第三話 鬼童丸
妖怪。
現実離れした単語で思考が止まっていたが、「鬼童丸……」と思わずつぶやいていた。昔なにかの本で見た、大江山の酒呑童子という鬼と人から生まれ源頼光と争ったという、どれも伝説だ。その鬼童丸が――
ぞわりと背筋に不快を感じ、視線を動かす間もなく表情が強ばった。それに気が付かない店主ではないだろう。しかし、何も言わず細めたその眼はどこか寂しげであった。その横で空狐はケタケタと笑い出す。
「やっぱり怖いか。人間は本能的に鬼を恐れるっていうのは本当だね」
「空狐。」
店主の声は低かった。微笑を保つ表情からは読めないが、凍りつくような威圧感がある。
空狐は肩をすくめ、じろりと私に視線を向けると満足げに笑った。
「さてと、私は帰るよ。今回はいいところまで行ったんじゃない?」
空狐はそう言い残すと勢いよく立ち上がり、そそくさと店を出る。今回は? まるで前回があったかのような口ぶりに疑問が残る。しかしその程度。すぐに店内は何事もなかったかのように再び活気を取り戻し、他の客たちは変わらず楽しそうに湯気の立つ蕎麦をすすっているのだ。目の前の鬼もまた、いつも通りの調子で軽口を叩き、異形の客と笑い声を交わしている。
私だけがその光景から一歩だけ後ろにずれてしまったような、奇妙な孤独を感じていた。湯気が店内に立ち込める。蕎麦の香りが体内に入り込み、大きく吐き出す。
私一人だけがとり残されている気がした。
しばらく私は呆然と店内を見渡していた。
彼が鬼だと言われても、そんなこと現実的じゃないし鬼なんて所詮空想上の生物だ。と、こんな不気味な店に入り浸っているくせに今でも思う。けれど、空狐が言っていたように私は彼を恐れたのかもしれない。それならば立ち上がって、店を出ればよかった。言葉も交わさず、静かに逃げ去ることだってできた。しかしまだ、四席あるカウンターには私だけが座っていて、そこで鬼は何もなかったように店を切り盛りしている。
不意に私の目の前に小さな猪口が音を立てて置かれた。
「これ、味はいいんだけどさ、強いんだよね。ほかの妖怪でもすぐに酔っちゃう。だから瑞樹にはお湯割り」
そう言って彼は、自分の分を瓶から直に注ぎながら続ける。
「自分に正直にいるんだね。俺は慣れてるからいいんだよ。空狐だって悪い奴じゃないんだ、昔っからああで……化け狐だからかな、人を試す癖があるんだよ」
差し出された猪口を受け取り、その底をのぞき込むと、透明な酒が揺れてその上に湯気がたなびいていた。 私はそれをぐいと一気に飲み干すと、熱さが喉を焼いて体の芯まで染みわたる。顔を上げると店主は優しく微笑んでいた。
「この店は繋ぐために在るんだ。それは別々の世界だけじゃない、異文化交流ってやつだ」
私は空になった猪口にまたすぐ酒を入れなおし、そして知らなくてよかった世界の断片を呑み込む。この店ではこれが普通で、その異常を受け入れていくうちに、私もこの店の住人となるのだ。