変わり映えのしない朝
翌朝は鳥の囀る声で目が覚めた。
薄っぺらい煎餅布団から身を起こした琴葉は、疼いた痛みに思わず顔を顰めた。
「……昨日、走ったから……」
足がずきずきと響くように痛い。転んだ拍子に擦りむいたのか、膝や腕にも生傷がある。まだ痛みと恐怖の感触は消えない。
眠ったのも明け方だ。眠気はまだ残っているが、今日は仕事が待っている。
琴葉は気合を入れて、朝の支度に取り掛かった。
筆村琴葉は、「札屋」である。
札屋とは、昨晩のような怪異、あるいは妖を祓うための破魔札を作る仕事を、主に請け負う者である。
「それで。怪異に対して殺傷能力を持つような武器を作る札屋の娘が、どうして怪異に襲われたのかな」
琴葉は客間の座敷に座る男の失礼な物言いに、言い返せずに苦笑した。
その様子を見た男は、長々と深いため息をつく。
「まあ、なんとなく予想はつくよ。次の仕事について話し込んでいるうち、すっかり夜になってしまったのに、泊まるのを遠慮して強引に帰ろうとしたんだ。おまけに破魔札は全て印刷所に置いてきた、ってところでしょう。お前が怪異に襲われた場所から察するに、出先は墨島印刷所かな」
「はい。涼夜様の仰る通りです」
「怪異から身を隠す札は、持っていなかったの?」
「私が持っていても、あまり意味がないもので」
厳密には、昼間出会ったご婦人が妙な気配を纏っていたので、持っていた最後の一枚をその人にあげてしまったのだが。
「自分の護身用くらい、一応持っておきなさいと、何度も言っているんだけどねえ。そういうところ、抜けているよね、琴葉は」
涼夜、と呼ばれた男は深いため息をついて、机に用意されていた茶菓子の饅頭を頬張った。一般的に「容姿端麗」と形容されるであろう優男風の彼は、襟足の髪の毛を伸ばし、白と紫の組紐で結っている。彼が身に纏っているのは普段着の着物だが上等なもので、琴葉の着古してくたびれた着物とは大違いだ。
「投げつけるくらいすれば、足止めにはなるはずだよ。琴葉の破魔札は、効力はすごいんだから」
褒めてもらうのは嬉しい限りだが、嫌味も存分に含まれているので素直に受け取れない。琴葉は窓辺にある自分の文机に向かって作業をしていたが、一度手を止めた。持ったガラスペンを筆置きに置いて、彼に向き直る。日差しを浴びて、ペンは美しくきらりと輝いた。
「次からは、そのように致します」
「本当にそうしてね。どこかの鎮守の森に逃げ込めさえすれば、この工房のある神社まで帰って来られる。それは確かに、琴葉の亡きお父上が構築した便利で安全な仕組みだけど、その仕組みにばかり頼りすぎないで欲しいものだな」
「気をつけます」
慇懃丁寧な琴葉の態度に、涼夜は痺れを切らしたようだった。さらに深いため息をもらされる。
「全く。いつになってもその、不必要に遜る態度をやめないよね、君は。本物の兄のように、慕ってくれてもいいと言っているのに」
「涼夜様は名家、白藤家の跡取りでいらっしゃいます。いくら遠戚関係にあるとはいえ、そこまで甘えるわけには参りません」
それをきいて、涼夜はやれやれと頭を振った。
白藤家は社交界において、重要な地位を占める華族である。
雪宮、雨宮、風宮、紫藤に続いて、『五藤宮家』と総称される古い家柄のひとつだ。
おまけに、彼は先日、白藤家の前当主から家督を譲り受けたばかりだ。つまり彼は本来、こんな辺鄙な神社に出入りするべき人間ではない。破魔札についての監督という名目で、顔を出してくれるだけなのだ。
「どのみち私には、自分の札を『扱う』才がありませんから」
琴葉の独り言は、涼夜の耳に届かなかったようだった。
彼は出された茶を一口啜って、琴葉に視線を投げかけた。
「ところで、琴葉を助けてくれたのは誰だったんだろうね」
「さあ、お名前は伺いませんでしたので。軍服を着ておられたので、おそらくその関係の方かと。怪異を焼く威力のある札をお持ちでした」
「なら、退魔科だろうな。最近は夜道の警護を強化していると聞く。運が良かったと言うべきかな」
退魔科。なるほど、と琴葉は心の中でつぶやく。
暗闇に凛とした声で響き渡った祝詞を思い出す。怪異と共に燃えた札は、いったい誰が書いたものだったのだろう。
