お互いに、相手の弱いところを数えている。
明け方、エルヴェはわたしの耳もとで言った。
「閣下。ほかの二人と、手を切ってください。夫になる男の頼みです」
「まだ夫じゃないわ」
「ええ。ですから、頼みです。命令ではなく」
彼の声はいつもより少しだけかすれていた。
わたしは返事をしなかった。かわりに、彼の手首の内側に爪を立てた。エルヴェは小さく息を吸って、それ以上、何も言わなかった。
ガスパールは屋敷の裏の厩にいる。
三十五歳でもとは国境の傭兵だった。左の頬から顎にかけて古い刀傷が一本走っている。父が死んだ年に、怪我をした馬を連れて裏門に来てそのまま厩番になった。四年、わたしの馬の世話をして、わたしに一度も笑いかけたことがない。
エルヴェが帰った日の夜、わたしは寝間着の上に外套を一枚はおって厩へ下りた。
ガスパールは灯りの下で、わたしの栗毛の蹄を削っていた。わたしが入っても、手を止めなかった。
「眠れないの」
「馬がな」
短い返事だった。栗毛が鼻を鳴らした。藁と馬糞と、革の油の匂いがした。わたしは柱にもたれて彼の背中を見ていた。肩の筋肉が刃物を動かすたびに、布の下で盛り上がっては沈んだ。
「ねえ、ガスパール。陛下がわたしに夫を選べと」
「聞いた」
「誰がいいと思う」
彼はようやく手を止めた。蹄を下ろして、栗毛の首を一度叩いてから振り向いた。灯りが傷の溝に影を落としていた。
「俺に訊くことじゃない」
「訊きたいの」
「……あんたは、選ぶ気なんかない」
わたしは柱から背中を離した。
彼のそばまで歩いて、外套の前を開けた。寝間着一枚の胸もとに、夜の冷たい空気が入ってきた。わたしは彼の手を取ってそこに当てようとした。
ガスパールは手を引かなかった。けれど、指を一本も動かさなかった。藁くずのついた硬い手のひらが、わたしの鎖骨の上で置物のように止まっていた。
「やめておけ」
低い声だった。
「あんたの四番目にはならない」
わたしの頬が熱くなった。数を知っている。この男はわたしの寝台に何人の男が通っているか、全部知っていて、四年間、黙って馬の蹄を削っていた。
「三人とも追い出したら、来る?」
「追い出す気もない」
彼は手を下ろしてまた蹄を削りはじめた。
わたしは外套の前を合わせて厩を出た。屋敷へ戻る石畳の上で一度だけ振り返った。厩の灯りはわたしが寝室の窓に着くまで消えなかった。
腹が立った。腹が立つのに、寝台に入っても、鎖骨の上に、藁くずのざらつきが残っている気がした。
次の晩、わたしはオディロンを呼んだ。
呼んだ理由を、自分でも分かっていた。断られた夜のあとに、断らない男の顔が見たかった。それを口に出せば、わたしはたぶん最低の女になる。だから、口には出さなかった。
オディロンは扉を閉めるなり、わたしを抱きしめた。鎧を脱いだばかりの体から、汗と鉄の匂いがした。わたしは彼の首の跡に、もう一度、唇を当てた。
帳の中で、オディロンが急に動きを止めた。
枕に顔を埋めたまま、彼は鼻を鳴らした。犬のような仕草だった。
「……閣下。これは何の匂いですか」
枕に、乳香の油の匂いが残っていた。エルヴェが髪につけている香油だった。エルヴェが帰った朝、フェリシーが敷布を替えようとするのを、わたしが止めたのだ。眠かったから。くだらない怠けだった。
「新しい香を焚いたの」
わたしは嘘をついた。すらすらと、少しも詰まらずに出てきた。
オディロンは長いあいだ、黙って枕を見ていた。それから、枕を寝台の下へ落としてわたしの肩に額をつけた。
「閣下が、そうおっしゃるなら、そうです」
信じたのではなかった。信じると決めたのだ。わたしの肩の上で、若い騎士の奥歯が、ぎり、と鳴った。
わたしは彼の髪を撫でた。かわいそうだと思った。かわいそうだと思いながら、その晩、わたしは一度も、彼を帰さなかった。
