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1.悪役令嬢、誕生

「あの……今日は本当にすみませんでした、朝倉先輩……!」


 薄い暖色灯が光るチェーン店の地下居酒屋で、スーツ姿の男女が黄金色に輝くジョッキを挟んで二人用のテーブルで対面している。


「あはは。もういいって」


 笑いながら朝倉と呼ばれた女性は手に持ったジョッキを傾け、喉を鳴らして中身を胃に流し込む。

 一息にジョッキの中身を半分空にすると、軽い口調で続けた。


「ほーら、いつまでも辛気臭い声出してないでキミも飲みなよ。」

「でも……先輩にまで頭下げさせちゃって、俺……」


 しかし目の前に映る部下の後頭部を肴に飲み続ける上司を前に、対面に座る彼女の部下である男は頭を上げない。

 居酒屋の木目のテーブルに最初の謝罪の角度のまま額をつけ、手元ではおしぼりが握りつぶされて皺だらけになっている。

 その部下の様子になんだか叱られた子犬みたいだなぁ、と大して気にした様子もなく、彼の上司、朝倉杏奈は手に持ったジョッキを傾けその中身を豪快に飲み干す。


「すみませーん。生、もう二つ。あと……唐揚げ食べるよね?あと、ポテトフライも」


 空になったジョッキをテーブルに置き、氷がからんと乾いた音を立てると同時に、杏奈は近くの店員を呼び止めて追加を注文していた。

 流石大手チェーン店。十数秒もすれば追加されたビールを両手で受け取ると、その片方を部下の前に差し出す。


「だから気にすんなって。アタシ、頭下げるの慣れてるし。キミも営業マンなんだから、この先、頭下げる機会なんて死ぬほどあるのよ?だから、そーいうのはそれまで取っときなって。

