焔
電車のドアが開くと、俺は首をすくめながらホームへ足をつけた。
焦るように、けれども静かに、黄色の点字ブロックを乗り越える。
けれど、歩む勢いはすぐに萎んでいった。
九時になるというのに、ホームには横を通り抜けられないくらいには人がごった返していたからだ。
黒い。黒い。ほとんどが、嫌味のように黒か紺のビジネスコート。
俺は小さくため息をつくと、点字ブロックを見下ろした。
そうして、ただ、人の波に従った。
「よっ」
その言葉が、自分に向けられたものであると気が付くのには、ずいぶんと時間がかかった。
改札を潜ってすぐ。駅の構内で俺の肩を叩いたのは、そう、宮内だった。
「久しぶりじゃん。成人式以来」
「んだな」
宮内は周りの景色と同化するように、暗いキャラメル色のコートを身に纏っている。
「ああ、これか。今日な、会社説明会だったんだよ」
俺の視線に気が付いたのか、宮内は言った。
「もう三年の冬だしな。ああ、嫌だわ。まだ学生やっていてぇって感じ」
「そうか。もう、そういう時期になるのか」
ニヒルに笑みをこぼした宮内に、俺は覇気のない声で答える。
「で、水村はまだ曲作ってんの?」
「まぁ、そんな感じだよ。特に、前話した生活と変わらない」
「へぇ」
宮内の乾いた声が、冷たい空気の中へ溶ける。
――――興味ないなら、聞くなよ。
苛立ちを感じた俺は、半ば乱暴に宮内に背中を向ける。
「じゃあ、俺、こっちだから」
すると、今度は「あっ」と声が漏れたのが聞こえた。
「そういや、齊藤の話って聞いてるか?」
「――――齊藤?」
懐かしい名前の響きが、俺の注意をひきつける。
「あ~。いや、そのな」
宮内は言い淀むと、そっと俺に近寄って、囁くように言った。
「――――齊藤さ、事故って亡くなったらしい」
「は?」
ただでさえ冷えきっていた俺の身体が、さらに温度を失っていくのを感じた。
俺は部屋に戻ると、羽織っていたジャケットを脱ぎ捨てた。
デスクトップの光だけが照らす部屋の中を、音も鳴らさずに横切る。
夕方ごろに脱いだ寝間着を踏んで、部屋の角にあるベッドの上に腰を預けると、ギィと何処かで悲鳴が鳴った。
すぐ右手にある小さな窓を開けて、俺はパーカーのポケットから煙草とライターを取り出す。
――――カチッ。
明かりというにはあまりにも心もとない小さな炎が生まれて、乾いたものが焼ける匂いが漂い始めると、俺はライターを静かに窓の淵においた。
フィルタ―を口に添えて深く吸う。
「げほっ、げほっ」
けれど、煙が喉に突っかかったのか、俺は大きく咽返した。
何度か咳をして、ゆっくりと深呼吸もしてみる。
十秒も経たないうちに、段々と身体が落ち着きを取り戻してくる。
誰に向けたわけでもないしかめっ面で顔を上げると、俺は懲りずに再び煙を吸った。
――――苦ぇ。
初めてコーヒーを飲んだ時の思い出が蘇った。
だけど、今度はちゃんと味わえる。
それを確かめると、俺は細い煙を吹かしながら、遠い夜空を見上げた。
「へぇ~。変わったやっちゃな~」
中学二年の頃。昼休みの教室。
エセ関西弁で話しかけてきた齊藤は、きっと俺よりも変わり者だった。
「エアギターってやつだろ、それ」
「まぁ」
――――話しかけて来るなよ。
苛立ちを込めた声で呟いたというのに、当の齊藤は気にすることもせずに、俺が机に広げていた楽譜を覗き込んでいた。
「なんだこれ、数学か」
「違う。楽譜。ギター譜だよ」
「これが? 音楽の授業じゃ見たことないなぁ。って、水村。そんな怖い顔するなって」
不満を顔に出した俺を見ると、齊藤はわははと笑っていた。