醜聞が本物になったのは舞踏会の十日前だった。
夜明けに、フェリシーがわたしを揺り起こした。
「お嬢さま。裏庭で、オディロン卿が剣を抜いておいでです」
寝間着のまま階段を駆け下りると、朝霧の裏庭に、オディロンが抜き身の剣を下げて立っていた。向かいに、竪琴を抱えたままのヴァレリアンが、壁に背中をつけていた。
ヴァレリアンが夜明けに裏口から出るところへ、呼んでもいないオディロンが、裏口から入ってきた。夜勤明けに、わたしの寝顔を見に来たのだと、あとで聞いた。
「あなたは、閣下の何だ」
オディロンの声が裏返っていた。
「何って……公爵さまの楽師だよ」
「楽師が、夜明けに、閣下の寝室の階段を下りてくるのか!」
剣の先が震えていた。オディロンは泣きそうだった。わたしの胸の奥で、何かが、ぞくりとした。
この若い騎士がわたしのために、剣を抜いている。
その気持ちよさに、わたしは自分で吐き気がした。それでも、すぐには止めに入れなかった。一呼吸ぶんだけ、見ていたかった。
その一呼吸のあいだに、ガスパールが厩から出てきた。
彼は何も言わずにオディロンの後ろへ回り、剣を握った右手首をつかんでひねった。剣が石畳に落ちて甲高い音を立てた。オディロンが振り向きざまに殴りかかって、ガスパールの頬の傷の上を拳がかすめた。ガスパールはよけなかった。殴られたまま、オディロンの襟首をつかんで井戸の縁に押しつけた。
「頭を冷やせ。あんたが斬ったら、困るのはあの人だ」
あの人、とガスパールは言った。わたしのほうを見もしないで。
オディロンの拳の皮がむけて血がにじんでいた。ガスパールは井戸の水を汲んでその手にかけてやった。わたしは寝間着の裾をつかんだまま、その様子を見ていた。
ヴァレリアンはいつの間にか、竪琴を抱えて裏門から消えていた。
朝のうちに、わたしは自分の部屋で、オディロンの手に包帯を巻いた。
ガスパールは井戸の水をもう一杯だけ汲んで、黙って厩へ戻っていった。わたしが礼を言う前に、背中を向けていた。
オディロンは寝台の端に座って、わたしが包帯を巻くあいだ、ずっと床を見ていた。むけた皮の下の肉が赤く濡れていて、薬を塗ると、彼の膝がびくりと跳ねた。
「閣下」
「動かないで」
「何人ですか」
わたしの手が止まった。
「閣下の寝台に来ている男は、何人ですか。楽師と、それから、乳香の油の男と。……ほかにも、いますか」
あの夜の枕の匂いを、この子はちゃんと覚えていた。覚えていて、信じると決めて、それでも数えていた。
嘘をつこうと思えば、つけた。けれど、包帯の端を持ったわたしの指は彼の血で汚れていた。この手で、もう一度、新しい香の話はできなかった。
「三人よ。あなたと、ヴァレリアンと、エルヴェ」
オディロンは目を閉じた。睫毛の先が震えていた。
「……三人目は、宰相閣下の甥ですか」
「ええ」
「あの人は閣下を好きではありません。閣下の峠が好きなんです」
「知ってるわ」
「知っていて」
「知っていて、呼んでるの」
オディロンは包帯を巻きかけた手でわたしの手首をつかんだ。痛いくらいの力だった。彼の手のひらの汗と血が、わたしの袖口にしみた。
「僕は閣下の峠なんか、いりません」
僕、と彼は言った。いつもの「私」ではなかった。
「知ってるわ」
わたしはもう一度言った。それしか言えなかった。この子は峠を欲しがらない。わたしの何もかもを欲しがる。だから、いちばん重かった。
包帯を結び終えると、オディロンは立ち上がって、近衛の詰め所へ戻っていった。扉の前で一度だけ振り返って何か言いかけてやめた。
昼過ぎ、ロズリーヌ伯爵夫人が、先触れもなく屋敷に乗りこんできた。
「泥棒猫」
応接間の扉が閉まる前に、夫人はそう言った。左右の指輪が扇の骨に当たってかちかちと鳴っていた。
