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生き残っただけの雑用係、世界最強の王女に執愛される。

作者: 柏原夏鉈
掲載日:2026/09/03


今宵は、長きにわたる悲願であった魔王討伐の祝賀会。


王宮の大広間は、シャンデリアの眩い光と貴族たちの華やかな熱気に包まれていた。


王家を筆頭に国の重鎮たちが顔を揃え、魔王討伐隊の各部隊を代表する者たちも勢揃いしている。


そして何より本日の主役たる五人の勇者パーティーが、広間の中央で輝かしい称賛を浴びていた。


ひときわ、明るく輝く輪の中に、ファント王女の姿を見つけた。


ファント・アル・レプティカ。


勇者パーティーの一員にして、勇者パーティーの一人、破壊の魔術を操り、魔王にトドメを差した執行者。


彼女の魔法は、幻想級障壁を通り抜け、魔王のすべてを拒む魔力ベールに拒まれず、その核だけを破壊した。


世界で最も恐ろしい力を持った少女。純白と豪奢な刺繍に彩られたドレスを纏う王女。


精神的にまだ幼さを残す彼女を、ディラックは案じてやまなかった。


彼女の操る破壊の魔力は、あまりにも強大で規格外だ。


政局のパワーバランスを覆しかねない“生きた戦略兵器”であるがゆえに、次々とすり寄る者たちの欲望に晒されてはいないだろうか。


他国へ渡ることはもちろん、国内の野心ある貴族派閥にとっても、喉から手が出るほど欲しい至宝に他ならない。


これまで彼女を守ってきたのは"王家に囲われた純潔なる姫君"という唯一にして絶対の保護膜だ。


配偶者を決める権利は王家のみにあり、他者が軽々しく手出しすることは許されない。


だが、魔王が討たれた今、その均衡は崩れかけている。


取り巻きの貴族たちの目は、英雄を称える色などではなく、獲物を値踏みするハイエナそのものだ。


そして何より、勇者が彼女に向けるねっとりとした好色の視線――。


(戦いが終わった途端にこれだ。厄介なことにならなきゃいいが……)


歓談の輪はあちこちで広がり、宴は中盤の最も賑やかな時間を迎えている。


そんな喧騒から遠く離れた壁際で、ディラック・プランクは、空のグラスを片手に一人静かに佇んでいた。


彼も、魔王討伐の任に就き、魔王が崩れ落ちていくその様を目撃した一人ではあるが、誰も近づいては来ない。


当然だ。なぜなら、ディラックは、魔王を討つ大義ではなく、野営の火起こしや壊れた荷馬車の修繕ばかりを担ってきた。


ただ、死ななかった。それだけだ。


それを功績と呼ぶのは、違う気がした。


だから、今夜の宴で自分の姿がほとんど見られていないことにも、さほど不満はなかった。


むしろ、そのほうがいい。誰も自分など気にもしていない。


今なら、そっと姿を消しても誰からも咎められないのではないだろうか。


城を警備している衛兵たちも浮かれている。


だから「ちょっと、な」と意味深なことをいえば、何処に行くのか問わずに、通してくれるだろう。


その足で、そのまま王都を出よう。行き先の宛なんか無いけれど。


少なくとも、この場にいることよりは、自分にふさわしい、そんな気がしていた。


ディラックは杯の中身を眺めた。酒は入っていなかった。


祭りは終わる。


英雄たちは英雄になる。


王都には彼らの銅像が建つかもしれない。


歌も作られるだろう。


その一方で、魔王討伐の旅に同行した者の中には、帰ってこなかった者が大勢いる。


名前すら残らなかった者もいる。


ディラックは彼らのことを知っている。


忘れることはない。


だからこそ、自分が生きて帰ってきたことを、不思議に思う。


――生き残ってしまった。


そんな感覚だった。


(いよいよ、気分が沈んできた。さっさと逃げ出すことに――)


ディラックは、誰にも気づかれずに会場を離れる算段を頭の中で巡らせていた、まさにその時だ。


「恋愛って、何?」


さっきまで完全に一人だと思っていたディラックは、不意に耳元で響いた声に肩を跳ねさせた。


いつの間にか、ファントが立っていたのだ。


気配すらなかったことに、ディラックは内心で舌を巻く。


あの注目の輪から、いったいどうやって抜け出せたのだろうか。


「ファル――、いえ、ファント殿下。殿下におかれましては、常にも増して麗しき御姿を拝し、恐悦至極に――」


ディラックは慌てて恭しく頭を垂れ、略式ながらも完璧な臣下の礼をとり、ひどくわざとらしい挨拶の口上を並べ立てた。


「そういうの、いらない。呼び方も、いつも通りで」


冷ややかな声が落ちてくる。ファントの表情は、見事なまでに冷め切っていた。


「――このような眩き宴の場にて、殿下の御尊顔を間近に仰ぐ無礼、平にご容赦のほどを。万に一つの粗相もあってはなりませぬゆえ、どうかお気兼ねなくお通りくださいませ」


「ディー。冗談はやめて。わたくし、真剣に聞いてるの」


ファントは眉をひそめ、少しムッとしたように小柄な体をディラックへと寄せる。


「……ファント殿下。過分なるお言葉ではございますが、ここは公の場。身分を弁えぬ無礼を働けば、小官など格好の厄介払いとして即座に処刑台送りでございます」


「大げさよ」


呆れたようにため息をつくファント。


「いいえ。もし殿下が小官の首をお求めなのでしたら、手の込んだことはなさらず、ただ悲鳴を上げて『この無礼者に尻を撫で回された』と仰っていただければ事足りますので」


「……」


ファントは怒りのこもった眼差しで彼を睨みつけた。


(このまま誤魔化して逃げたかったが……)


ディラックは小さく息を吐いた。


下手に立ち去ろうとすれば、彼女のことだ、大声を出してでも自分を捕まえるだろう。


厄介だが、話を合わせてやり過ごすしかない。


「……何と問われても、困りますね」


「なに?」


ファントはまだ不機嫌そうに尖らせた声で応じる。


「ですから。恋愛について、ですよね?」


「……その話し方、続けるの?」


ファントはジト目でじっくりとディラックを見つめ上げてくる。


ディラックは苦笑いを浮かべながらも、崩すことなく忠実な臣下としての態度を保ち続けた。


「ええ。もちろん。お嫌でしたら、どうぞ、立ち去っていただいて。この宴の主役たる貴女が来る場所ではありませんよ」


「まあ、いいわ。――恋愛って、何なの?」


「知りません」


間髪入れない即答に、ファントは呆気にとられたように目を丸くした。


「はあ? 一度や二度くらい、異性といい関係になったことくらい、あるでしょ?」


「小官は十代の終わり頃に、王家の秘宝を盗み出した宮廷魔術師の捜索隊に配属されて、かれこれ三十年間。大陸中を西へ東へ、この任に就いていましたから。異性どころか、同性の友人もいません」