 ほら、せっかくの花金なんだから仕事なんか忘れて飲んで食え。胃が空っぽの時にする反省会なんてしんどいだけだから。これ、社会人の先輩としてのアドバイス」


「そういうものですか」


 そういうものよ、と差し出されたジョッキに部下の男はようやく頭を上げると、それを受け取り、差し出されたジョッキを揺らし形式的な乾杯をする。

 言いながら受け取ったばかりのジョッキを一息に半分以上空にする上司の姿に、部下は毒気を抜かれたようだった。


「……先輩、美味そうに飲みますよね」

「そりゃ、美味しいからね。君は美味しくないの?」

「実はあまり得意では……」

「へー、もったいない。ま、無理して飲むこたないとは思うけどね。良ければ美味しく飲むコツ教えたげるよ」

「コツ、ですか?」

「そ、コツ」


 実践してみよう、といつの間にか空になったジョッキをこれまたいつの間にか注文した満杯のジョッキと交換する杏奈は、自分の喉を指さしながらジョッキを掲げる。


「いいか、その日一日にあった嫌な事を思い出してこの辺りに溜めるんだ、それを……」


 黄金色の液体を流し込む。目の前に部下がいるにもかかわらず大きく喉を動かし、ごっごっと大きく音をを鳴らす。

 その堂々たる豪快な飲みっぷりに部下も何か感じ入るものがあったのか。大きく深呼吸をしたのち、同じように大きくジョッキを傾け、喉仏を上下させて中身を流し込む。


「……なんとなく、分かった気がします」


 でしょ、上司が相槌を返すとお互いに破顔する。

 それをきっかけに幾分か表情も安らぎ、仕事以外の話をするようになった部下を前に、杏奈は内心でほっと一息つく。

 目の前の新人は元来真面目で優秀な男なのである。が、それ故に一度の失敗が堪えてしまったのであろう。

 時代錯誤と言われようが、硬くなった心を解すのにジョッキに注がれた黄金色の液体は実に都合が良い。

 近年の風潮とは少し異なるのであろうが、二十世紀以上にわたって人類の友であったのだから、たった十数年で手が切れる訳もないのだ。

 きっと昔の人も、それこそ外国の偉いお姫様だろうと、同じように酒を愛していたに決まっているのだから、と一人でに納得すると、再びジョッキを傾けた。

 それから少し、互いに仕事の話もそこそこに雑談を交える。

 その頃には部下の顔はすっかり火照り、口調も砕けている。

 リラックス出来ているようで何よりだ、杏奈は内心で思うと話題を振る。


「てかキミさ、趣味なに。仕事以外」

「趣味……いや、最近全然……」

「最近じゃなくて、元々。好きなもん」


 部下は少しだけ視線を彷徨わせて、テーブルの端の醤油差しを見てから、やっと口を開く。


「前は部活一筋だったんですけど。大学行ってからはアニメとか……ゲーム、っすかね」


「ほー。何やるの」

「えー……FPSとか、分かります?こう、互いにチームを組んで銃で打ち合う」

「あ、君。私のことをゲームも分からない年寄りだと思ってないか?」

「い、いやあそんなことは……先輩ゲームとかしなさそうだし」

「まあその通りなんだけど」

「やっぱそうなんじゃないすか!」


 短い笑いが二つ重なる。

 小さく振動する机の上でジョッキの中の氷が崩れ小さく鳴った。

 その音を合図にしたように、杏奈がふと思い出した顔で言う。


「あ、でも昔アレやったことある、えっと、乙女ゲーってやつ」

「乙女ゲー?王子とか出てきて、甘いこと言って……」

「そうそれ、王子様出た出た。」

「先輩が?」

「言うねぇ」

「冗談ですよ」


 部下は笑いながら、ジョッキを持ち上げて、中身が空になっている事実に気づき一瞬悲し気な表情を浮かべる。

 やっぱり犬みたいな奴だな、と眺める上司の視線には気づいていないようで、タッチパネルから注文し、話題を戻す。


「で、何てゲームなんです?俺の妹もゲーマーだったんで、分かるかも知れません」

「んーそれがね」

「はい」


 考え込むように杏奈は天井を見上げる。

 薄い暖色灯がぼんやり滲んで、視界の端がゆらぐ。

 数秒そうした後に後輩に視線を戻すと、指先でテーブルを二回、軽く叩いてから言った。

 


「さっぱり思い出せない」


◇◆◇◆◇◆


 地下居酒屋を出て雑踏へ出ると、夜も深いというのに絢爛な光景が目の前に広がる。

 ネオン、看板、タクシーのヘッドライト。歩行者の足音。

 誰かの笑い声。誰かの舌打ち。誰かの電話の声。

 都会の夜の忙しなさは、いつしか私の中で当たり前になっていた。

 私のペースに合わせて飲み潰れてしまった新人は一足先にタクシーに乗せて自宅まで送った。

 あの様子では、明日は地獄の二日酔いでのたうち回ることになるだろうなと小さく笑う。

 幸いにも今日は花金だ。優秀な彼であればその期間でセルフケアをして、来週会うときには復活しているであろう。

 ともすれば今日のおせっかいも不要だったかもしれない。しかし、全くの無駄であったとは思わない。

 人間、どうしたって鬱憤や不満というものが溜まるもので、それを吐き出す口が無ければパンクしてしまうものだ。

 そんな時、人間は面白いほど空っぽになってしまうのだと私は知っている。

 ああ、駄目だ。最近、私の頭はふとした拍子に勝手に昔の事なんかを思い出そうとしてしまう。

 これが歳を取るということなんだろうな、と胸ポケットから愛用の嗜好品を取り出そうとして、その中身が無いことに気づく。


「しまった……」


 ひとりごちてもそれで中身が補充される訳も無く。コンビニにでも立ち寄ろうとして、自分の懐事情を思い出して顔をしかめる。

 先刻の飲み代は昏睡寸前の後輩によるのなけなしの一押しで割り勘となった。若者らしく素直に奢られなさい、とも思ったが。

 今時はコンプライアンスだのなんだのという考えが浸透しているためなのだろうか。いや、おそらくは彼自身の実直な性格によるものだろう。

 それは良い……が、タクシーの運転手へ握らせた運賃が誤算だった。会計中にノックダウンしたため失敬した免許証に記された部下の住所への運賃は、財布の中の紙幣を総動員する必要があった。手痛い出費だ。

