恋に落ちる音がする
王太子に色目を使う聖女を排除した公爵令嬢と、排除された聖女のお話。ひとに恋をすることとひとを憎むことって似てるよね。胸がどきどきするところとか、相手のことしか考えられなくなるところとか。
カルデコット公爵令嬢ヴィヴィアンは、ふと目覚めるように、自分が異世界からの転生者であることを自覚した。
この世界は、転生前の世界では乙女ゲームになっていた。そしてヴィヴィアンは、ヒロインの聖女ザラ・シトリンに嫌がらせを繰り返す悪役令嬢だった。
悪役令嬢ヴィヴィアンは乙女ゲームの舞台である王立学園で、聖女を虐げた罪で王都を追放となり、どころか一族の恥だとして公爵家からも追い出されて、最後には惨めに野垂れ死ぬことになるのだ。
「……冗談じゃありませんわ」
ぽそり、とヴィヴィアンは呟いた。王太子の婚約者として努力を重ねた自分を蔑ろにして聖女を選ばれるなど、ひどい屈辱だった。
幸いにして、乙女ゲームの開始である王立学園の入学まではまだ数年ある。それまでにヒロインとの差をつけることもできるだろうと、ヴィヴィアンは気を引き締めた。
それからヴィヴィアンは王太子の婚約者として相応しいよう努力し、気づけば子どもながらにして淑女のなかの淑女とまで呼ばれるようになっていた。社交の場では穏やかな笑顔を絶やさず、どんな身分のものにも優しく振る舞う。ヴィヴィアンに憧れるものは多かった。
その一方で、残念なことに王太子との仲は良好とは言えなかった。仲が悪いとは言わないが、どこか距離がある。ヴィヴィアンは際だった優秀さを謳われていて、優秀ではあるがそれなりの域を出ない王太子にとっては、ヴィヴィアンと同じように優秀さを見せる第二王子を連想させて息がしづらいのかも知れなかった。
それでも婚約者なのだからと交流を続けて、ヴィヴィアンと王太子は王立学園に入学した。
その直前に、教会から神託を告げられた。国を救う聖女として名指しされたのは、平民の可愛らしい少女ザラだった。
ヴィヴィアンなりに王太子と歩み寄ろうとしてきたつもりだけれど、どうにも意味がなかったようだ。王太子も、その側近たちも、あっという間に可愛らしいザラに魅了された。単純な見た目もそうだが、両親も亡く、学園入学まで施設で平民として生きてきたというザラは所作が拙く、それが男たちには新鮮で魅力的に映るようだった。
幸いなのは、乙女ゲームでは攻略対象であったはずの第二王子がザラに靡く様子がなかったことだ。男に媚びるような真似を繰り返すザラを第二王子は嫌っていたし、王太子との仲が悪化するヴィヴィアンを第二王子はいつでも気遣ってくれた。
乙女ゲームのヒロインである聖女ザラも転生者であることに、ヴィヴィアンは気づいていた。ヴィヴィアンは乙女ゲームのイベントを回避しようと動いていたのに、どうにもザラが意図的にイベントを引き起こしているようなのだ。ヴィヴィアンと同じ現世の、もっといえば乙女ゲームの記憶がなければ、そうはならないはずだった。
ことが起こったのは、一学年の修了パーティーでのことだ。王太子とその側近たちが、自分たちの婚約者に適当な難癖をつけて婚約を破棄しようとしたのだ。
乙女ゲームの流れに沿うのであれば、婚約破棄劇の舞台は二年後の卒業パーティーになるはずだった。恐らく、ヒロインのザラが早々に決着をつけようとしたのだろう。
当然のように、ただ一方的にしてやられるヴィヴィアンではなかった。王太子以外の攻略対象の婚約者や第二王子たちと協力して、王太子たちの責め立てているザラへの苛めはでっち上げであることを証明したのだ。
ザラは聖女の称号を取り消されて王都を追放されることになった。王太子や他の攻略対象たちはひとまず謹慎になったけれど、先行きは明るくないだろう。
やがて王太子は立太子とヴィヴィアンとの婚約を取り消され、王太子の地位とヴィヴィアンとの婚約はそのまま第二王子に引き継がれることになった。
乙女ゲームで最も大きなイベントである邪竜の復活が起こったのは、ヴィヴィアンたちが最終学年である三年生になって卒業まで半年になった頃だった。
この国では、およそ百年に一度邪竜が復活して人びとを苦しめている。乙女ゲームではザラが対処していたけれど、ザラはもういない。人びとを救うために、第二王子とヴィヴィアンは立ち上がった。
そうしてヴィヴィアンは多大な犠牲を出しながらも見事に邪竜を討ち取り、その功績を称えて聖女の称号を賜ったのだった。
「現実とゲームは違うのよ、ヒロインさん」