ファントは、はっと真剣な顔つきになった。


その任務に配属したのは王家であり、彼女もまた王家の一人。少しばかりの責任を感じたのかもしれない。


かと思うと、どこか痛ましそうな、複雑な色を浮かべて表情を歪めた。


「そう……。じゃあ、今はもうその任から解放されたのだから、恋愛してみたい、って思わない?」


「いいえ」


今度は、素直にびっくりしたようにファントが瞬きをする。


「え。どうして?」


「小官の個人的な理由です」


「その理由を教えてよ」


「お断りいたします」


「誰か好きな人がいるから?」


「いいえ」


「結婚を約束してる人がいるから?」


「いいえ」


「以前に付き合ってた人に未練があるから?」


食い下がるファントの目は、真剣だった。


対するディラックは、早く彼女が離れてくれないかと内心でぼやいていた。


どうやら彼女は、自身が納得する答えを得るまで居座るつもりのようだ。


こうなると、いよいよ臣下のふりを続けるのすら面倒になってくる。


「……なあ、ファル。五十歳のおっさんをからかうために、わざわざ壁際まで話しかけに来たのか?」


ディラックは声のトーンをぐっと落とし、いつもの、気安い口調へと戻した。


王女と騎士、あるいは姫と従者。その関係は任務の上での薄い関係のように感じるが、そうではない。


二人は旅を通じて、王女は騎士を慕い愛称で呼ぶことを許し、騎士は王女を姪っ子のように親しみを感じていた。


ようやく、いつもの関係性に戻ったようで、ファントはそっと微笑む。


「違うわよ。話を聞きに来たの」


「そっとしておいてくれよ、今じゃなくてもいいだろ?」


「いやよ。まだ、聞きたいことが聞けてないじゃない」


「聞きたいこと?」


「恋愛とは何?」


また振り出しに戻った問いに、ディラックは心底うんざりした。なぜそんなことを、よりにもよって自分に聞くのか。


「知らん」


「恋愛をしてみたいと思う?」


「思わん。なあ、どうして急にそんなことを? お前さんの柄じゃないだろ」


「わからない。でも、壁際で空のグラスを手にして佇んでいるあなたを見たら、ふと思ったの」


その言葉に、ディラックは小馬鹿にされたのではないかとムッとした。


「憐れんだのか?」


「違う。もう。どうして今日はそんなにトゲトゲしてるの? 祝の席よ?」


ファントは怯えたように肩をすくめ、不安そうにディラックの顔色を窺う。


その姿を見て、ディラックは己のイライラをそのまま態度に出してしまったことを反省した。


少しだけ声のトーンを明るくして、彼は肩をすくめる。


「すまんね。どうにも場違いで、さっさと抜け出したいんだ」


「わたくしも」


「おいおい、主役が抜けてどうする。魔王にトドメを刺した話をしてやれよ」


「一度で良いでしょ。それを何度も何度も聞かれて、うんざりなの」


ファントは心底嫌そうな顔をして、きつく眉根を寄せた。


「だろうな」


彼女の王女という立場と、主役としての責務を考えれば、同情せずにはいられない。


ディラックは改めて、喧騒に包まれた会場を見回した。


中央の最も華やかな場所には人が密集し、着飾った貴族たちが酒杯を掲げ、笑い声をあげている。


しかし、油断無く見回すと、歓談しているふりをして、王女に話しかけようと、互いに牽制し合っているのがわかる。


ディラックは、ファントがここに来たのは、恋愛について聞きたいのではなく、ただ逃げ込んできただけじゃないのかと、推察した。


「他人事みたいに。あなたこそ主役でしょう。三十年間。すべてを見たのはあなただけよ?」


見回すディラックを下から覗き込むようにして、ファントが声をかける。


「見ていただけだ。戦いでは、剣の一振りさえ邪魔になる。あいつに、そう言われたぞ」


ディラックの視線の先には、人だかりの中心で、ひときわ派手な衣装を纏った勇者がいた。


彼は大仰な身振りで、さも一人で世界を救ったかのように得意げに武勇伝を語っている。


その姿を見たファントの顔に、明らかな嫌悪感が浮かんだ。


「あいつ嫌い。偉そうに。すべて自分の手柄だと自慢して」


その気持ちは痛いほどよくわかる。


ディラックは思わず苦笑を漏らしたが、それでも彼女を諭すように静かに告げた。


「中身がどうあれ、女神様から与えられた勇者という兵器だ。あの力無くしては、魔王の前に立つことさえできなかった。それを成し遂げた今は許してやれ」


「わかってる。でも、嫌い」


「そんなことを言うが、あいつが陛下に望む一番の褒美は、きっとお前だぞ」


「うげ」


王女らしからぬ奇声を発し、ファントは幼さすら感じさせるほど素直に、嫌悪感も露わに顔をしかめた。


「王女らしからぬ声を出すな。だが、それも一つの"答"じゃないか?」


「なにが?」


ひどく嫌そうな顔のまま、言われた意味が理解できずにファントはキョトンとする。


「恋愛とはなにか。お前があいつに対して抱いている感情の真逆。すなわち恋愛」


「――なるほど」


すとんと腑に落ちたように、ファントは深く頷いた。


「自分の気持ちをそのまま陛下に伝えろ。うまくあいつに別の褒美を考えてくださるだろうよ」


「わかった。そうね、お父様ならきっと」


「じゃ、解決したところで――さあ、さあ、殿下。あちらの御仁方がお待ちかねです。どうぞ、あの華やかな光の中央へお戻りを」


早く彼女を自分のそばから遠ざけたい一心で、ディラックはさっさと話題を終わらせにかかった。


だが、そのあからさまな態度を察したファントは、途端に頬を膨らませて怒り出す。


「ちょっと、やめて。魔物の中に贄を放り込むみたいなこと!」


「言い得て妙だな。だが、時には犠牲も必要なんだ。わかってくれ」


「いやよ! 誰が好んで生贄になるの! ……そうやって、逃げようとしてるでしょ、ディー」


「……さっき、そう言ったぞ。さっさと抜け出したい、と」


「そうじゃなくて。この国から、いなくなるつもり、でしょ?」


「……まさか。褒美をもらって、贅沢をするのはこれらだというのに?」


「嘘。お父様が嘆いてた。あなたの功績に見合うだけの褒美をできる限り用意したが、良い表情はしてくれない。おそらく、退役を願い出るだろうって」


思いがけない言葉に、ディラックは驚きのあまり、ぽつりと呟くように返した。


「そうか。さすが陛下、お見通しか。なら、話は早いな、助かるよ。実はどうやって申し上げたら良いのか、困っていたんだ」


「どうして?」


純粋な疑問符を浮かべるファント。


ディラックの顔が、慙愧の念に歪む。


「間違いだからだ」


「何が、間違い?」


「そもそも、間違いから始まった」


「どういうこと?」


「魔王となった宮廷魔術師が、王宮の奥深くに封印されていた秘宝に触れることができたのは、宝物庫の鍵を持つ侍従長が、やつを定期点検の担当だと勘違いして中に入れてしまったからだ」


