第32話 現代に戻って、胸に残る灯り
月曜の朝、佐藤悠真はアパートのベッドの中で、ゆっくりと目を覚ました。
4連休が終わり、今日からまた日常が始まる。
体はいつものように重く感じるはずだったが、今日は違った。
胸の奥に、湖畔の焚き火の温かさと、霧影兎のふわふわした感触が、まだはっきりと残っていた。
キッチンに行き、コーヒーを淹れようとした瞬間、ふと手が止まった。
現代のコーヒー豆に、異世界から持ち帰った黄金花の乾燥花びらを少し混ぜてみる。
お湯を注いだ瞬間、いつもの苦い香りに、優しい花の甘い香りが重なった。
一口飲むと、連休中の湖畔の朝が鮮やかに蘇ってきた。
「…やばいな」
悠真はマグカップを両手で包み、ベランダに出た。
小さな焚き火台に火を起こす。
炎が育つと、火の囁きが微かに感じられた。
現代のベランダで焚き火をするのはリスクがあるが、今朝はどうしても炎を見たかった。
香りの導きが働き、コーヒーの香りと焚き火の煙が、穏やかに調和する。
会社に着くと、いつものデスクに座った。
プロジェクトの進捗報告書を作成している間も、頭の片隅に湖の景色が浮かんでいた。
田中課長が近づいてきて、いつものように声をかけた。
「佐藤、連休どうだった?
顔色がえらくいいぞ。
またキャンプか?」
悠真は自然と微笑みながら答えた。
「ええ、湖畔でゆっくりしてきました。
焚き火を囲っていると、頭がすごく整理されるんですよね」
課長は感心したように頷いたが、悠真の胸の中では別の思いが渦巻いていた。
(焚き火……あの焚き火……
現代のものじゃなくて、異世界の……)
昼休み、コンビニで買ったおにぎりを食べながら、悠真はぼんやりと窓の外を眺めた。
4日間の記憶が、頭の中で鮮やかに蘇る。
霧影兎が膝の上で丸くなっていた温もり。
バルトおじさんの笑顔と温かいパン。
リリアの優しい声とハーブの香り。
エマさんの甘いお菓子。
湖面に映る星空。
そして、焚き火の炎が静かに揺れる夜……
「おれは……考えてしまってる」
悠真は心の中で、初めて言葉にした。
異世界へ移住したい、と。
現代のこの部屋、会社のデスク、毎月の家賃、スマホの通知、満員電車……
全部捨てて、あの湖畔で焚き火を囲み、霧影兎と一緒に生きていく。
朝は湖の水でコーヒーを淹れ、夜は星空の下でキャンプ飯を作る。
そんな生活が、頭の中で何度も繰り返し浮かんでいた。
でも、同時に不安もあった。
家族や友人に何も言わずに消えるなんて、到底許されない。
現代の生活基盤を失ったら、本当に生きていけるのか。
異世界で病気になったら、どうするのか。
それでも、胸の奥の想いは日に日に強くなっていく。
夕方、定時で会社を出た悠真は、まっすぐアパートに戻った。
ベランダで焚き火を起こし、連休中に持ち帰った銀葉草を少し入れてお茶を淹れた。
香りの導きが働き、銀葉草の爽やかさが、現代の夜風の中でより鮮明に感じられた。
焚き火を見つめながら、悠真は静かに呟いた。
「俺は……本気で考えてる。
あの森に、移住したいと……」
その言葉を口に出した瞬間、胸の奥が熱くなった。
霧影兎の心の声が、ふと蘇る。
『まってる……
ずっと、まってる……
だいすき……』
悠真は目を閉じた。
4日間の思い出が、鮮やかな映像のように頭の中を流れる。
炎鱒と森守鶏の串焼き、星蜜果のキャラメル焼き、湖畔の朝粥……
そして、霧影兎が膝の上で丸くなっていた温もり。
「でも、まだ……決められない」
移住したいという想いと、現代を捨てられないという現実が、胸の中でせめぎ合っていた。
焚き火の炎が、静かに揺れている。
その炎は、現代のベランダでも、異世界の湖畔でも、同じように優しく悠真を照らしてくれていた。
夜が更けても、悠真は焚き火の側を離れなかった。
マグカップを両手で包みながら、静かに考え続けた。
この二重生活を続けながら、いつか本気で決断する日が来るのかもしれない。
その日まで、焚き火は俺の心を、静かに灯し続けてくれるだろう。
秘密の焚き火は、今日も俺の心を深く、優しく照らしてくれている。
そして、異世界の森が、俺を静かに呼び続けている。
(第32話 終わり)