ヴィヴィアンは呟いた。邪竜の影響で卒業パーティーが流れてしまったから、祝勝をかねて改めて同窓生たちを集めたパーティーをしているところだった。
第二王子と見つめ合って、ヴィヴィアンは人びとに称えられる、完璧な角度で微笑んだ。
――邪竜が復活したのは、それから僅か半月後のことだった。
***
いずれ聖女と呼ばれる少女ザラはかつて、ふと目覚めるように、自分が異世界からの転生者であることを自覚した。
「――ぉ、」
ザラ、いまはジルと名乗っている少女は小鳥の鳴き声に顔を上げた。鮮やかな青い小鳥が、こちらに寄ってくる。
小鳥の囀りに耳を傾けて、ジルはそっと微笑んだ。
「ジルお姉ちゃん、楽しいことあった?」
ジルを取り囲んでいたうちの一人、小さな女の子がこてんと首を傾げた。その女の子に優しく微笑んで、ジルは眼の前でピンク色の花を出してやった。
何のことはない、道中見かけて摘んでおいたそこらの野草を、魔法で引き寄せただけである。だというのに、女の子は甲高い声を上げて大喜びした。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
女の子に寄り添っていた母親らしき女性が、優しく微笑んでジルの近くに置いてあった布袋にチップを入れた。パンも買えないような金額だが、ジルは愛想良くひらひらと手を振った。
布袋はすでに、ずっしりと重くなっている。しばらくは食うに困らないだろう。布袋と竪琴を魔法で収納すれば、囲んでいたうちの一人で年嵩の男性が声を上げた。
「なんだい、今日はもう終わりかい、お嬢ちゃん」
「そー、終わり終わり! もうしばらくはこの街にいるからまたよろしくね!」
蓮っ葉な調子で言葉を返して、荷物を拾った拍子に落ちてきた髪を払う。髪はジル本来の目立つピンク色ではなく、どこにでも溶け込む茶色に染めている。
散っていく観客たちに雑に手を振って、ジルは歩き出した。ジルの肩に乗って、チチ、と青い小鳥が鳴く。
「なんだ、あの国のやつら、わたしを探してるのか」
やっぱりな、とジルは思った。それと同じくらい、残念な気持ちがした。聖女の力を借りずに国の危機を乗り越えたのであれば、それはそれで面白いとも思っていたからだ。
故国を出奔したあとも、ジルは故国の情報を集め続けていた。だから、多少のタイムラグはあれどジルはそれなりに故国の様子を把握している。
邪竜が現れたことも、その邪竜を王太子である第二王子とその婚約者が打ち倒したことも、それからひと月も経たないうちに再び邪竜が姿を現したことも。
きっと、故国の教会のものたちは、神に問うたのだろう。そうして、数年前と変わらず、ザラという少女が救国の聖女であると神託を受けたのに違いない。
王都から追い出した平民の少女が正真正銘の聖女であると告げられて、あの国のものたちはどんな顔をしたのだろう。その顔を拝めないことが、ジルは少しだけ残念だった。
けれどジルはもう、あの国に戻る気も、関わる気もない。あの乙女ゲームごっこで、気が済んでしまったからだ。
ジルは聖女である。だから、邪竜を打ち倒せるのは、ジル一人だけだ。
見た目から邪竜などと呼ばれているけれど、実のところ故国に現れる邪竜は単なる竜ではない。あれは、故国に流れる一際大きな龍脈の淀みから生まれる魔力の化身なのだ。
だから、単に力任せに邪竜を打ち斃せば良いというものではない。龍脈の淀みを取り除き、流れを正常化する必要がある。龍脈に干渉する力を持つのがジルの一族であり、ジルはその最後の一人なのだった。
龍脈が滞ったままであれば、短期間のうちに何度でも邪竜は復活するだろう。膨らみすぎた魔力が原因なのだから、その魔力を発散するように破壊衝動に満ちた竜であるだろうから、斃さずに放っておけばどんどん被害は拡大する。
「まあ、その斃すのが大変なんだけどね」
ジルは独りごちた。一度は邪竜を斃したと聞くけれど、きっとそれだけのことにも大変な犠牲が払われているはずだ。
邪竜を斃せば魔力が散らされるから、龍脈の淀みはほんの少しだけ解消する。幾度となく復活する邪竜を間断なく斃し続けて龍脈を正常化するという方法も、一応はないではない。
或いは二度や三度であれば、人間たちも頑張れるのかも知れなかった。けれど邪竜は、龍脈の淀みが自然に解消されるまで何十度でも、何百度でも復活するだろう。故国の人間たちにそれだけの体力があるだろうか。
「……なさそー」
魔力の吹き出す龍穴を中心にして結界で封じてしまうという手もあるけれど、人間が張る程度の結界などいずれ破られてしまうだろうから問題を先送りにするだけだ。