「え、何それ……」


「この事実は三十年間、国の最重要機密として秘匿されてきた。魔王を生み出した原因が我が国の不始末にあると、他国に知られるわけにはいかないからな」


「そうね……。もし知れ渡れば、魔王に家族を奪われた世界中の人々の怒りと恨みが、すべて我が国に向いてしまう」


「魔術師も、邪悪な野心を持っていたわけじゃない。好奇心だったんだ。自分が点検担当じゃないことは言い出さず、良い機会だからと、珍しい秘宝を眺めてやろうとした。しかし、魔王が封じられた秘宝の魔力に魅入られ、心身を侵食されて暴走してしまったんだ。やつは逃走。前王の命令で、情報を隠蔽しつつ、直ちにその場に居合わせた者だけで、捜索隊が結成された。事情が事情だったので、専任の馭者を使うわけにもいかず、居合わせた見習い騎士のオレが、雑用係と馭者を兼ねて、馬車の手綱を握ることになったんだ」


「……自ら志願したのではなかったのね」


ファントは小さく息を呑み、驚きに目を見開いた。


知らない話ばかりだ。彼女が生まれていない時代の話であり、前王の命令で箝口令が敷かれていた。


誰かに聞かれればまずいことになるが、ファントにならいいだろう、とディラックは思った。


魔王はもう討った。そして、彼女はその魔王を討った存在だ、魔王がどのようにして生まれたのか、知っていても罰は当たるまい。


「捜索隊は、まだ魔王として覚醒していなかった魔術師を追い詰めた。だが、それが致命的な間違いだった。追い詰められた魔術師は絶望し、恐怖から拒み続けていた秘宝の魔力に完全に身を委ねてしまった。その結果、やつは不完全ながらも魔王として覚醒し、オレを残して、部隊は一瞬で全滅した」


「どうして、あなただけ生き残れたの?」


「臆病だからさ。今でも鮮明に覚えている。一瞬だけ自分の身体から魂が抜け出たようになり、この先自分がどう殺されるのかが『見えた』んだ。そのまま立ち尽くしていれば確実に死んでいた。オレは我を忘れて泥の中にうずくまり、地面を這いつくばって逃げ延びた」


「あなたが、よく言っていた力ね……。危険が迫ると必ず『見えた』って。その警告を信じたからこそ、わたくしたちも幾度となく死線を越えられた」


ファントは、長年抱いていた疑問の答えを見出したかのように、何度も小さく頷いた。


「魔王誕生の瞬間に居合わせたことで、魔王とオレには"魔術的因縁の楔"が打ち込まれてしまった。オレを殺さなければ、魔王は完全な覚醒を果たせない。オレの頭の中には『魔王を討たねばならない』という観念が焼き付けられた」


今はもう、その強制的で圧倒的な強迫感からは解放されている。


常に頭の中で響き続ける"魔王を討て"という強烈な意思に振り回されまいと、折り合いをつけながら必死で生き抜いた三十年間だった。


「わたくしが知っているのは、あなたは今回のも含めて五期にわたる討伐部隊の水先案内人を務めた、ことだけ」


第一期は王宮近衛騎士団と宮廷魔術師団の精鋭部隊。

第二期は周辺諸国の連合軍による重騎士団と大規模魔導砲撃部隊。

第三期は各国のギルド最上位冒険者や隠遁していた伝説の大賢者たち。

第四期はあらゆる聖遺物を惜しみなく注ぎ込んだ宗教連合軍。


どれも討伐には至らず壊滅した。


世界が厭世観と滅亡の恐怖に呑まれかけたとき――。


「――第五期は、満を持して女神様が勇者を降臨させた」


「わたくしも、その一人」


ファントの顔つきが引き締まる。強い使命感を胸に宿した、凛々しい英雄の顔だ。


「そのすべての部隊において、オレは生き残り、案内役を続けてきた。過去のすべての討伐失敗と仲間の死は、オレの責任でもあるんだよ」


自嘲するような言葉に、ファントは弾かれたように顔を上げ、慌てて首を振って否定した。


「いいえ! 大審判でも、完全に否定された、そう聞いているわ」


あれは、第四期が全滅し、生き残ったオレが陛下に報告申し上げたとき、宗教連合軍側の重鎮が、己の責任逃れのために、オレを女神に罪を問う"大審判"にかけた。


結果、個人の責任ではない、という天啓が神官にもたらされて、解放された。


「それでも、間違いだったと、オレは今でも思っているのさ」


「どうして?」


「魔王を討つ大義ではなく、野営の火起こしや壊れた荷馬車の修繕ばかりを担ってきた、ただの雑用係のおっさんだ」


「……」


「オレは戦場叙任で、騎士になった。オレは、命令されて雑用係を務めただけだ。叙任式もなければ、剣礼の儀も無い」


「……」


「女神様から世界の救済を託された“選ばれし申し子たち”との旅で、根本的な格の違いを嫌というほど見せつけられたよ」


溢れ出す言葉が止まらなかった。


こんな己のちっぽけな惨めさを語るつもりなど微塵もなかった。


彼女をがっかりさせたくなかった。


「どうして、そんなに自分を卑下するの?」


ファントは泣きそうな、ひどく悲しげな顔でディラックを見上げた。


「卑下じゃない、事実だ。俺はお前たちのように選ばれし者でもなければ、世界を救う力なんて爪の先ほども持っていない」


「……違うわ。あなたがいたから、わたくしは壊れずに済んだのよ」


「ファル?」


その切実な声に、ディラックはどきりとした。


「覚えてる? 北の凍土で、魔力の制御が利かなくなって暴走しかけた夜のこと」


「ああ。周りの氷山が三つほど消し飛んだ時か。生きた心地がしなかったな」


ファントは類まれな強大な魔力を持っていたが、当時はまだその制御が未熟だった。


ホームシック、連戦による極度の疲労、そして過酷な寒さが引き金となったのか。


あの日、彼女の魔力は突如として暴走し、周囲の地形をまるごと削り取るほどの破壊をもたらしたのだ。


「あのとき、勇者も他の仲間も、巻き込まれるのを恐れて誰も近寄れなかった。わたくし自身、自分が世界を滅ぼす化け物になったみたいで、怖くて、寒くて、震えていた……」


「……」


ファントは当時の記憶が蘇ったのか、自身の肩を両手で抱きしめるようにして、小さく震え始めた。


ディラックは今すぐにでも彼女を抱きしめ、その不安を和らげてやりたいという強い衝動に駆られた。


だが、触れることすら許されない場所の空気が、彼の心さえも封じ込めてしまう。


「なのに、何の魔法防御も持たないあなたが、平然と歩いてきた」


「平然となんて、とんでもない。ただ、必死だっただけだ」


「わたくしにはそう見えた。暴走した魔力が何度もあなたを消滅させようとしたとき、あなたは落ちてくる木の葉でも避けるみたいに、でも一歩も引かずに近づいてきた」


「……」


「そして、わたくしを後ろから抱きしめ、冷え切ったわたくしの手を両手で包んでくれた」


「……」


「優しく囁くように『大丈夫だ、大丈夫。オレがしっかり護ってやるからな』って」


「……」


「誰も触れられなかったわたくしを、ただの震えている子供として扱ってくれた。あのとき、胸の奥が痛いくらい熱くなって、あなたの腕の中なら息ができると思ったの」


「ファル――」


ファントの頬に、ほんのりと朱が差す。


彼女は上目遣いにディラックを見つめ上げた。


その潤んだ瞳には、隠しようのない明確な好意が浮かび上がっている。


(気づいては、いた……)