「あの子に、いくら払ったか知っていて? 王都に連れてきた馬車代から、宮廷に出す衣装から、博打の借金まで。全部、わたくしが払ったのよ。それを、あなたは、ただで」
ただで、という言葉に、夫人の声がひび割れた。
わたしは言い返そうとした。あの子はあなたの物じゃない。そう言いかけてやめた。わたしだって、ヴァレリアンの借金が夫人に払われていると知っていて、それを放っておいた。ただで手に入るほうを選んでいた。
「……あの子は、今朝、どこへ行ったの」
わたしが訊くと、夫人は扇を止めた。
「わたくしの屋敷よ。泣いて帰ってきたわ。騎士に殺されかけたって」
夫人の口の端がほんの少しだけ持ち上がった。勝った、という形だった。けれど、目の下の白粉が、汗で筋になって落ちていた。夫人も、たぶん、ゆうべは眠っていない。あの子の帰りを待って、ひと晩じゅう起きていたのだろう。
わたしはその白粉の筋を見て、いい気味だと思った。そして、そう思ったことが、ひどく恥ずかしかった。
夫人が帰ったあと、フェリシーが、冷めた茶を下げながら言った。
「お嬢さま。王宮ではもう、今朝の決闘の話でもちきりです。宰相さまのお屋敷の者が、朝から触れ回っているそうで」
わたしは茶碗を置いた。
エルヴェだ。
裏庭の騒ぎを、昼までに王宮じゅうに広めた。わたしの醜聞を、陛下の耳にもう一度入れた。わたしがいちばん損のない夫を、急いで選ばざるを得なくなるように。
腹の底が冷たくなった。冷たくなったのに、どこかで、あの男らしい、と思った。わたしを手に入れるために、わたしの評判を燃やす男。わたしはそれを少しだけ、嬉しいと思ってしまった。
春の舞踏会の夜、王宮の大広間には、千本の蝋燭が灯されていた。
蝋の溶ける甘い匂いと、汗と、香水と、焼いた肉の脂の匂いが、天井の下にこもっていた。わたしは深い紫のドレスを着てひとりで広間に入った。誰の腕も取らなかった。
ささやきがわたしの通ったあとに波のように広がった。決闘。楽師。騎士。宰相の甥。ささやきの中に、わたしの男たちの名前が、順番に浮かんでは沈んだ。
近衛の列に、オディロンがいた。右手に包帯を巻いて、まっすぐ前を見ていた。わたしと目が合うと、唇を噛んで目をそらした。
楽師の席に、ヴァレリアンがいた。竪琴の前に座って、わたしを見ると、泣き腫らした目で笑おうとして失敗した。すぐ後ろの桟敷に、ロズリーヌ夫人が座っていた。
一曲目の前奏で、ヴァレリアンの指が弦を一本、弾き損ねた。半年前の夜会と同じ場所だった。わたしだけに分かる合図のつもりなのか、ただ手が震えただけなのか、わたしには分からなかった。桟敷のロズリーヌ夫人が、扇の陰でその音にだけ眉を動かした。あの女にも分かったのだ。
宰相閣下のそばに、エルヴェがいた。灰色の上着の襟を立ててわたしに軽く頭を下げた。勝ちを確かめるときの、浅い礼だった。
ガスパールはいなかった。厩番が王宮の舞踏会に来られるはずがない。
一曲目の円舞曲が終わったところで、陛下が玉座から立ち上がった。
「ドラクール女公爵」
広間が静まった。蝋燭の芯が燃える、じりじりという音まで聞こえた。
「約束の夜だ。夫の名を、告げよ」
わたしは玉座の前に進んで膝を折った。
顔を上げると、陛下の向こうで、エルヴェが半歩、前に出るのが見えた。名を呼ばれる準備をしている足だった。
「陛下。申しあげます」
喉が乾いていた。唇を舐めると、さっき口にした葡萄酒の渋みが舌に残っていた。
「わたしは、夫を選びません」
広間のどこかで誰かが扇を落とした。
「近衛騎士オディロン。宮廷楽師ヴァレリアン。外交官エルヴェ。それから、わたしの厩番の、ガスパール。わたしはこの四人が好きです。一人を選んで、ほかの三人を捨てるくらいなら、夫はいりません」
四人目の名前を口にしたとき、自分の声が少し震えた。まだ一度も寝ていない男の名前を、千人の前で言ってしまった。