 後日こちらから請求するつもりは無い。彼なら申し訳なく返そうとするだろうが、面倒なので忘れてくれれば良いが……とまで考えたところで目の前のコンビニへ入る誘惑を振り切り、まっすぐ帰路へ足を進める。


「ま、これも健康のため、健康のため……っと」


 態々貯金を下ろしてまで執着するものでもなし、寧ろこれを機に一ヵ月も禁煙すれば出費も埋め合わせられるし、次の健康診断の結果も少しはマシになるだろう。いいこと尽くめだ。

 ちなみに電子決済の類は一切持っていない。アレは駄目だ、自制が効かなくなる。初めて電子決済に触れた月末に見た口座引き落としの額面は、未だにトラウマになっている。

 兎にも角にも都会で生活するというのは金がかかる。十数年ほど前、身一つで地元を離れた時からその苦しさは一向に改善される見込みはない。

 歳を重ね、実績を積み、立場が上がれば別種の重みが増えるばかりで、それに応じて出費も結局増えるのだからちょっとやそっとの昇進では辻褄合わせがやっとだ。


「……あー五千兆円降ってこないかなー」


 せんもないことを考えて気持ちが落ちてしまった。存外に自分も酒が回っていたようだ。

 息を吐き、肩を軽く回すとスーツの襟元に残った酒の匂いと、ニンニク臭が微かに鼻をくすぐる。

 ふと、商業ビルに備え付けられた電子看板が目端に入る。

 整った顔立ちの男女が横並びに描かれ、薔薇の花びらが舞って、甘ったるい台詞が字幕で踊る。昨今どこにでもあるゲームの広告だ。

 普段であれば全く興味のないはずのものだが、何か引っかかる。


「あ、コレだ」


 『王立貴族学園セイクリッド・アカデミアⅤ ~炎の聖女と不死鳥の騎士団~』


 独特のフォントで彩られたタイトルから読み取れる情報が、先ほどの居酒屋から私の思考を覆っていた霧を晴らしてくれた。

 

「そうそう、セイアカだセイアカ。ハルがーーー」


 と連想されてつい口から出た名に、思考が一瞬にして過去に遡る。

 ハル。遠山春菜は高校時代の私の数少ない友人である。

 アニメやゲーム、特にイケメンが出るものに目が無く、全く知識の無い私に良くその内容を一方的に語ってきたものだ。

 その殆どは右から左へ抜けていったが、確かこのセイクリッド・アカデミアというゲームについては特に熱心に語っていた。

 その熱量たるや、わざわざ小型のゲーム機ごと私に貸してきたほどだ。

 最も、その内容は殆ど覚えていないが。幾分か得心がいった。と同時に再び郷愁の念とも言うべき懐かしさが喉をくすぐる。

 もう随分と顔を合わせていない。意識して会おうとしなければ、地元に残った彼女とは接点がない。

 ……偶には、連絡をしてみるか。

 そう思って端末を指で操作し彼女の連絡先を探しながら駅前のロータリーを抜けると、コンビニの前で学生が声を弾けさせて騒ぐ声が、風に乗って耳に入る。


(あー……若いなあ)