彼女が自分に向ける好意にディラックは気づいていた。


だが、気づかないふりをするしかなかった。


圧倒的な年齢差、魔王討伐という過酷な任務中であること、そして何より、彼女は次代を担う優れた王女である。身分が違いすぎる。


「勇者の自慢話を聞いても、息が詰まるだけ。でも、あなたといると、安心できるの。心が温まるのを感じる。不安になったとき、無意識にあなたを探すの。あなたが微笑んでくれると、不安な気持ちは霧散する」


「……」


「そう。……これが、恋なのね。わたくし、あなたが――」


「ファント殿下」


それ以上は、決して言わせてはならない。ここで明確に線を引く必要がある。


越えてはならない、王女とただの従者の間に横たわる絶対の境界線を。


「ディー……?」


冷たく切り捨てるような臣下の口調に戻ったディラックを見て、ファントは怯えたように彼を見つめた。


ディラックは声のトーンをさらに落とし、恭しくも峻烈な態度で言い放った。


「人が命の危機を感じた折に覚える胸の高鳴りは、恋情に揺れる心臓の鼓動と酷似していると申します。どうか、思い違いをなさらないでください」


「そんなわけ、ない! 勘違いなんかじゃ――」


驚き、そして即座に否定しようとするファント。


「いいえ。そうでなくてはならぬのです」


ここは絶対に譲れない。ディラックは今までで最も強い声と、射抜くような視線を彼女にぶつけた。


「……っ」


その気迫に気圧され、ファントはびくりと身をすくませる。


「過酷な死線の中で最も近くにいた従者に、安らぎや頼もしさを錯覚してしまうのは無理からぬこと」


「錯覚なんかじゃないわ! わたくしは、自分の心くらい自分で――」


「お考えください。三十を超える年の差を。天と地ほどに隔たった身分の差を」


「そんなもの……!」


「国の未来を背負うべき尊き姫君としての、ご自身の立場をお考えくださいませ」


「立場なんて……!」


「聡明であられる殿下ならば、既にお気づきのはずです。それが決して許されぬ望みであることを。……今宵の酒の席での、ほんの戯言であったと小官の胸だけに収めましょう。生涯の思い出といたします」


「……許されない? 恋をするのに、だれの許しが必要だっていうの? くだらないわ」


「くだらなくなどありません」


「ディー。はっきりと言うわ。わたくしはあなたが好き」


ファントは逃げなかった。


まっすぐに向けられた純粋な好意。


朱に染まった頬。大きく見開かれた瞳は、涙で微かに潤みながらも、決して逸らされることはなかった。


「……っ」


「あなたは、わたくしのこと、どう思ってるの?」


自分が彼女をどう思っているかなど、問題ではないのだ。


身分という越えられない絶対の境界線がある。


冷静な彼女であれば理解できるはずの道理すら、恋という熱が曇らせてしまっている。


彼女の気持ちに応えるという選択肢は、ディラックの人生には存在しない。


自身の感情がどうであれ、なんとしてでも説き伏せなければならない。


「……」


「いい? 誤魔化さないで。わたくしも、誤魔化さずに素直な気持ちを打ち明けたのだから、誠意で返事をして」


その真っ直ぐな言葉に、ディラックはこれ以上の誤魔化しは通用しないと悟った。


ならば、心の奥底に封じ込めていた本音を、血を吐く思いで告げるしかない。


「ファル……。お前の気持ちは、素直に、嬉しいと感じるよ。ずっと気づいていた。気づかないふりをするのも、もう慣れたもんだ」


「嬉しい、なら、わたくしのことを好きということ?」


「恋愛とは何? と聞いたな。オレにとって恋愛は、明日がある人間だけに許された、贅沢な呪いだよ」


「贅沢な……呪い?」


「ああ。この三十年間、オレが泥や他人の血を啜ってでも生き延びてこられたのはなぜか?」


「……あなたの、危険を察する力のおかげでしょう?」


「それだけじゃない。何一つとして失いたくない『特別なもの』を持たなかったからだ。自分の命を最優先できたからだ」


「特別なもの……」


「仲間が魔王の瘴気に呑まれても、大賢者が狂気に落ちても、聖騎士たちが粉々になるのを見てもな。オレは冷酷に『逃げろ、這いつくばれ』と自分に命じ、オレはその通りにしてきた」