こんなものが、俺と齊藤の関係の始まりだった気がする。
「やい、水村。人でも殺すのかって顔でエアギターしてるんだ。実物でもちゃんと引けるんだろうな」
そんな訳の分からない齊藤のヤジに腹を立てたのも、俺がまだ幼かったからだろう。
俺はその日のうちに齊藤を部屋に呼んで、真剣に弦の音を聞かせてやった。
すると、齊藤は。
「やるなぁ、水村。お前は天才だ」
と、やはり腹を抱えて笑っていた。
それを見た俺は、更に不機嫌になった。
けれど、いつかこいつが笑えないような演奏をしてやると心に決めたのも間違いではなかった。
齊藤は「やい、水村」と、時々思い出したかのように俺に突っかかってきた。
そんな日の放課後は、再び俺はギターを聞かせてやるのがお決まりになっていた。
けれど、いつまでたっても齊藤は俺の演奏を聞いて、笑い転げていた。
齊藤とのよくわからない関係は、二年だけでは終わることはなかった。
不幸にも、三年も齊藤とは同じクラスになってしまったから。
だから、この関係は卒業まで続いた。
けれど、最後の最後まで、結局俺は演奏で齊藤を黙らすことが出来なかった。
「またな」
卒業式の日、齊藤から昇降口でかけられた言葉。
それが、俺の中での齊藤の最後の言葉になると思っていた。
「おっ。水村」
それは成人式が終わった後、居酒屋で行われた中学の同窓会での出来事だった。
夜風に当たろうと俺が店を出ると、そこに齊藤は居た。
「お前も吸うか」
齊藤は、ジャケットの胸ポケットから煙草の箱を取り出して言った。
「俺、吸ったことないんだけど」
「なんやお前、ギターやってんなら煙草くらい吸えや」
懐かしいエセ関西弁を話しながら、齊藤は俺に煙草を強引に押し付けた。
「なんの理屈だよ、それ」
「まだやってんだろ?」
「まぁ」
「火をつけてやるよ。少し吸わんと火が付かないからな」
言われるがままにしていると、段々と俺の口の中にもタールの匂いが広がり始める。
俺はすぐに煙草を口から離した。
「苦ぇ」
顔をしかめて言うと、齊藤はやかましく笑った。
「少しくらい苦い方が良いんだよ。現実はもっと苦いからな。これで慣れるくらいが」
齊藤は吸い殻を、店が用意したであろう安っぽい灰皿に押し付ける。
「ギター、上手くなったか」
「それなりには」
「そうか。水村は天才だったからなぁ」
「何がだよ。お前、いつも笑っていたじゃないか」
俺も先ほどの齊藤を真似て、吸い殻を灰皿に押し付けてみる。
「だってお前、本当に人を殺しそうな顔をしていたからな。教室でも、お前の部屋でも。そりゃ、皆怖がって寄ってこないよなぁ」
「それが面白かったのか」
「勿論」
俺は深くため息をついた。
全く、いい性格をしている。
「けどなぁ」
「ん?」
「正直に言えば、水村が羨ましかったんだろうな」
「はぁ? 何が?」
「夢中になれるもんがあるって言うか、人生の目標があるって言うか。あれから五年経った今も、俺にはな~んにも見つからん」
ちらりと様子を伺うと、齊藤は夜空を見上げている。
微かな脂の匂いが漂うビルの隙間から、半月を見ていた。
「昔も今も、俺には笑うことしか出来んからなぁ」
ぽつりと零れた言葉は、齊藤の言葉とは思えないほどに、自然に夜風に溶けていった。
――――死んだのかよ、齊藤。
瞑っていた目を開けると、重力に負けた吸い殻が、ぽとりと窓から落ちて行くのが見えた。
口を開けると、長い間、口内を彷徨っていた煙が逃げ出すように夜空へ昇る。
その行方を目で追ってみても、浮かぶ半月にはちっとも届きやしない。
「やっぱり、苦ぇよ」
静かに呟いた俺は、灰皿で煙草の小さな火種を押しつぶした。