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第五話 煙の正体

 木霊は鬼童丸を見たまま、まるで時を止められたかのように立ち尽くしていた。店内に私のかすれた咳が響く。


「棒に振ったな木霊。お前はもう出禁だ、二度とこの店の敷居を跨ぐな」


 鬼童丸は、静かに屋台の奥を指差す。そこには、いつの間にか現れた薄墨色の暖簾が揺れていた。ふだん、あそこに扉などなかったはずだ。


 木霊は一歩ずつ歩き出し、その暖簾の手前で振り返る。


「……鬼童丸。ほんとは、あなたが来るべきだったのよ、向こう側へは」


 その言葉は恨みとも愛ともつかず、ただ過去の残り火のように揺れて消えた。

 暖簾をくぐるその背に風が巻き、木霊が姿を消すと同時に、屋台を包んでいたぬるい気配が、嘘のように晴れる。

 誰もいない暖簾が、まだかすかに揺れていた。


 それを見つめていた鬼童丸の横顔は――いや、店主だ。そしてはっとしたように振り向く。


「瑞樹! 怪我は無いか?!」

「あ、でい、大丈夫……」


 私は店主の焦りように驚いてどもってしまう。


「ごめんな巻き込んで、とにかく、何もなくてよかった。お客さんを人質にとるとか、どうかしてるよ、ほんと……」

「あの」


 そのあとの言葉は結局、喉につっかえて出なかった。いや、元々続きなんてなかったのかもしれない。

 その時、カウンター席から線香のにおいがした。


「店主、その威圧はやめておきなさい。ほかの客も怯えてしまうじゃろう」

「でも翁さん、咄嗟だったからしょうがない……と言っても迷惑かけてるか。ごめんね、お客さんたち」

「うむ。あと、酌を注いでくれ」

「はいはーい」

「人間、君もいつもの席……こちらへ座れ。」


 カウンター席に、仄かに煙が渦を巻くようにして現れたのは、痩せた老人の姿をした妖怪。袴姿で、眉間に深い皺を刻んだ顔には、どこか涼やかな気品が漂っている。


「瑞樹だったか。肝が据わっておるな」

「……その声、たまに聞こえてたけど、姿を見たのは初めてだな」

「そういえばそうか。爺さん……煙翁はね、京に名を馳せてた陰陽師なんだよ」

「それも何百年前の事だったか。せっかくじゃ、酒のあてにでも(じじい)のうぬぼれ話でも聞いてくれるか」


 彼はゆるやかに杯を傾けながら、話し始める。


「儂は長く生きすぎた。いや、生きることをやめて、時に縋ったと言うべきかもしれん。人の世は腐りやすく、儂はそこに馴染めなかっただけの敗者……悔いは無いが、未だに姿を捨てた日を夢に見る。お前さんには、それが似合わんが」


 自然と煙翁の話に引き込まれていく。そしてふとその最中、煙翁がふと店主に目を向け、低く言った。


「お前もまだ“あの夜”を夢に見るか。鬼童丸」


 空気が張り詰めた。

 瑞樹は息を呑み、店主を振り向くが、彼はただ静かに杯を拭いていた。その仕草の奥に、普段とは違う、何かを閉じ込めたような静寂があった。


「なんでうちの常連は、揃ってこうも俺を茶化すのが好きかね」

「この店を開いたと聞いた時は、正気を疑った。まさか、あの“討滅”の後に、こんな場所に腰を落ち着けるとはな……。しかし意外とは言わんが」


 煙翁の語り口が過去の“戦”と“死”を匂わせるたび、店主の背後にほんのり血の匂いが滲む気がした。


「……俺のことは客の前で話すなよ、煙翁」

「気にするな。こやつは、気づいても飲み込める子だ。……そうだろう、瑞樹」


 煙翁の視線を受け、ただ小さくうなずいた。


「老いも若いも、妖も人も――時間の流れに取り残されながら、ここへ来るんだ。だからこそ、先導を担うこの店は尊い……昔はもっと不味かったんだがな。出汁が優しくなったな、店主」


 その言葉を残して、煙翁は再び煙となって消えていく。残された香りの中で、店主の横顔にほんの一瞬だけ“過去の影”を見た気がした。

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