「……っ」


「誰のことも心の底からは愛さず、ただ自分だけが生き残ることだけを選んできた。だから、オレはここに立っている」


「そんな……悲しいこと、言わないで」


ファントはまるで自分の心が抉られたかのように、悲痛な顔をして俯いた。


「悲しいんじゃない、事実だ。誰かを心から愛するってことは、自分の命より重いものを背負うってことなんだよ」


「命より……重いもの……」


「そうだ。自分が生き延びたいと願いながら、誰かのためになら死んでもいい、そう考えるのは狂ってる」


「……」


「北の凍土の夜……、お前にはオレが平然と歩いていたように見えたようだが」


「うん……」


「氷山が消し飛ぶ暴走の中で、オレは自分自身が2つに引きちぎれそうなほど、戦っていたんだ」


あの時の、魂が真っ二つに裂けるような激痛をディラックは今でも鮮明に覚えている。


自ら己の腹に手を突っ込み、内臓を引き裂くかのような途方もない矛盾との戦いだった。


「……え?」


「生き延びようとするオレが『逃げろ』とオレを罵倒していた。けれど、お前を助けたいオレが、足を進めるんだ」


「ディー……」


「あのとき、オレは自分の生き方を捨てた。何が何でも自分だけは生き残るという生き方を」


「……」


「世界を救うためでも、大義のためでもない。自分が生き残るためでもない。ただ目の前の泣いている女を護るためだけに、命を賭けたんだ」


「……」


「それが恋じゃないなら、オレの人生に恋なんてものは存在しない」


「……っ!」


その言葉の真意を悟ったファントの顔に、ぱぁっと歓喜の光が差した。


「だがな、ファル」


しかし、ディラックは冷酷にその希望を打ち砕く。絶望は、ここからなのだ。


「……?」


「魔王は討った。戦いは終わったんだ」


「だからこそ、これからは平和に、一緒に――」


「お前にはこれから、太陽の光が降り注ぐ何十年もの未来があるんだよ。選ばれし者として、尊き姫君として、世界を温かく照らしていく長い人生がな」


「あなただって……!」


「いや。そこに、間違って生き残った、抜け殻のおっさんに、居場所はない」


「どうして! あなたはどうして、そこまで、あなたを評価しないの!」


「許せないからだ! 自分だけ、生き残ったことを!」


それは、三十年間溜め込み続けた、ディラックの魂の叫びだった。


「……っ!」


唐突な大声に、ファントはびくりと肩を震わせた。


これまでずっと彼の苦悩を感じ取ってはいたが、その根底にある、暗く深い淵に初めて触れた気がした。


「眼の前で、あの男が魔王に堕ちたあのときから、オレは一度も酒を口にしていない。口にできない。口にできるはずがない、仲間の血飛沫を啜って生き延びたのに――」


彼の手にある空のグラスは、いつまでも空のままだ。満たされることのない贖罪の象徴のように。


「もう、いいじゃない。あなたががんばったから。魔王は討った。だから、あなたはもう――」


「許されていいと? 恋をしていいというのか?」


「ええ!」


「他の誰が許しても、オレが許せない。オレには、壊せないものがあるんだ」


「こわせない、もの?」


「お前の未来さ。お前をこの腕に閉じ込めることは、お前の未来を壊してしまう」


「……っ、そんな……」


「オレにとって、お前を愛するってことはな……お前を手に入れることじゃない」


ディラックは静かに、だが決して覆らない結論を告げる。


「お前の未来の邪魔にならないよう、背中を見送ってやることなんだよ」


「……」


「たのむ、オレに好意をいだいてくれるなら、オレにお前の未来を護らせてくれ。壊したくないんだ」


どんな言葉を尽くしても、彼女を理屈で説き伏せることなどできないとわかっていた。


だからこれは、ディラックからの血を吐くような懇願だった。


彼自身は、これこそが最も美しく、最も誠実な愛の形だと信じ切っていた。


だが――。


「ふざけないで」


返ってきたのは、身を引く悲哀などではなかった。


低く、硬く、怒りに満ちた声だった。


「……ファル?」


ディラックが怪訝に眉を寄せた瞬間、ファントは彼を真正面から射殺すような鋭い視線で見据えていた。


「勝手にわたくしの未来を決めつけないで! 見送ることがあなたの愛ですって? ただ自分ひとりで悲劇の主人公になって、傷つくことから逃げているだけじゃない!」


「な……」


「わたくしの未来を壊す? 冗談じゃないわ! わたくしの未来を選ぶのは、あなたじゃない。このわたくしよ! あなたが身を引いて、心にもない相手に嫁いで、王女としての責務だけで終わっていく人生が、わたくしの望んだ未来だと本気で思っているの!? そんなもの、わたくしにとっては死んでいるのと同じよ!」


ファントの全身から、抑えきれない怒りと覇気が立ち上る。


「自分を許せないなら、わたくしの隣で苦しみなさいよ! 生き残った罪悪感を背負うなら、わたくしを幸せにする重みも一緒に背負いなさい! 都合よく身を引いて、オレの役目は終わったなんて顔をして立ち去ることだけは、絶対に許さないんだから!」


「ファル、お前……」


ディラックは息を呑み、完全に気圧されていた。守るべき可憐な少女などではない。目の前にいるのは、世界を救い、魔王を砕いた一人の誇り高き英雄だった。


「――ファント殿下、陛下がお呼びです」


不意に、近づいてきた近衛兵の声が二人の間の張り詰めた空気を断ち切った。


ファントは冷ややかに兵を一瞥すると、ディラックへと向き直った。その瞳には、かつて魔王の軍勢を前にした時よりも遥かに強烈な覚悟が宿っていた。


「いま行くわ」


「……」


「――ディー、覚悟を決めて」


「なに?」


「わたくしが壊しても、あなたが護ってよ」



 ◇   ◇   ◇



――場面は変わり、祝賀パーティーの中心。


一段高くなった上座には国王と王妃、そしてファントの兄や姉たちが並び、その左右には国の重鎮たる貴族たちがずらりと控えている。


最前列には、今宵の主役である勇者パーティーが誇らしげな笑顔で並んでいた。 その豪奢な絨毯の上で、ファントは静かに王へと頭を下げる。


「――お呼びと伺い、参りました。お父様」


「面を上げよ、ファント。宴の席だ、単刀直入に申そう。勇者殿は、魔王討伐の恩賞としてお前を所望しておる」


「……」


ファントは表情一つ変えなかった。


横に立つ勇者へ視線を向けることもない。


だが、その肌にねっとりと絡みつくような勇者の好色な視線を感じ、ギリッと強く奥歯を噛み締めた。


「だが……。ファント、お前もまた共に魔王を討ち果たした英雄の一人。余は国王として、お前にも等しく恩賞を与えねばならぬ」


「……はい」


「勇者殿に報いるためとはいえ、同じく功労者であるお前の意向も尊重せねばならぬ。ファント、何も憚ることはない。お前の真意を聞かせてくれ」


ファントは依然として表情を崩さず、しかし一切の迷いなく、その言葉を広間に響かせた。


「お断りいたします。拒否することこそを、恩賞として賜りたく存じます」


「……ふむ」


王は驚く様子も見せず、ただ静かに頷いた。


だが、周囲の貴族たちや勇者パーティーの間には、抑えきれないざわめきが広がった。


ファントは意を決し、壊す。ディラックが護ろうとした"王女としての未来"を。


「わたくしにはすでに、身も心も捧げたお方がございます」


大広間は一度静まり返り、次の瞬間には激しい動揺とざわめきが渦を巻いた。


「な、なんと……婚前にもかかわらず、殿下が他者と通じておられたと……!?」


「純潔を失ったと仰るのか……!?」


「それでは、勇者殿へ下賜する王女としての名分が立ちませぬ!」


「相手はどこの誰だ!? 王女殿下をたぶらかした不届き者は!」


彼らが見ているのは、純潔の王女という価値。ファントを見る者はこの場にいない。貴族たちは困惑と怒りを露わにする。


王がゆっくりと手をかざすと、傍らに控えていた宰相が張り裂けんばかりの大声で静粛を命じた。


広間が再び水を打ったような静寂を取り戻すと、王は静かに問いかけた。


「その御仁は、今、どこにいる?」


その問いの響きには、すでに相手が誰であるかを見透かしている響きがあった。


ファントが口を開くよりも早く、王の視線は一点へと向かっていたのだ。


ファントもまたそれを察している。


振り向くことも指差すこともなく。


王の瞳を真っ直ぐに見つめ返したまま、まるですべてが見えているかのように言い当てた。


「空のグラスを片手に、いまこの場から逃げ出そうとしている――ディラックです」


広間中の視線が一斉に壁際へと突き刺さる。


当のディラックは、もはやこれまでと諦めの境地に達し、手にしていた空のグラスを近くのテーブルへ放り投げながら、特大のため息を一つこぼした。


「ディラックを、ここに」


王の号令で近衛兵が動こうとしたが、ディラックは「その必要はない」と手を挙げて制し、悠々とした足取りで王の御前へと歩みを進めた。


貴族たちがさっと道を開け、そこに一本の道ができる。


彼はファントの隣には並ばず、身分をわきまえて彼女より数歩下がった位置で静かに片膝をついた。


「御前に」


「ディラック・プランク。……娘の申すこと、誠か」


王の声は淡々としていた。


そこに怒りや憎悪の感情は微塵も含まれていない。


だが、王としての威厳が深く刻み込まれており、一切の誤魔化しを許さない峻烈な空気がそこにはあった。


(冷静を装ってはいるが……。返答次第ではこの場で首を落とさんという怒気を感じるな)