ざわめきが天井まで噴き上がった。
陛下は眉を寄せた。玉座の肘掛けを、指で一度叩いた。
「ヴィオレーヌ。余は醜聞をやめよと言ったのだ」
「やめられません」
わたしは陛下を見上げた。
「陛下。わたしが夫を持てば、その夫が、ドラクールの峠を半分持ちます。北の峠を、宰相閣下の甥御が持つことになります。それを、陛下はお望みですか」
陛下の指が肘掛けの上で止まった。
陛下の目がほんの一瞬、宰相閣下のほうへ動いた。宰相閣下の口ひげが、ぴくりと動いた。
「わたしが一人でいるかぎり、峠はわたしのものです。王家への貸し付けの証文も、わたしの机の引き出しから動きません。わたしの寝台に誰が来ようと、峠の通行料は一枚も変わりません」
わたしは膝を折ったまま、背中を伸ばした。
「醜聞は、わたしが引き受けます。陛下のお名前には、つけません」
長い沈黙だった。
やがて、陛下は、ふっと短く息を吐いた。それから、玉座に座り直した。
「……王宮に連れてくるのは一度に一人にせよ」
それが陛下のお答えだった。
広間がまたざわめいた。わたしは立ち上がって、もう一度、深く礼をした。膝ががくがくしていた。
振り返ると、エルヴェが、さっき出した半歩を、静かに戻すところだった。
舞踏会が終わって広間を出ると、大階段の下で、ヴァレリアンがわたしの袖をつかんだ。
竪琴は持っていなかった。指先が冷たくて汗で湿っていた。
「ねえ、公爵さま。ぼくの名前、二番目に言ったね」
「順番に意味はないわ」
「あるよ。一番目じゃなかった」
彼は笑おうとしてまた失敗した。泣き腫らしたまぶたが、蝋燭の明かりで赤く光っていた。
階段の上から、指輪の鳴る音が下りてきた。ロズリーヌ夫人が、手すりにつかまってこちらを見下ろしていた。扇は閉じていた。
「ヴァレリアン。馬車が待っていてよ」
夫人の声は昼間ほど尖っていなかった。疲れてかすれていた。
ヴァレリアンの指が、わたしの袖の中でぎゅっと縮んだ。どちらへ行けばいいか分からない子どもの指だった。わたしはその指をほどかなかった。ほどいてやるのが優しさだと分かっていて、ほどかなかった。
「借金は、いくら残っているの」
わたしが訊くと、ヴァレリアンは目を丸くした。それから、小さな声で金額を言った。わたしの屋敷の楽師の給金で三年ぶんだった。
「三年、わたしの屋敷で弾きなさい。給金は全部、伯爵夫人に返すの。あなたが自分の手で」
「……ぼくが払うの? 公爵さまが、払ってくれるんじゃなくて?」
「わたしが払ったら、あなたは、今度はわたしの物になるだけよ」
言いながら、それも悪くないと思っている自分がいた。わたしは唇を噛んで、その考えを奥歯ですり潰した。
ヴァレリアンは長いあいだ、わたしの袖をつかんでいた。それから、指を離して、階段の上の夫人のほうへ、深く頭を下げた。夫人は何も言わずに、扇を開いて、顔の下半分を隠した。扇の骨を握った指の、五つの指輪が、かすかに震えていた。
大階段を離れると、王宮の回廊で、エルヴェがわたしを待っていた。
「お見事でした、閣下」
柱の陰の暗がりで、彼の声だけが白く浮いていた。
「叔父は、今夜、ひと晩じゅう機嫌が悪いでしょう。私も、三分の一を取り損ねました」
「わたしの評判を燃やしたのはあなたね」
「ええ」
エルヴェは否定しなかった。
「閣下が誰かを選ぶなら、私であってほしかった。そのために、できることは全部しました。閣下はそういう男がお嫌いではないでしょう」
嫌いではなかった。そこがいちばん腹立たしかった。
「それで、どうするの。叔父さまのところへ帰る?」
エルヴェはしばらく黙っていた。それから、手袋を片方だけ外してわたしの手を取った。手のひらがいつもより冷たくて少し湿っていた。
「夫にはなれませんでした。ですが閣下に損をさせない男には、まだなれます」
