2.エリザベート・ダレンス伯爵夫人
突然の出産と気絶から数週間が過ぎた。
どうやら先の出産は相当な難産だったようで、身体のダメージが中々癒えず、私は屋敷の使用人らによる献身的なケアを受けながら過ごした。
人体の回復力とは凄いもので、あれだけ膨らんだり裂けたりしていた諸々はすっかり元に戻っていた。元に、という表現は少し違和感があるが。
さておき個人的な感覚で言えば肉体よりも精神的なダメージの方が大きかった私だが、それも幾分か落ち着き、冷静に自分の状況を確認する余裕も出来た。
「と言っても、訳分かんない状態ってのは変わらないんだけど」
まず、どうやら私には侯爵令嬢「エリザベート・ダレンス」であるらしい。
と、言うよりはエリザベートが私、朝倉杏奈としての前世の記憶を思い出したと言うべきか。
出産の立ち合いをしたお抱えの医者(名はヘレナと言う)曰く、出産時に一度、私は痛みで意識を失ったらしい。後々になって思えばそれが記憶を思い出すきっかけとなったのだろう。
前世に、生まれ変わり。異世界、というのだっただろうか。映画やネットの広告でそんなものを見たことがあるような気がするが、まさか自分が当事者となるとは驚きだ。
出産時は混乱していたが、冷静になってみればエリザベートとしての記憶や再認に問題は無い。
思い出したばかりだからか、自認としては事故で死んだ杏奈としての面が強いようだ。なので、私が今置かれている状況は前世とのギャップが凄くて正直困惑する。
三十一歳で生き遅れていた杏奈と違い、エリザベート・ダレンスは若干十七歳。そして夫、アドリアン・ダレンス侯爵とは十八歳もの歳の差婚である。
ちなみに出産の時、訳も分からず伸ばした手を取ってくれたナイスミドルが夫、アドリアンだ。
正直あの顔の良さに助けられて産めたのだと思う。知らんけど。
しかし。夫婦ではあるが、エリザベートとしては夫に複雑な思いがあったようだ。
一つは、アドリアンとの結婚が完全な政略結婚であったことだ。
この国、ルミエール王国内で鉱山と農地を押さえるエリザベートの実家は、更なる躍進のため中央貴族社会での発言権を欲していた。
一方、ダレンス侯爵家は次期当主が未婚で、跡継ぎと家の立て直しに確かな実利を求めていた。
互いの利害は一致し、エリザベートは実家から差し出された形で嫁ぐ。――社交界の言葉で言えば「出荷」された。
また妊娠時期も問題であった。祝言が済むや否や懐妊が発覚し、それが公にされると、たちまち悪意が無形の刃となって人々の口端から発せられ、エリザベートの心中に確かな傷を刻んでいった。
「できちゃったから慌てて式を挙げたんでしょう?」
「侯爵家も落ちたものね。金と腹を抱き合わせにするなんて」
「田舎の鉱山娘に、年上の当主が釣られただけよ。哀れだこと」
それらの心ない言葉を発した者の中には、エリザベートの旧友も含まれていたのだから救いがない。
もう一つはアドリアンとのコミュニケーションの難である。
彼の私生活は普段から多忙を極め、屋敷に戻らないことも多く、顔を合わせる機会はごく限られる。
また、アドリアン自身寡黙で表情に乏しく、決して多くを語らない人物であったことも要因だ。結婚から一年弱の間で交わされた会話の数は期間の長さからすれば微々たるものだ。
その会話も必要最低限なものだけで、非常に淡泊な内容である。
彼もまた、私を一族存続の為の胎だとしか思っていないのだろうか。
決して冷遇された訳でも、手荒く扱われた訳でも無い、が。確かな不安と鬱屈がエリザベートの中に蓄積していった。
ただ、それも――
思考の海に漂っていたところを遮るように、コン、コンと緩やかなリズムのノックの音が自室の扉を鳴らす。
「私だ」
固さが伝わる調子で発せられた端的な言葉は、アドリアンのものだ。
どうぞ、と促すと整えられたブラウンの髪をわずかに揺らして、夫、アドリアン・ダレンスが静かに入室した。
家紋の入った濃紺のチュニックを羽織り、白いシャツの襟元をピシっと立てている。その几帳面さは実に彼らしい。
私はベッドの端に腰かけたまま、静かに扉を閉める夫の様子を眺めている。
最初は立ち上がって迎えようとしたのだが、「無理はしなくていい」と止められてからはこのスタイルだ。
「ごきげんよう旦那様。今日も来てくださったのですね」
「うむ、大事は無いか?」
「ええ、ヘレナがそろそろ動いても問題ないと」
そうか、とアドリアンはベッドの隅の椅子に腰かける。
彼は出産からここ数週間の間、多忙にもかかわらず、毎日時間を作って見舞いに訪れてくれている。
これはエリザベートの記憶の中の彼であれば、まずありえない事であった。
切っ掛けは、やはりあの地獄の出産の日だったのだと思う。