あとは何らかの魔法を用いて、龍脈の流れを正常化するという方法もあるだろう。けれど、建国から千年を超え、豊かな国でありながらも問題を抱えた龍脈の管理をジルの一族に押しつけ続けていた国が、いきなり邪竜の復活する原因を特定し、方法を見つけるまでにどれほどの年月がかかるだろうか。
首を捻って考えてみても、国が滅びるほうが早そうだった。
最後の手段として、自然魔力に多大なる影響を及ぼす妖精たちに頼るという手もあるけれど、人間たちの国と妖精たちの国は決して仲良くはない。龍脈に干渉するほどの力を持つ妖精など多くはないのだから、仮に助けを求めたとしても断られるのが関の山な気がした。
「問題は邪竜だけじゃないしねー」
呟きながら、ジルは龍脈の流れを思い浮かべた。龍脈の流れが滞るということは、その先の土地に魔力が回らないということでもある。きっと、自然や色々な部分に悪影響が出るだろう。
問題の龍穴は故国の西側にあって、龍脈は東に流れているから、故国の中心部に向かう流れが堰き止められているということだ。もしかしたら故国が干上がるような事態にもなるかも知れなかった。
いまジルがいる国は故国の南にあるから、影響はほとんどないだろうけれど。
「……ま、もう関係ないんだけどさ」
故国の罪なき国民たちには多少同情するが、それだけだ。今まではジルの一族が厚意で国を守っていただけであって、別に最初から、どこにも義務なんてないのだから。
人びとには知恵がある。先ほどジルが思い浮かべたいずれかの方法で、或いは思いつきもしなかった何らかの方法で、人びとが邪竜を真の意味で打ち斃すこともあるかも知れない。ただ、その場にジルがいないだけだ。
打ち斃せないこともあるかも知れないが、それはそれだけ。人間の生存圏がほんの少し減るというだけに過ぎないのだ。
ジルはもう故国に興味がなかったし、今後故国が滅びようが栄えようが、関係のないことだった。
ただ、あの悪役令嬢はほぞを噛んだだろうな、と思う。結果的に本物の聖女を追い出すことになった悪役令嬢は、きっと人びとから責められただろう。
随分と人びとに慕われていたようだから、もしかしたら責められすらしなかったかも知れない。それはそれで、残念だけれどジルにはどうでも良いことだった。できれば責められていれば良いな、と空想するだけだ。
なにせジルは、悪役令嬢ヴィヴィアン・カルデコットのことが大嫌いだったので。
王立学園で人間関係を引っかき回したのだって、ちょっとした嫌がらせに過ぎなかった。聖女なんて最初からやる気はなかった。仮に死罪になったとしても、それはそれで構わないと思っていた。ジル、ザラを死罪にしたところで、結果的に困るのは故国のものたちだからだ。
ジルはヴィヴィアンが大嫌いだった。だから、ヴィヴィアンが王太子妃、いずれ王妃として君臨するような国で、どんなに高い身分であろうとも聖女として尽くすなんて最初からごめんだったのだ。
なにしろヴィヴィアンという女は、ジルの母を犯してジルを産ませたカルデコット前公爵の掌中の珠である孫娘様だったので。
ヴィヴィアンとザラは同い年だったけれど、ヴィヴィアンは、血縁でいえばザラの姪にあたる。前公爵だっていちいち犯した女の顔など覚えていないだろうから、きっと誰も気づきもしていないだろうけれど。
ザラの瞳が自分と同じ紫であることなど、ヴィヴィアンは気にしてもいなかっただろう。或いは気づいてすらいなかったかも知れない。ヴィヴィアンにとって、平民あがりの名ばかり聖女なんて気にする対象ですらなかっただろう。単に排除するべきゴミ程度の認識でしかなかったはずだ。
最初から、ジルはヴィヴィアンが嫌いだった。母を犯した前公爵の汚らしい血を引いて、まるで自分が高貴であることが当たり前かのようにお高く止まっている。
薄皮一枚を剥けば、自分が見下していたジルと何割かは同じ血が流れているのだ。そんなことすら気づかずに、たびたび誇るように辣腕であったらしい祖父前公爵の話を口にするヴィヴィアンが心底厭わしかった。
何もかも、ただの嫌がらせだった。王太子を奪ったのも、聖女として振る舞わなかったのも、国から逃げ出したのも。
聖女としてそれなりの身分を手に入れるよりも、ただあの気に食わない悪役令嬢に嫌がらせをしたい気持ちが勝ったのだ。
自分の行いが単なる八つ当たりであることを、ジルは理解していた。けれど同じくらい、物わかりの良さなんぞくそ食らえ、とも思っていた。
ジルが逃げ出したことで、故国は苦しむのかも知れないし、苦しまないのかも知れない。
