第1話 疲労MAXの夜、焚き火が揺れた
俺の名前は佐藤 悠真。三十一歳、独身。都内のIT企業でシステムエンジニアをやっている。
残業は当たり前、上司の無茶振りは日常、休日出勤も珍しくない。
「もう限界だ……」と心の中で何百回呟いたかわからない。
今日も終電を逃し、タクシーでアパートに戻ったのは午前二時。
シャワーを浴びてベッドに倒れ込んだが、目が冴えて眠れない。
スマホの画面に映るのは、明日のスケジュール。午前九時からの緊急ミーティング。
「……キャンプ、行こう」
決めた瞬間、体が少し軽くなった。
俺は週末にしか行けないソロキャンパーだ。
道具は全部揃っている。車に積みっぱなしのテント、焚き火台、寝袋、クッカーセット。
明日の仕事は有休をぶち込む。もうどうでもいい。
翌朝、俺は愛車の軽自動車に荷物を詰め込み、いつもの山奥のキャンプ場へと向かった。
ここは予約不要の無料サイト。平日はほぼ貸し切り状態だ。
到着したのは午後三時。紅葉が始まったばかりの雑木林に、誰もいない。
いつもの手順で設営を始めた。
まずはグランドシートを敷き、ソロ用ドームテントを立てる。
ペグを打ち込み、ロープを張り、フライシートをかける。
次に焚き火台を設置。
持ってきた薪は、ホームセンターで買った広葉樹の割り木。
着火剤を少し使い、ライターで火をつける。
パチパチと音を立てて火が育っていく。
俺は焚き火台の前に座り、クーラーボックスから缶ビールを取り出した。
プルタブを開ける音が、森に響く。
「はあ……」
一口飲むと、肩の力が抜けた。
スマホをチェックする。会社からの未読LINEが十七件。
既読スルーした。今日はオフだ。
夕方五時。空がオレンジに染まり始めた。
俺はクッカーを使ってキャンプ飯の準備を始めた。
メニューはシンプル。
厚切りベーコンと野菜のホイル焼き、
そしてインスタ映えを狙った「ガーリックバターライス」。
アルミホイルにベーコン、じゃがいも、にんじん、玉ねぎを乗せ、塩胡椒とバターをたっぷり。
もう一つのクッカーでは、ご飯を炊きながらにんにくをオリーブオイルで炒める。
香りが立ち上ると、腹が鳴った。
火加減を調整しながら、スマホで写真を撮る。
焚き火の炎をバックにホイル包みを並べ、斜め45度のアングルで撮影。
自然光がちょうどいい角度で入り、湯気と焦げ目が立体的に浮かび上がる。
フィルターは軽くかけて「#ソロキャンプ #キャンプ飯 #焚き火」。
投稿する前に、もう一口ビール。
「……今日も疲れてるな、俺」
心が重い。
プロジェクトの納期は来週。
後輩は辞めたいと言い、上司は「君が頑張れば大丈夫だろ」と笑う。
給料は上がらない。休みは減る一方。
この生活があと何年続くのかと思うと、胸が苦しくなる。
焚き火が大きくなった。
薪を追加し、炎が勢いよく揺れる。
煙が立ち上り、星空の下に溶けていく。
俺は無心で炎を見つめた。
パチパチという音だけが聞こえる。
その瞬間——
焚き火の炎が、突然、青白く変わった。
煙が渦を巻き、俺の目の前に円形の光の門が浮かび上がる。
大きさは直径二メートルくらい。
向こう側は……森?
でも、ここと同じ雑木林じゃない。
木々の形が違う。葉の色が深い緑で、夜なのに微かに光っている。
「……は?」
俺は立ち上がった。
心臓が早鐘のように鳴る。
疲労がピークに達した今、頭がぼんやりしている。
夢か? 幻覚か?
でも、焚き火の熱さは本物だ。
スマホを握ったまま、ゆっくりと光の門に近づく。
門の向こうから、冷たい夜風が吹いてきた。
星が、ここと比べものにならないほど綺麗だ。
天の川がはっきり見える。
空気も違う。澄んでいて、甘い草の匂いがする。
俺は振り返った。
自分のテント、焚き火台、クーラーボックスがちゃんとそこにある。
現代のキャンプサイトは変わらない。
「……行ってみるか」
疲れた心が、そう囁いた。
もう何も考えたくない。
ただ、静かな場所で休みたい。
一歩、踏み出した。
体が光に包まれる感覚。
次の瞬間、俺は向こう側の森の中に立っていた。
足元は柔らかい落ち葉。
空気は冷たく、でも心地いい。
後ろを振り返ると、光の門がまだそこに揺らめいている。
門の向こうには、自分の焚き火が見える。
「これ……夢じゃない」
スマホの画面を確認する。
電波はゼロ。時間は現代と同じ。
俺は深呼吸した。
肺に満ちる新鮮な空気が、胸の奥の澱を溶かしていくような気がした。
門をくぐって、元の焚き火のところに戻ってみる。
問題なく戻れた。
逆に、異世界側から門をくぐると、現代のキャンプサイトに戻る。
「……秘密、だな」
誰にも言えない。
言ったら、間違いなく会社に連絡が行くか、研究機関に連れていかれる。
これは、俺だけの逃げ場。
俺は再び異世界側へ渡った。
焚き火台ごと持っていくことはできないが、ランタンと小型のクッカーは持てる。
門の近くに簡易シートを敷き、座った。
星空が、圧倒的に美しい。
俺はスマホを構え、慎重に撮影を始めた。
空の色は少し加工して「日本の秘境キャンプ場です」と説明すればバレないはず。
木々はぼかして、生き物の気配は絶対に入れない。
一枚撮って、インスタに下書き保存。
キャプションを考えながら、微笑みがこぼれた。
「疲れたら、ここに来ればいいんだ……」
焚き火の炎が、優しく揺れる。
現代のストレスが、星空の下で少しずつ溶けていく。
心が、久しぶりに軽くなった。
その夜、俺は異世界の森で初めてのソロキャンプを満喫した。
持ってきたベーコンを焼き、ガーリックバターライスを食べた。
味は、現代のそれより何倍も美味しく感じた。
朝が来るまで、門は消えなかった。
心が少しリセットされた頃、自然と門が薄れ、元のキャンプ場に戻された。
俺はテントの中で目を覚ました。
焚き火の灰は冷たく、朝の陽が差し込んでいる。
スマホには、昨夜の下書きが残っている。
「……投稿、してみるか」
軽く加工した星空の写真。
「#秘境キャンプ #夜空がすごい」
フォロワーはまだ少ないけど、いいねが少しずつついていく。
俺は微笑んだ。
これは、俺だけの秘密。
現代に疲れた夜だけ開く、特別なポータル。
仕事のLINEがまた届いていたが、今日はもう少し、この余韻に浸ることにした。
(第1話 終わり)