陣痛の痛みに意識を引き裂かれ、訳も分からず手を伸ばした私の手を――彼は、取ってくれた。
その掌が、私の手に触れた瞬間。
奇妙なことに、苦痛が軽くなると共に、胸の底に溜まっていたものだけがすうっと引いていった感覚があった。
今思えば、それが今までエリザベートが抱えていた彼への不信と不安の重さだったのかもしれない。
私の目を真っすぐに捉えた、吸い込まれるような潤んだ鷲色の瞳。
今にして思えば、エリザベートもそこで初めて、ちゃんと彼の顔を見たのだ。
力強く握られた手に、僅かに揺れる瞳。
彼もまた、エリザベートの身を案じて、戦っていた。
彼の手から、その熱から、震えから、完全な打算だけで動く者からは感じられないぬくもりを、確かに私は感じたのだ。
術後も、彼と何度かやり取りをして分かったことがある。
彼は、不器用なのだ。
普段の無骨な態度も、十六年もの歳の差のこともありエリザベートは壁を感じ、見限られていると思ったかもしれないが、前世であればほぼ同年代の私であればまた違う見方が出来る。
彼もまた、政略結婚に苦しむエリザベートの苦しみをどう助けられるかと、考えていたのだろう。
政略結婚。十八年差。社交界の嘲笑。妻は地方から来たうら若い十七の娘で、どうしても割れ物を扱うような態度になってしまう。
自分は当主としての責務を背負う三十五歳。外から見れば「釣り合わない男」だ。エリザベートの不安は彼女だけでなく、アドリアン自身にも突き刺さる。
積極的に自ら行動を起こすことも出来ず、ただ婚姻に出産と、夫婦としての表向きの実績だけが積み重なっていく。
いつでも彼は答えを探し続け、そして答えは出なかったのだ。その結果としての出力が更なる寡黙であり、無表情であり、沈黙というのは、どれだけ不器用なのだと思うが。
だが今は、違う。彼は、求めれば答えてくれる人だと分かったからだ。
答えるのが上手い訳ではない。甘い言葉をかけるでも、慰めを並べるでもない。
けれど、必要なものは用意するし、聞けば判断を返すし、困っていると分かれば手を貸してくれる。
今まではそれすら出来なかった、お互いに、何も言えなかったから。
自分から欲しいと言うのが苦手で、頼ってほしいとも言えなくて、だから何も言わない。
何も言わないから、こちらも「何もない」と誤解する。
―――そんな悪循環。
「旦那様、またお願いしても?」
「うむ」
だから、こうした要求をするのは、今までの埋め合わせというか、うん。
アドリアンは静かに靴を脱ぎ、ベルトを緩めると天蓋付きのベッドの奥に両足を曲げて腰を下ろす。
(いや、だってさ)
アドリアンが膝を軽く叩いて私に来るように促すと、私は全てを委ねるようにゆっくりと、彼の膝に頭を乗せる。
濃紺の布越しでも分かる、体温。しっかりとした太腿の張り。
そして顔を上に向けると、ベッド天蓋と、無骨ながらも整った顔立ちが視界いっぱいに広がった。
(……本当に、顔が良いから)
正直に言おう。『朝倉杏奈』の好みに、アドリアン・ダレンスはドストライクだったのだ。
彫りの深い無骨な顔に、大人の渋さを感じさせる泰然とした雰囲気。さらに性格は実直で誠実。
更にはあらゆる所作に気品を感じさせ、成熟した色気を振りまくのだ。それが貴族教育のたまものか、彼自身の性格によるものか、恐らくは後者だ。
……本当に前世の私とそう変わらない年齢なのだろうか?私、出せないぞ。ダンディオーラ。
お貴族様なのだから、他にも妻や妾がいるのかと思いきや、今のところの話だが私が独占出来ているというのもいい。
そして、言えばこんな風にあまえさせてもくれるのだ。これ以上何を望むというのか。
この屋敷に努める従者達も、何人かは既に彼の虜になっており、密かにアプローチを掛けているのも無理からぬ話であろう。あげないけどね。
(私からすれば、死んだと思ったら、突然の別世界で、突然の出産で、正直、参っていたのだ。だから)
「……旦那様ぁ」
両腕を彼の背に回して横向きになり、侍女たちにより手入れの行き届いた緋色の長髪を無防備に晒す。
「うむ」
低く静謐を感じさせる声色が短く答えると、大きな掌が、髪を乱さない程度に、ゆっくりと頭を撫でる。
こちらを気遣うのが分かる、細やかで優しい動き。
その感覚に身を委ねると、首筋が熱を持って痺れが走り、溶けるようだ、と感じる。
……正直、淑女としてもアウトで、三十路過ぎのOLとしてもキツいと思うけど。
(ちょっとくらい、ご褒美があっても罰は当たらないであろう)
まだ、訳の分からないことだらけだけど。
今この瞬間においては、異世界最高と思えるのであった。
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