ジルを追い出したことで、悪役令嬢は責められるのかも知れないし、責められないのかも知れない。
残念なことに、ジルは少しばかり特別な力を持っている以外には、単なる平民の少女に過ぎなかった。だから、ジルにできることは、ここまでだった。
――いずれ聖女と呼ばれる少女ザラはかつて、ふと目覚めるように、自分が異世界からの転生者であることを自覚した。
「……で、だから?」
ジルは言った。吐き捨てるような声だった。
ジルにとっては、前世の記憶なんぞよりも、この胸のむかつきこそが全てだった。
「ヴィヴィアン・カルデコット、あんたは現実とゲームは違うと言ったけれど」
青い小鳥が歌う。昔から、色んなことを、この小さな友だちが教えてくれた。
青い小鳥が伝えるヴィヴィアンの情報はジルにとって毒のようだったけれど、それでも、どうしても、情報を集めることを止められなかった。
「じゃあ、判ってる? 前世の世界と今世の世界も、現実とゲームくらい違うってこと!」
ヴィヴィアンはきっと、聖女を軽んじた。乙女ゲームのヒロインなんかいなくたってどうにでもなると、聖女ザラを軽んじたのだ。
「あんたがそう考えるのなら、聖女は国を助けないよ。聖女のいない国で、あんたがなんとか頑張れば?」
ちょうど悪役令嬢がヒロインを嘲るような調子で、ヒロインは悪役令嬢を嘲った。
ザラの母は亡くなった。性病だった。前公爵から移された病で、ザラの母は亡くなったのだ。けれど今でも、前公爵は元気に生きている。
ザラの母は貧しかったから、治療を受けることができなかった。けれど前公爵は豊かだったから、なんでもない顔で病を治したのだ。
ひとを不幸にしておいて、まるで自分が正義みたいな顔をして、人びとに慕われて生きている。
ずっと、胸がむかついていた。
幼い頃はこの感情が理解できなかった。けれどザラは今では少しだけ大人に近づいたので、この感情に名前をつけることができる。
そうやって、ジルはまるで恋に落ちるように、自分の憎しみを自覚したのだ。
「わたし、あんたのこと、大っ嫌いだわ」
そうして今日もジルは、竪琴を弾いている。どこか遠い国で王太子の婚約者だった誰かが王都を追い出されたらしいと観客たちが噂しているのも耳に入っていないように、一心に竪琴を弾いている。
一通り弾き終わってから、ジルは笑った。そうして古い竪琴と青い小鳥だけを相棒に、ふらりと再び旅に出た。
わりかし色んな聖女を書いてきたような気がするのですけれど、たまにはシンプルに身勝手で性格の悪い聖女がいても良いなと思ったので書きました。
わたしはヒロインはヒロインであるべき、聖女は聖女であるべきと思っているので、ヒドインだの性女だのというキャラクターは読んでいて気持ち悪いのですけれど、それはそれとして聖女だから必ずしも人びとを救わなければいけないのかと言われればそうではないと思っております。あくまで聖女は蜘蛛の糸、選択肢の一つでしかないので、何を選び取るかは聖女を擁する周りの判断です。聖女がいなくたって人びとは元気に繁殖するかも知れないし、状況によっては滅びることもあるかも知れないけれどそれもまた選択の結果なのです。
本作の悪役令嬢は別に特に悪いことはしていないのですけれど、それはそれとして悪役令嬢が完勝するとは限らない。試合に勝って勝負に負けた感じですね。お求めのものはお出しできません。
これは悪役令嬢小説に限ったことではないのですけれど、どんなでも普通に小説とか読んでてキャラクターが作中で「現実は小説とは違う」とか言い始めると「いや小説の話じゃん?」ってなって心の距離が開いちゃうタイプなのですけれど理解できるかたはいますでしょうか。
あくまで小説の舞台でのお話なので、そこで三次元ヅラをされましても、、ってなってしまうんだよな。と、いうモヤる気持ちをちょろっとだけ入れ込んでみました。
たとえば男女関係が縺れたときに、男は浮気をした彼女(嫁)を攻撃するけれど、女は浮気をした彼氏(旦那)ではなくてその浮気相手の女を攻撃することが多いってどこかで聞いたので、本作はそのイメージで書いています。前公爵ではなくてその孫娘の公爵令嬢により強い憎しみを持っているあたり、本作の聖女は実に「女らしい」性格をしています。やっべ、男女差別とか言われたらどうしよ。まあわたしの作品のコメントが荒れるなんて今さらのお話でしたね。
【追記20250504】
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