ディラックは腹の底でそう推測したが、だからといってやすやすと答えるわけにはいかない。


「陛下。小官はいかなる罰も受ける所存にございます。しかし、殿下の御言葉について、肯定も否定も申し上げるつもりはございません」


再び広間がざわめき、怒号が飛び交う。宰相が唾を飛ばしてそれを鎮めると、王はやはり静かに問い質した。


「肯定も否定もせぬ、か。いかなる理由か?」


「殿下のお言葉を偽りとすれば、王女たる御方を罪に問うことになりましょう。真実であると認めれば、小官が罰せられるは当然として、殿下までもが瑕疵ある姫君として、生涯を日陰で過ごされることになりかねませぬ。陛下、ひらに、ひらにお願い申し上げます。どうか、小官の首一つで、この場をお納めくださいませ」


「それを承知の上で、口を噤むと申すか」


「はい」


ファントが何かを叫ぼうとしたが、王の鋭い一睨みが彼女を黙らせた。


勇者をはじめとする貴族たちは、「直ちにその首を刎ねよ!」と口々に騒ぎ立てる。


王は目を伏せ、深く考えるようなそぶりを見せた後、厳かに告げた。


「そなたもまた、魔王を討ち果たした英雄の一人。余は国王として、お前にも等しく恩賞を与ねばならぬ」


ディラックは何も応じない。だがここで、我慢の限界とばかりに勇者が前にしゃしゃり出てきた。


「陛下! 一介の従者風情が我らと同列に扱われることなど断じて許されません! やつは何もしていない! 剣の一振りさえ魔王には届かず、ただ運良く生き延びていただけではありませんか! 女神の加護を受けた我らと同等に報いるなどあり得ない! 名誉ある遠征に同行する僥倖を賜りながら殿下を誑かした大罪人です、直ちに処刑を――」


王の目が、鋭く細められた。


「勇者殿。そなたが女神に見出され、類まれなる御力を『授かった』奇跡の体現者であることは疑いようもない。魔王討伐という偉業への貢献は、間違いなく英雄のそれだ。ゆえにこそ、余はそなたの若さゆえの無礼にも目を瞑り、我が娘を恩賞に求めるという傲慢にすら、王としての矜持を殺して応じる覚悟であった。……だがな。天より力を与えられただけのそなたが、この者を侮辱することだけは、断じて許さぬ」


「な、なにを……。し、しかし――」


「三十年だ。そなたらが神の庇護の下で剣を振るうより遥か昔から、この者は神の加護など一切持たず、ただ己の命一つで魔王の標的として生き延びてきたのだ。この者が死せば魔王が完全覚醒すると知った時、国を挙げて護ろうとした。だが……我らは魔王の絶望的な力の前に、あまりにも無力であった。己の存在が災厄を招くと悟ったこの者は、誰の庇護も受けず、単独で大陸中を逃げ回り、なおも生き延びたのだ。そればかりか、我らを五度も魔王の元へと導き、討伐して見せた。凄絶な死線の度ごとに生還を果たした上で、だ。女神の加護という絶対の盾の陰から魔王と対峙したそなたに、果たして真に理解できるか?」


勇者は息を呑んだ。


広間に並ぶ歴戦の老将や古参の騎士たちが、ディラックに向けて深々と頭を垂れている。彼らは知っているのだ。かつて幾万の兵が挑み、ことごとく屠られた地獄の中で、たった一人で世界を繋ぎ止め続けた男の凄絶さを。


魔王の底知れぬ恐ろしさは、勇者自身も身をもって知っている。殺されるかもしれないと絶望した瞬間は一度や二度ではない。


王はさらに言葉を重ねた。


「神に選ばれし勇者よ。そなたの生涯よりも長い地獄を、この者は奇跡に頼らず、大切なものを全てを諦めながらも、生き延びて耐え抜いたのだ。そなたの功績は確かに称賛に値する。……だが、この者の三十年という血の滲むような重みに対し、余はいかにして報いるべきか、見当すらつかぬのだ」


王の頬を、一筋の涙が伝い落ちた。


表情こそ君主としての威厳を保っているが、その奥底からほとばしる深い感謝の念が、言葉となって溢れ出していた。


周囲は水を打ったように静まり返っていた。


王は上座からゆっくりと階段を下り、ファントの横を通り過ぎて、ディラックの眼前にまで歩み寄った。


自然と、広間中の視線がディラックへと集中する。ファントもまた、祈るような心配そうな瞳で彼を見つめていた。


「ディラック・プランクよ」


「はい」


「たのむ。そんなことを言わないでくれ。お前の首を刎ねるなど、考えたくもない」


「陛下、それほどまでに、評価していただき、この上ない名誉でございます。そのお気持ちだけで、十分です」


「そうはいかぬ。申してみよ。いかなる褒美も、叶えよう。すべてに優先することを約束しよう」


ディラックは、必死に考えていた。ファントを救う方法を。ただそれだけを。


ファントを救うため、首をはねてくれと言った覚悟に嘘はない。だが、王は聞き入れてはくれない。


このままでは、ファントは"純潔を失った瑕疵ある王女"として政略の泥沼に引きずり込まれるか、強大すぎる魔力を恐れる他派閥の標的になる。


彼女を護ると誓ったんだ。約束したんだ。その方法は、もはや一つしかなかった。


(呪いを、背負う覚悟を決めるしかないか)