 胸の奥がちくりとする。羨ましいとか、戻りたいとか、そういう単純な感情じゃない。あの頃の自分を思い出すだけで、妙に背中がむず痒い。

 どうやら本格的に酔いが回っているようだ。

 物思いに耽りながら歩いている間に、いつの間にか大通りを抜けていた。目の前の交差点の信号が赤から青へ切り替わり、歩行者がまばらに歩き出す。

 私もその流れに合わせて横断歩道へ足を踏み出しかけて――ふと、異音に気づいた。

 ごう、という音の先。車道の向こう側から、トラックが突っ込んでくるのが見えた。

 ヘッドライトが眩しく距離感が狂う。減速の気配が無い。信号は確かに歩行者が青なのに、車が止まるべきタイミングなのに、あいつは止まる気がない。


 酒が抜ける、という表現はたぶんこういう時に使うんだろう。

 背中が冷たくなる。心臓が一拍遅れて跳ね、全身に血が回る感覚と同時に、一瞬の後に起こる最悪の結果を脳が計算する。


 「駄目だ!!!」


 咄嗟に発せられた私の声に振り返った、目の前を歩く二人組の肩を掴んで引き寄せ、乱暴に歩道の方に放る。


「おい……!」


 後ろから抗議と思われる苛立ちを含んだ声が聞こえたが、それどころではない。

 私は二人組を引き寄せた勢いのまま、横断歩道へ駆け出していた。

 青信号を信じて、まっすぐ前に進んでいる小さな人影は、イヤホンでもしているのだろう。先ほどの声に反応する様子もない。

 ごうという音が間近に近づいているのが分かる。

 出来たのは、駆け出した勢いのまま、人影が背負う青い鞄を突き飛ばすことだけ。

 突き飛ばされた背中から、驚愕に歪む表情が視界に映る。

 手のひらから驚くほど軽い感触を受けた瞬間。

 重さを感じる衝撃、次に身体が無くなったような浮ついた感覚、壊れたテレビのように目まぐるしく切り替わる光景がジェットコースターのように押し寄せ、私の意識を刈り取った。


◇◆◇◆◇◆


(……あれ)


 不意に、意識が覚醒する。

 瞼の裏に張り付いた闇が、薄くなったり濃くなったりを繰り返している。古い蛍光灯みたいに点滅して、まるでざらついた砂嵐だ。

 それなのに、意識だけは妙にハッキリとしている。

 耳が遅れて働き始める。

 誰かの叫び声。怒鳴り声。足音、サイレン。

 音の方向に視線を動かそうとしても眼球が定点カメラのように固定されて動かない。ふと目に映る光景の狭さに違和感を覚えると、単に視界が半分になっているということに気づいた。

 指先にすらか全く力が入らない。息が吸えない。口の中には気道を塞ぐように生温い熱量を持った何かが泥のように詰まっている。


(これは……)


 そうして、ゆっくりと、自分が完全に手遅れな状態だと言うことを自覚する。

 誰も近寄らないところを見ると、さぞ今の私は酷い状態になっているのだろう。

 数少ない稼働部位である耳も目も、段々とノイズや虫食いが走って役立たずになっていく。


 「――――、――――」


 ノイズが酷い。どうやら耳の方が先に駄目になってしまったようだ。

 残った視界もそうなっては困るので、抵抗するように満身の力を込めてぼやけた眼球に力を入れると、壊れていく視界の端に青い鞄と小さな背中が見えた。

 誰かに抱き上げられて、ばたばたと手足を動かしている。泣いている。たぶん大声で。情けないくらいに、元気に。


(……ああ)


 胸の奥が、すとんと落ちた。


(無事か)


 それで、終わり。僅かに強張っていた感覚が抜けて、わたしはそこで諦めてしまった。

 力を抜くと先ほどよりも視界が鮮明になった気がした。どうやら的外れな努力をしていたらしい。

 何故だか、それがおかしくて笑えてしまった。きっと脳みそがもう仕事を放棄しかけているのだろう。

 開けた視界の端に、画面の割れたスマホが転がっているのが見えた。

 わたしとは違って本体は無事のようだ。画面はまだ点いていて、何かの文字がぼやけて見える。


(……あ)



 『ハル』



 液晶に映る、連絡しようとして、もうそれすらもできなくなった彼女の名前を見て、急に寂しくなった。

 先程コンビニ前に居座る学生を見て背中がむず痒かったのと同じ種類の、どうしようもない後悔。


(ハル、会いたかったな)