術者の能力もさることながら、札屋としては、あの怪異を焼いた札がどのようなものだったのかに興味がある。
札は基本的に使い切りのものが多い。あの時命を助けてくれた札も、怪異を切り裂くと共に燃えただろうが、実物を見れたらよかったのに、と思う。軍に所属する退魔科の扱う札は、きっと一級品に違いない。
琴葉が書いた札は、大抵の場合は原本として印刷所に持っていっている。そこからどの道筋を辿って誰が使っているかまでは、あまり考えた事がなかった。ただ必要な時に依頼されたものを書き、印刷して売れた分の配当を貰う。琴葉はそれで不便していなかったし、慎ましい生活を送っているのでとくに困窮もしていなかった。白藤家からの援助はないが。
札屋はそう多くはないけれど、競合のいない世界という訳でもない。琴葉は父から引き継いだ仕事を、途切れさせないように期待に応え続けるだけだ。
そうこうしているうちに、涼夜は琴葉の淹れた茶を飲み終わったようだった。さて、と呟いた彼は、琴葉の方をちらりと一瞥して席を立った。
「今日はこの辺で失礼しよう。このあと、占いの予約が立て込んでいてね」
「お忙しいところお立ち寄り頂きまして、ありがとうございました」
「また明日、来るよ。それから、例の札のこと、よろしくね」
「奥様の安産祈願の札、でしたか。一応、退魔札の括りではありますが、そういった護符は、私の専門外だと申し上げたはずですが……」
「けれど効力に自信はあるだろう? これは『白藤』の血を引く、琴葉、君が作ったという事実が大事なんだ。分かるね」
涼夜は「よろしく頼むよ」と念押しして、ひらりと手を振り部屋を出ていった。
「ああそうだ。琴葉、失せ物の相が出ているよ。十分に気をつけるように」
振り向きざま、彼はそう言い残した。
彼の占いはよく当たるから嫌だった。琴葉は近くの鏡に映った自分の顔を見つめてみる。特に普段と変わったところはない、顔色の悪い自分がそこにいた。
琴葉は無意識に、左の手のひらで右腕のあたりをさするように撫でた。
彼が自分を、家族の一員のように大切に思ってくれていることは分かっている。世話を焼いてくれていることにも感謝している。
けれど本当の家族になってくれる訳ではないし、琴葉の遠慮が消えるわけではない。
彼に身分違いの恋心を抱いた事はない。――正確には、恋に育つ前に、無惨に叩き折られた。
だからこの先も、そのような間違いが起こるわけがないと知っている。
「安産祈願の札……涼夜様のお子に、万が一でもあったりしたら」
涼夜の妻の出産中に、怪異が襲ってくるような事があったとしたら? それを、琴葉の札がもし、防ぎきれなかったら?
恐ろしいことが頭をよぎり、琴葉は慌てて首を振った。
想像でも、そんな事は口に出してはいけない。迂闊に口に出してしまえば、言霊になって事実になってしまうこともある。
自分は白藤の都合のいい駒だ。静かに札を作りつづけるだけで生活していけるが、逆にそれ以外の自由はない。この神社で寝起きをし、仕事の為だけに外に出る毎日を過ごして六年ほどになる。友人と呼べる相手も少なければ、誰かに夢中になって恋焦がれた経験もない。琴葉は結婚することも、弟子を取ることも許されていなかった。
この技術をどうやって継承すればいいのだろうと、何度か考えたことはある。だが涼夜を始め、白藤家の人間は誰も琴葉に答えをくれない。ただ黙って、今頼まれた札作りをしていれば良いと言う。
琴葉よりも価値の高い札を作れる、条件がよい札屋が見つかれば、用済みになった琴葉は体良く捨てられるかもしれない。きっと今は、身内の情けか何かで生かされているだけなのだ。それ以上のことは求めてはいけないのだと思った。
札作り自体は自分の好きなことでもあるし、一人で過ごす時間も苦ではない。巡り巡って誰かの役に立てるなら、それでいいと納得している。
けれど時々、ほんの僅かに、寂しさを覚えることもある。もう失ってしまった温もりを、求めてしまう自分がいる。
琴葉は涼夜のいなくなった座敷を見つめ、小さくため息をついた。それからゆっくりと、客間の湯呑みを片付けた。