ディラックは真っ直ぐに王を見据えた。


「魔王討伐の褒美として、これまで打診されておりましたすべての褒美――爵位も、領地も、恩給も――謹んで辞退いたします。その上で――」


「……代わりに、何を望む」


「ファント殿下を、小官に賜りたく」


「なっ――それは姫を汚したと、認めたも同然ではないか! 貴様、姫に何をした! 王が処刑しないというのなら、オレが! 女神の使いたる勇者が罰してやる!」


激昂した勇者が、虚空から神々しい光を放つ聖剣を取り出し、ディラックへ向けて構えた。


「――!」


その瞬間、広間を支配した圧倒的な魔力の奔流に、すべての者が恐怖に凍りついた。勇者もまた、聖剣を手にしたまま石像のように固まった。


「それ、本気かしら? そうね、すでに聖剣を手にしたのだから、自らも斬られるという覚悟はできている、ってことよね」


ファントの顔からは一切の感情が消え失せ、冷酷で鋭い表情が張り付いていた。


小柄な身体からとめどなく溢れ出す魔力の本流が、足元の硬い大理石の床をメリメリと穿ち始めている。 彼女の魔力は、すべてを破壊する権化だ。


「……ファル?」


茫然とつぶやく勇者を、ファントは氷のような声で一蹴した。


「気安く呼ばないで。わたくしの大切なこの方を傷つけるというのなら、先にあなたを砕いてやる。魔王を討伐するのに比べたら、容易いことよ」


どこまでも冷たい宣言と共に、勇者の手の中で輝いていたはずの聖剣が音もなく砕け散り、砂のようにさらさらと床へ落ちていった。


「ひっ?!」


勇者は無様に腰を抜かし、床を這いつくばるようにして後ずさる。


なおも怒りが収まらないファントが、逃げる勇者を追うように一歩踏み出そうとした。


だが、その前に静かに立ちはだかったのは、ディラックだった。


「ファル、落ち着け」


「ディー! だってあいつは!」


「オレがそう簡単に傷つくはずがないだろ? 魔王からさえ三十年間も逃げてみせたのだから」


その言葉に、ファントはようやく我に返り、ホッとしたように全身の力を抜いた。


「……そうね。ごめんなさい、取り乱してしまったわ」


「いいさ。オレのために怒ってくれて嬉しいよ」


「わたくしこそ……。でも、また、わたくしのために、自分の命を差し出そうとしたわ」


ファントは切なそうに顔を歪め、そのままディラックの胸へと飛び込み、固く抱きついた。


「君のためなら、惜しくはないさ」


「だめよ、わたくしが許さない。だって――」


「んんっ!」というわざとらしい王の咳払いが響き、ファントはハッと我に返った。


大広間にいる数百人の視線が、一点に注がれている。


人前で、しかも公の場で男性に抱きつくというはしたない振る舞いに気付き、彼女は顔を真っ赤にして慌ててディラックから離れた。


「ディラック、さきほどのそなたの願い。聞き入れよう」


「……陛下」


「お父様!」


ぱぁっと顔を輝かせるファントを、王は片手を上げて制した。


王は大きく息を吐き出すと、それまでの威厳ある君主の顔から、一人の父親としての苦虫を噛み潰したような渋面をわずかに覗かせた。


「三十年の長きにわたり、絶望の淵で世界を繋ぎ止めたお前の功績に比べれば、王女一人など安いものやもしれん。お前が生き延びてくれたおかげで、魔王を討つことができたのは紛れもない事実だからな。……だが、父親としては、手塩にかけた愛娘を五十の男にくれてやるのは、いささか腹立たしいものがある」


「……仰る通りでございます。陛下の親心、至極尤もに存じます」


「余の気が変わらぬうちに、さっさとその娘を連れて下がるが良い」


王のその一言は、覆すことのできない決定的な宣言であった。


一瞬の静寂の後、宰相が空気を読むようにしてパンッと大きく手を打った。


それを合図に、周囲の貴族たちからパラパラと拍手が沸き起こり、やがてそれは大広間を包む大きな祝福の喝采へと変わっていった。


だが、見ればわかる。彼らの顔に張り付いた笑顔は、あくまで王の決定に恭順を示しただけの「見せかけ」だ。


一介の従者風情、それも親子ほども歳の離れた薄汚れた男が王女を射止めたことに対し、彼らの目は全く笑っていなかった。


密かな嫉妬と、手に負えない厄介者を押し付けられたような複雑な感情が入り混じっている。


だが、そんな周囲の淀んだ思惑などどこ吹く風で、ファントは無邪気に歓喜していた。


王族としての矜持も忘れ、満面の笑みを浮かべて再びディラックの腕にしがみつく。


「聞いた!? ディー! お父様が許してくださったわ!」


「ああ……。そうだな」


手放しで喜ぶ彼女を見下ろし、ディラックは誰にも聞こえないほどの小さな溜息をついた。


その心境は、周囲で作り笑いを浮かべる貴族たち以上に複雑なものだった。


(さっきは、ああ言うしかなかったんだ……)


ファント自身が「身も心も捧げた」と言い放ってしまった以上、あの場で彼女を救い、他派閥の思惑から完全に守り抜く方法は、最大の功労者たるディラック自身が彼女を望むこと以外に存在しなかった。


どの派閥にも属さず、世界を救った生ける伝説であるディラックの腕の中だけが、彼女にとって唯一不可侵の聖域となり得るのだ。


しかし、いざそれが現実のものとなってみると、途方もない重圧が両肩にのしかかってくる。


この眩しい太陽のような少女を、人生の半分以上を泥水の中で這いつくばって過ごしてきた抜け殻の自分が、これからどう扱っていけば良いのか。


まるで見当もつかない。


恋は贅沢な呪いだと、つい先ほど自ら吐き捨てたばかりではないか。


何一つ特別なものを持たないことで生き延びてきた男が、世界で最も特別で、最も重い存在を抱え込むことになってしまった。


腕の中にしがみつき、見上げてくるファントの瞳はどこまでも澄み切っていて、自分に対する絶対の信頼と、隠しきれない好意に満ち溢れていた。


その温もりを感じた瞬間、ディラックの胸の奥底で、かつて北の凍土で彼女を抱きしめた時に感じた、あの痛いほどの熱がじんわりと蘇ってきた。


(彼女を護りたい)