 寒い。

 寒いのに、その感覚が遠い。自分のものじゃないみたいに他人事だ。

 それなのに耳元のノイズが変わらず酷い、聴力は最後まで生きるとは聞いたことがあるが、最期までノイズまみれなら別にいらなかったな、と思う。

 もう絵の具を溶かしたようにしか見えない視界を閉じ、思考の海に潜る。

 これで血筋が途絶えてしまうことを申し訳なく思う。ここ最近の記憶にある母の口癖は「孫の顔を見せろ」だった。

 うっとおしく思っていたが、いざこんな状況になると後に残る物が何も無いことが悲しくなる。

 かといって、自分が子供を持つなんてイメージはついぞ湧かなかったが。


(ああ、でも)


 先ほど自分が突き飛ばした子供の、一瞬映った顔を思い浮かべながら思う。



(……かわいい子だったな。あんな子だったら私も――)






 ――――その願い, 聞き届けた。






(……は?)


 薄くなる自我に、ふいに別の声が混じったような気がした。

 それを何事かと考える余地もなく、私の思考は急激に失われていく。

 痛みも、熱も、声も景色も、全てが遠くに。

 こうして朝倉杏奈の31年の人生は、あっけなく幕を閉じたのであった。



◇◆◇◆◇◆






















 いや、やっぱ痛いな?





 どれほどの時間が経ったのか。深く沈み失われた思っていた意識が、身体の感覚と共に急激に浮上する。

 感覚というか、主には痛みである。

 ……まさか、あの状況から助かったのだろうか?

 必死に見ないふりをしていたが、あの時の私、顎や足が身体からお別れして、内臓とかないなって、寧ろもう助からない方が良いとさえ思う状態だったと思うのだけど。

 急激に解凍され始めた意識が一気に冷え始める。そりゃあ死にたくは無かったが、それとこれとは話が別――――。


「奥様!気をしっかり持ってください!!」

「痛あ!?」


 パン、という子気味の良い音と共に横っ面を叩かれる感覚で目を開ける。

 見慣れない天井には、細かな装飾が施された大きなシャンデリアが添えられていた。

 そればかりではない、視界に入る装飾、石のような壁、家具、そして自分を取り囲む見慣れぬの服装に身を包んだ、日本人ではない、西洋風の出で立ちの者ども。

 傍らで声をかけるのは……医者、なのだろうか?

 視界に飛び込む全ての光景があまりに脈絡がなく、眩暈を覚える。


「な、何がどうなって……っ!?」


 瞬間、ぐ、と腹の底から身体がひっくり返るような圧がこみ上げ、内側から握り潰されるような、痛みが。


「ひっ……痛だああぁあああ!!!!??」


 まるで小娘のように甲高い、まるで自分の声とは思えない叫びが自分の耳に刺さる。

 骨が軋む、肉が裂ける、内臓が雑巾みたいに絞られる。どう表現しようもない。なにせ生まれて初めて感じる痛みなのだ。


「奥様、お気を確かに!もう少し、もう少しです!」

「もう、少しって、何がだ, よぉ……!」


 あまりの痛みに、つい傍らの給仕姿の女性に荒い口調で話しかけてしまう。

 だが、その失礼を気に留めた様子もなく、女性はこちらに笑顔を向けて言い放つ。

 


「大丈夫、お子様は元気に生まれてきていますよ!!!」





「は?」



 …………あ, 痛。


「う゛ぉ゛ぁ゛ぉ゛ぁ゛っ!!!!!」

「奥様あぁ!?」

「エリザベート様ぁ!?」


 一瞬呆けた意識が強制的に現実に引き戻される。

 完全に虚を突かれた口からは、もう本当にはしたない声が漏れていたが、しかしそれほど先の医者らしき女性の発言は衝撃的だったのだ。

(奥様、奥様って何?誰が?まさか私が?しかも――)

 エリザベート様、お子様は元気に生まれてきています、ときた。

 つまり、事故にあった私は、なんやかんやで今は奥様で、エリザベート様で、出産中という事らしい。

 

 

 …………?



