第六話 再訪
あれから数日間、私は酒居目へ行かなかった。
あの店を嫌ったわけではない。今更店主や客に怯えたわけでもない。ただ、足が向かわなかった。もやつく胸を放って毎日を消化していたので、何日空いたのかわからない。それが余計に行きづらくしていた。
それでも今日は、なんとなくあの雰囲気にのまれたいと思った。鉛のように重い心をなんとか騙していつもの暖簾をくぐると、珍しく店主が一人で酒をあおっている。香ばしい焦げの匂いが漂うカウンターの端に、湯気の立つ小さな器――骨酒。焼かれた魚の骨に熱燗を注いだ、冬の夜の静かな酒だ。
「飲むか?」
店主の一言に、鉛が消え去る。差し出される盃を迷いながらも受け取り、口に含む。じわりと苦みと香ばしさが広がった。今日は酒がよく回る。胸のもやと聞くはずのなかった言葉が吐露された。
「……人を食べたことありますか?」
店主は一拍おいて、盃を見つめたまま、静かに言った。
「あるよ」
カウンターの向こうで、酒が注がれる音がする。私は黙って酒をすすった。骨の焦げた香りが鼻に抜ける。
「美味しかったですか?」
「どうだったかな」
「今は食べないですか?」
「もう興味は無いかな」
「どうして人を襲うんですか?」
「腹が減ったからだ」
つらつらと出てくる疑問に店主は即答を返す。
「食わなきゃ生きていけない。それだけのことだよ」
「それだけなんですか?」
「それだけだ」
店主は肩をすくめた。
「人間も同じだろ。欲を抑えられない奴が、何かを壊していく。それとどこが違う」
返す言葉なく私は酒を飲み続ける。内臓がぎゅっと締め付けられられるようだった。欲を抑えられずに壊れる、その言葉が胸に深く突き刺さった。
酒を飲み干し、湯気の向こうにぼんやりとした自分の姿を見る。壊すほどに欲しいものを求める、私にそれほどの欲があるのか。
私は何のために生きているんだろう。
珍しく弱気な気になっている。静かに酒を注ぐ店主は自分の罪と向き合いながら、それでも生きている。
私は必死に他人の期待に応えようとしている。しかしそれは私の中の空白を埋めるためで、他人のためじゃない。なのにそのたびに自分がすり減っている。表向きは普通の人間の顔をして、内側は何色とも言えないどす黒い色で、誰にも自分の弱さを見せられない。強がって、笑って、時には嘘をつく。
私は欲を押し殺して生きてきた。そして挙句に、自分を見失う。
壊れているのは私なんだろう。私は今、正常になろうとしているのだ。
空の盃を傾けて、失念してしまった。別に失うほどのものは持ってはなかったのだけれど。
「疲れてる?」
「疲れてます」
ほとんど反射で答えていた。店主は優しく笑う。
「悪かったな」
「なにが?」
「木霊の件、巻き込んじまってさ」
「あんま気にしてないっすよ」
「良かった。瑞樹、もう来ないかと思ってたから。来てくれて嬉しかったんだよ……って、え?俺、なんか嫌なこと言っちゃった!?」
私は泣いていた。慌てる店主を見て可笑しくなる。人の言葉で感情が揺れるほど、私は酔っていたのか。
「ふふ……すみません、なんでもないんです」
「ほんとに? なんか気に触ったら言っていいからね。あ、取って食おうとか思ってないから!」
「……それ、冗談じゃないですよ」
「なんだよ、軽口たたけるなら大丈夫か」
今日、店内に響くのは二人の笑い声だけだった。久しぶりに酔ったので色々喋りすぎた気もするが、問題ないだろう。
次の日もまた提灯が灯るのだった。