その気持ちに嘘はなかった。


今はまだ、自分の内にあるこの感情を"恋"と呼ぶことはできない。


けれど、冷え切っていた自分の人生を強引にこじ開け、力ずくで差し込んできたこの眩しい光を、もう拒絶する気にはなれなかった。


「……長い、第二の人生になりそうだ」


ディラックはポツリと呟く。


そして初めて、自らの意志で彼女の小さな背中に腕を回し、そっと抱き寄せた。


これからの日々は、逃げるためではない。この腕の中にある未来を護るためにある。


自分の中に芽生えた感情を、彼女の屈託のない笑顔とともに、少しずつ育てていけばいいのだと、五十の男は騒騒しい広間の片隅で静かに悟った。



   ◇   ◇   ◇



二人は答え合わせをしました。


「ねえ、ディー。『身も心も捧げた』って言ったとき、少しはドキッとした?」

「少しどころの話じゃない。寿命が三十年分縮んだよ」

「だって、そうでも言わないと、あなたの頑なさを壊せないって思ったから」

「まったく。貴族令嬢が衆目の集まる中で"身を捧げた"なんて嘘を」

「嘘じゃないわ。心はとっくに捧げていたし、身だって――あの凍土の夜に抱きしめられた時から、あなた以外の誰にも触れさせる気はなかったんだから、同じことでしょ?」

「陛下のお気持ち次第、あるいはオレの発言次第で、オレは処刑され、お前は修道院送りだったぞ」

「お父様は絶対にそんなことなさらないと知っていたもの。あなたもわたくしを見捨てたりできるはずがないわ」

「おっさんを、そこまで買い被るもんじゃない」

「買い被ってないわ。買い占めたの」

「豪快なことで」


「あの勇者はどうなったんだ?」

「聖剣を砂にされて腰を抜かした後は、すっかり大人しくなったわ」

「まったく、大したものだ。あの聖剣は女神様の加護があるもの、それをあんなにも簡単に……」

「あの聖剣は、形あるものとして顕現されたわけではないの。言うなれば、勇者自身の投影に過ぎないわ」

「どういう意味だ?」

「んー、それこそ淑女に言わせないで欲しいんだけど……」

「――まさか、ファリック・シンボルとでも言いたいのか?」

「……」

「それを、砕いた、ということか。なるほど、そりゃ大人しくもなるか」

「お父様から莫大な報奨金と、遠く離れた温暖な領地を下賜されて、取り巻きを連れてそそくさと王都を出て行ったそうよ」

「そうか。まあ、余生を贅沢に暮らせるなら、あいつにとっても一番だろう」

「相変わらず甘いんだから」

「貴族連中はどうだ? 陛下が睨みを聞かせてくれているだろうが、誰も納得してないだろう?」

「お父様だけではないわ。あなたが思っている以上に、あなたに恩を感じている有力者は多いの。だから大丈夫よ」

「そうか、ありがたいことだ」

「それに、魔王を粉砕したわたくしよ? 下手に手を出したら、勇者の二の舞。みんな怯えて遠巻きに見てるわ」

「触れること能わず。とんでもない夫婦だな」

「お似合い、って言ってちょうだい」


「お父様が、あなたが爵位も領地も恩給も全部辞退したこと、ものすごく悔しがっていたわよ」

「身に余る。俺はただ生き延びていただけの男だ。そんな大層なものをもらっても、使い道に困るだけさ」

「『あやつはどこまで無欲なのだ。娘をくれてやる口実が立たんではないか』って、執務室で頭を抱えていたわ」

「……陛下には、本当に頭が上がらないな」

「でも、困ることばかりじゃないわ。わたくしの扱いの方が今や難しいわ。それを中和する触媒があなただから、評価もしているのよ」

「どういうことだ?」

「わたくしは、本来なら王位継承階位も低くて、都合のいい『政略結婚の駒』でしかなかったでしょう? それが今じゃ、この国の実権にすら手が届く立ち位置にいるのよ。誰のモノでもないまま放置なんて、飢えた獣の鼻先に生肉をぶら下げたままにするようなものだわ」

「それはわかる。“生きた戦略兵器”とも言える存在だ」

「その上、教会や復興利権を狙う新興勢力は"女神の使徒たる勇者"を神輿に担ごうとしていたけれど、わたくしは天敵になった」

「そりゃな、象徴たる聖剣を砕いてみせたのだから……」

「それに他国から見れば、わたくしは、いつ自国に向けられるかわからない砲塔そのものよ」

「外には過剰すぎる抑止力、内には国を割りかねない火種か。そりゃ陛下も持て余すわけだ」

「そのすべてを、完璧に抑制できる方法が、あなただった。何より、わたくし自身が望んでいるということが、最大の決め手ね。お父様は口では"腹立たしい"とおっしゃっていたけど、きっと胸をなでおろしていらっしゃるわ」

「そうか……。少しは肩の荷が下りるよ」


「そういえば、ディー。お酒は飲んだの?」

「ああ。町の酒場で、一杯だけな。安いエールを頼んだ」

「どうだった?」

「正直、味はわからなかったな。酔いもしない。何をこだわって、飲まずにいたのかと、拍子抜けしたくらいだ。仲間の血の味がするかと怯えていたんだが」

「あなたの悪い癖よ、悪く考えすぎなのよ。でも、よかった。あなたがずっと自分に課していた呪い、少しは解けたのね」

「ああ。オレはあの日から失われたものを一つ一つ取り戻し、噛み締めているよ。お前のおかげだ。ありがとう」


「ねえ、危険を察知するあの力は――、もう『見え』なくなったの?」

「いや。魔王との因縁の楔は消えたはずなんだが、長年の染み付いた勘みたいなもんが残ってるらしい」

「わたくしが思うに、あなたのそれもまた、女神様から与えられたチカラだったのでは?」

「どうしてそう思う?」

「出来すぎているから。あなたの三十年を否定するつもりは、まったくないんだけど――」

「ああ」

「あの恐ろしい魔王から、何のチカラも加護もない人間が生き延びられるなんて。あなたを前にしていても、信じられないの」

「オレもその一点は同感だ。何度もダメだと思っても、すり抜けるように生き延びてきた」

「しかも、その人物が魔王を完成させる最後のパーツになっている。こんな奇跡が、女神様の導きだったと言われなきゃ、ありえないんじゃないかって」

「否定はできないな。だが、実感は無いし、女神様から、なにか言われたわけでもない」

「今となっては、永遠の謎のままかもね」


「ねえ、ディー」

「ん?」

「わたくしと一緒になって、後悔してない?」

「後悔か。……正直に言えば、今でも時々、怖くなるよ」

「怖い?」

「ファルには、もっと若くて、立派で、お似合いの男がいたんじゃないかってな。オレが、お前の眩しい未来の隣に立っていていいのかって」

「またそんなこと言う。……わたくしにとっての『眩しい未来』はね、誰かにあてがわれた立派な誰かと過ごすことじゃないの」

「ファル……」

「朝起きたら、あなたが起きていて、温かい朝食があって。城の公務で疲れて帰ってきたら、黙ってわたくしの話を聞いてくれて、頭を撫でてくれる。……そんな、温かい日々が、わたくしの一番欲しかった未来なのよ」

「ずいぶんと安上がりな未来だな、天下の王女殿下にしては」

「安上がりどころか、かなり贅沢よ。だって、この生活を手に入れるために、三十年も死にそうになっても逃げ回り、最後に魔王を倒さなきゃいけないのよ?」

「そう考えると、誰も成し得ない報酬なのか」

「ええ。だから、覚悟してね。こんなに苦労して手に入れたんだから、簡単には放しはしないわ」

「覚悟?」

「わたくし、絶対に先に死なせてあげないんだから。わたくしの隣で長生きしてもらうわ」

「いやいや、それは無理だろう。いったい、オレはいくつまで生きてればいいんだ?」

「さあ? でも、あなたなら、きっとわたくしを悲しませたりしないよね」

「善処するよ。……なに、安心しろ。オレにはもう『見えて』るんだよ。お前と並んで、文句を言い合いながら過ごす未来がな」


かつて死の淵だけを捉えていたその瞳に、今はただ、眩い光に満ちた確かな明日が映し出されていた。


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