「次の波がきますよ、奥様!せーのっ!」

「あっ、はい、せーの……待って何を」


 言ったそばから来た。波が。せーので何するかは聞きそびれた。

 咄嗟に腹に力を入れて備えると、力を入れた分さっきの数百億倍くらいの痛みが来た。

 凄い声が出た。

 自分でびっくりした。文字媒体で表現出来ないような声が堂々と出た。

 やばい。ほんとにやばい。死んだんじゃないか?

 いや死んだと思うんだけど。


「呆けていては駄目です!もう頭が出ています!もう少し!」

「奥様!いきんでください!」


 あ、このふわふわ感はさっき撥ねられた時に似てるな、などと呆けていると傍らの医師らしき女からまた声がかかり、なんとか意識を戻す。

 訳が分からないまま、身体が勝手に「ここで踏ん張らないと終わる」と判断して、私はそれに従った。

 それからは何度か似たような波とやり取りを繰り返しながら過ぎた。

 頭が出ているとは何だったのか。もはや時間の感覚も曖昧だ。

 誰かが水を飲ませようとするも、水差しが唇に当たって、口内以外の口回りや首筋を濡らす。

 口を開かなかった私が原因だがそれどころじゃないのだ。

 強いお腹の痛み(下痢腹をマイルドにした表現)が永遠と続くような状況に、私の体力と気力は完全に限界を迎えていた。


「誰か……」


 もう限界だ。

 誰でもいいから助けてほしい。

 一度生を諦めた自分がどの口でとも思うが、しんどいものはしんどいのだ。

 それが何の為の行動であったのか最早定かではないが、朦朧とする意識の中で, 私は手を伸ばしていた。

 震える指先。意味も無く空を掴む私の手を――


 何かが、あたたかいものが包んだ。

 

 それは, 大きな手のひらだった。

 節がしっかりしていて、硬い。書類をめくるより剣を握る方が似合いそうな、職人のような掌。

 

「大丈夫だ」


 頭上から低い声が短く落ちる。

 声の主の表情は分からない。無表情のようで、横一文字に硬く結ばれた口角と深く刻まれた眉間の皺とセットで、不機嫌なようにも見える。

 ただ, それでも分かることがある。

 私の手を包む手のひらから伝わる体温と、僅かな震え。

 落ち着いたブラウンの髪の下から覗く、吸い込まれるように深い鷲色の瞳が, 私の目を真っすぐに捉えて離さない。


 「……う、ん」


 返事はそれだけ。何が分かった訳でも、変わった訳でも無い。

 でも, たったそれだけのことで, 痛みも、疲れも, 和らいだ気がした。


「あ、あの」

「何だ」

「手を、握って、ください」

「分かった」


 名前も、何もかもが朧気だけど。

 この人は, 多分。本当に私を心配してくれている。

 そう思えた。

 また波が来る、痛みに私はいつの間にか繋がれていた手を強く握る。

 指先が赤く、跡が残るほど強く握っても、鷲色の瞳は揺ぎ無くこちらを捉えて微動だにしない。

 少しだけ, 跡が残って欲しい, と思うのは歳不相応でなんとも恥ずかしい。

 そして――

 ぎゃあ、と。

 小さくて、強い声が聞こえた。


「おめでとうございます奥様!元気な――」


 誰かが笑って、誰かが泣いて、誰かが「よかった」と言っている。


(訳わかんない、けど。ああ――)


 視界がぐらりと傾いた。

 シャンデリアに反射する光が線になって伸びる。


「奥様!? 奥様、しっかり――!」


 誰かが叫ぶ声が、遠くなっていく。


 (やっと, 終わった)


 そんな感想を胸に抱いて、私は急激に襲い来る睡魔に身を委ねた。

 意識が途絶えるその瞬間まで、握りしめた手の中に温もりを感じて。

はじめまして、真来奈と申します。

この度は私の処女作を閲覧頂きありがとうございました。

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