第二話 狐面の女
今夜も提灯が灯る。
気が付くと足が店へ向いていた。授業が終わった夜、レポートを出し終えた夜、なんでもない夜、ふらりと暖簾をくぐるのだ。そして店主はきまって笑顔で迎えるのだった。
「お、今日も現れたな。いつものでいいか?」
「いつものが通じるなんて常連みたいっすね」
「なんだ、もうとっくだろ」
「まだ3日程度じゃないっすか」
と言いながら出された蕎麦をすすり酒を飲む。ただそれだけなのに、ここに来ると日常の苦労がこの場所でリセットされて、気持ちが緩むのがわかった。ため息交じりに「いいな」とつぶやく。
「わかる。いいよね、大将の手打ち蕎麦」
左から狐のお面がのぞき込む。私は驚いて思わず声が出そうになった。そんな私をよそに、お面の女は嬉々とした様子で話しかけてくる。
「やっぱり人間だ! 何十年ぶりだろ、ねえ大将。君、名前は? 人間はみな名前があるでしょ」
「おいクウコ、迷惑してるだろ。悪いな、こいつもうちの常連なんだよ」
クウコと呼ばれたお面の女は、悪びれる様子もなく「はーい」と言って黙ってこちらを見つめてくる。
「名前、そういや言ってなかったですね」
「別に言わなくてもいいんだよ。ここに居る奴らの誰のも知らないんだから」
「いいっすよ、呼び方に困るでしょ。瑞樹って名前です。」
「ミズキか、好い名前じゃない」
クウコはにやりと笑って「常連祝いだよ」と酒を注いできた。第一印象はギャル。服装も今時の若い女子が着るような、見せたいのか隠したいのかわからない服。ぐいと近寄って来た時、彼女の上着の隙間から一瞬、獣の尻尾が見えた気がして固まる。
今日も店内は異形の客――初めて来店した日に見た〝異常たち〟で賑わっている。首の長い女、目のない男、影だけのナニカ。でも逃げようとか怯えることはなかった。恐ろしいという気持ちより、妙な親しみの方が勝っているので、結局通っているのだ。
「人間は名前で個人を判別するから、みんないい名前を持っていて羨ましいよ。私たちには無いから、ねぇみんな!」
クウコが大声で呼びかけるので周りの視線が集まる。異物を見るような好奇の目だ。それでも彼らにとってはいつもの事らしい。彼女の目元だけの仮面からは、生き生きとした表情が分かる。
「なんで仮面、つけてるんですか?」
「ん、これ? いいでしょ可愛くて。大将から貰ったんだ~、私が私でいられるようにって」
「大事なものなんですね」
「そりゃあもう! 私がよく自分を見失っちゃうから、酒居目に来たときは絶対に着けるって決めてるんだ~」
こんなに明るい人でも見失うことがあるのか、それとももっと本質的な……
私はふと思いついたことをそのまま口についた。
「店主さんってみんなから何て呼ばれてるんですか?」
店主は驚いたような表情に変わり、代わりにクウコがにやにやしている。なにか変なことを聞いたか? 内心動揺しまくる私の様子をよそに、「ぷっ」とクウコがふき出した。
「やっぱりいいね君、気に入ったよ。なぁ大将、俺は有象無象じゃないんだって、私らと違うってこと、名乗って分からせてやれよ」
その一声で店内が一気に笑いに包まれ、野次が飛び交う。何が起きたのかわからずにいると、店主が肩をすくめながら口を開く。
「えーと、どこから説明しようかな。クウコもさっき言ってたけど、妖怪は基本的に個人を指す名を持ってないんだよ。こっちはだいたい鬼とか化け狐とか、それこそ人間とか種族名で呼ぶんだよ、空狐もね。それと、さっきの質問だけどね……嫌だなー、なんでみんな盛り上げるんだよ。俺の名前は鬼童丸だよ。知らないかもしれないけど、ちょっと有名なんだ、悪い方でね」