彼はわたしの手のひらの真ん中に、唇を押し当てた。
「四人のうちの一人で我慢します。……今のところは」
今のところはと彼は言った。わたしはその言葉を、聞かなかったことにはしなかった。この男はいつか、ほかの三人を一人ずつ減らそうとするだろう。わたしはそれを分かったうえで彼の手を握り返した。
屋敷に戻ったのは夜明けの少し前だった。
馬車を降りると、裏の厩に、灯りがついていた。
わたしはドレスの裾をつかんで石畳を歩いた。踵の高い靴が石の継ぎ目にひっかかった。脱いで、手に持った。素足の裏に、夜露の冷たさがしみた。
ガスパールは厩の入り口の柱にもたれていた。左の頬に、オディロンに殴られた痣が、黄色く残っていた。
「千人の前で俺の名前を言ったそうだな」
「誰に聞いたの」
「先に帰った従者が、馬で知らせに来た。屋敷じゅう、大騒ぎだ」
彼は腕を組んだまま、わたしを見下ろしていた。
「四番目にはならないと言ったはずだ」
「四番目じゃないわ」
わたしは裸足のまま、彼の前に立った。
「最初に名前を言ったのはあの三人。でも、いちばん長く口の中に残っていたのはあなたの名前よ」
自分で言って頬が熱くなった。こんなことを言う女だったのか、わたしは。
ガスパールは長いあいだ、黙っていた。厩の奥で栗毛が藁を踏む音がした。
それから、彼は腕をほどいて、腰の革袋から鍵をひとつ取り出した。厩の二階にある、彼の部屋の鍵だった。
「条件がある」
「何」
「あんたの寝台には行かない。あんたがここへ来い。この鍵は俺が持つ。開けるかどうかは、俺が決める」
わたしは笑いそうになった。この屋敷でわたしに条件をつけた男は、この四年で一人もいなかった。
「開けてくれなかったら?」
「戸の外で待て。あんたは待ったことがないだろう」
ガスパールはわたしの手から靴を取り上げた。それから、わたしを、藁の匂いのする腕で軽々と抱え上げた。
「……今夜は、開ける」
厩の二階へ上がる梯子が、二人ぶんの重さで、ぎしりと鳴った。
ひと月後の朝、ドラクール公爵家の食堂の長い卓には、四人の男が座っていた。
オディロンは右手の包帯がとれて、わたしの右隣に座ると言い張った。ヴァレリアンは、ロズリーヌ夫人に借金の残りを返すため、わたしの屋敷の楽師として給金をもらうことになった。返し終わるまであと三年かかる。エルヴェは公爵家の王都の代理人の肩書きを手に入れてわたしの左隣に座っていた。ガスパールは卓のいちばん端で、黙って黒パンをちぎっていた。
誰も、誰とも口をきかなかった。
オディロンはエルヴェの皿をにらみ、エルヴェはヴァレリアンの寝不足の目を見て薄く笑い、ヴァレリアンはガスパールの頬の痣の跡を盗み見ていた。ガスパールだけが、誰も見ていなかった。
フェリシーが焼きたての卵を運んできて、わたしの耳もとでささやいた。
「お嬢さま。にぎやかになりましたね」
「静かすぎるくらいよ」
わたしは葡萄酒の杯を持ち上げた。朝から飲むなと、フェリシーが目で叱った。
幸せかと訊かれたら、たぶん、幸せだった。四人の男の視線が、卓の上で絡まってほどけなくなっている。誰かひとりを手放せば、ほかの三人が少し楽になる。それが分かっていて、わたしは誰も手放さない。
ヴァレリアンは今でもときどき、寝言でロズリーヌ夫人の名前を呼ぶ。エルヴェは今でも、峠の三分の一の話を、冗談のふりをして持ち出す。オディロンはわたしが誰の部屋から朝を迎えたか、足音で数えている。
そして、ガスパールの鍵は、三度に一度、開かない。
卓の端で、ガスパールが顔を上げずに、パン籠をわたしのほうへ押し出した。いちばん焼き色の濃い一切れが、いちばん上にのっていた。わたしの好みを、四年、黙って見ていた男の置き方だった。
わたしはそれを取って、ゆっくりと、ちぎった。
(完)




