3-1
翌朝、ユリアーネは衣装ラックと睨めっこしていた。
ラースはあくびを噛み殺しながらそれを眺める。少年はドレッサーの前に座りニコライに髪を整えられていた。今日は謁見の日。ユリアーネも気合いが入っていた。
謁見にはラースとニコライの同行が認められている。少しでも少年の緊張が紛れればとの心遣いだが、謁見までまだ二時間もあると言うのに少年はがちがちに固まっている。
「大丈夫っスよ、坊ちゃん」と、ニコライ。「国王陛下と王妃殿下は国のお父さんとお母さんっスから」
「おい、恐れ多すぎるぞ」
「例えっスよ。そう思ってたほうが緊張しないでしょ?」
しかし少年の肩から力は抜けない。たとえ「国のお父さんとお母さん」だったとしても、この国の中で一番に偉い人たちであることに変わりはない。
「ラース様」ユリアーネが言う。「腕輪が隠れる服装のほうがよろしいでしょうか?」
「いや、国王陛下は【癒し手】のことも腕輪のこともご存知だ。わざわざ隠す必要もないだろう」
「かしこまりました」
ユリアーネは、一着を持ち上げては少年と見比べ、を繰り返している。そこにニコライも加わり、ああでもないこうでもないと言い合い、服装選びは難航した。そのあいだ、その雰囲気に気圧された少年はラースにしがみついていた。
三十分経ってようやく、襟に飾りのついた若草色のジャケットに決まる。ニコライとユリアーネは満足げだ。
「食堂に行くぞ」
ラースが抱え上げようとすると、少年がそれを拒絶するように一歩退いた。珍しい行動にラースは眉根を寄せる。
「どうした。腹が減ってないのはいつものことだろう」
「あ」と、ニコライ。「坊ちゃん、緊張しすぎてお腹が空いてないどころか気持ち悪いんじゃないスか?」
うかがい見るラースに、少年はこくこくと頷いた。
「そうは言ってもな。何か胃に入れておかないと、謁見の間でさらに気持ち悪くなったら困るぞ」
ラースは諭すように言うが、少年は首を振る。
「じゃあ、ミルクとかどうっスか? 少しでも飲んどけば、多少はマシなんじゃないスかね」
ラースがまた見遣ると、少年は渋々といった様子で頷く。ひとつ息をつき、ラースは不満げな少年を抱き上げた。
食堂ではメイド長が今日も食事を用意していたが、事情を説明すると、まあ、と頬に手を当てた。
「ミルクよりココアはいかがでしょう。乳製品はより気持ち悪くなる可能性がありますわ」
「それは良い考えっスね。坊ちゃん、ココアはどうっスか?」
しかし少年は首を傾げる。ココアを知らないのだろう。
「いまご用意いたしますわ」
盗賊団に捕らわれていたのだから、ココアを知らなくても無理はない。少年は不思議そうにしつつ椅子に座った。
メイド長はすぐに戻って来て、少年の前にマグカップを置く。少年はうかがうようにマグカップを覗いた。メイド長に促され、ようやく口をつける。一口飲んだ少年が表情を明るくするので、ニコライとメイド長は顔を見合わせて微笑んだ。少年はココアを気に入ったようだ。
ココアを飲み干すと、少年の顔色が少しよくなったように見える。気持ちも落ち着いたようで、いかがでしたか、と問うメイド長に薄く微笑んで見せた。
「まだちょっと時間あるっスね、どうします?」
「共同図書室へ行かれてはどうですか? あそこに置かれている絵本は、坊ちゃまのお気に召すのでは」
「ナイスアイデアっスね。行きましょ、坊ちゃん」
二階の端にある共同図書室でニコライが絵本を読み聞かせをしてやると、少年は興味を惹かれていた。少し緊張がほぐれたように見えたが、神官が時間だと呼びに来ると、また体ががちがちに固まってしまった。
謁見の間は、扉の前に立つだけで威圧される。神聖な場所であり、荘厳な造りをしているその部屋はラースも何度か通されたことがあるが、少年が緊張する気持ちはわかる。
「坊ちゃん、深呼吸っスよ」
ニコライに促され、少年は何度か深呼吸をする。ほんの少しだけ顔色が善くなった気がするが、体の強張りは相変わらずだ。不安なのか、ラースのマントをずっと掴んでいる。ラースは腰を屈め、少年と視線を合わせた。
「国王陛下と王妃殿下には、お前が声が出ないことはお伝えしてある。不敬に問われることはないから安心しろ」
安堵したように少年はこくこくと頷く。
衛兵が扉を開ける。途端に変わる空気に、少年が怯んだ。ラースは少年の肩に手を遣り、中へ促す。ようやく意を決したように、彼はゆっくりと足を踏み出した。その体は小刻みに震え続けている。ラースは手に力を込めた。
王座の間と違い、謁見の間には簡素な椅子しかない。ふたつ並べられた椅子に、若き国王アーデルベルトと王妃クリスタが座って三人を待っていた。
アーデルベルト王は国で一番の美形だと言われている。鼻筋が通り、瞳は美しく青色に輝く。程好く整えられた金髪が、青色の軍服に映えている。アーデルベルト王が自ら軍の指揮を執ることもあり、普段から軍服を着ているのだ。
クリスタ王妃も眉目秀麗だ。透き通る銀髪が緩やかに肩に掛かり、紫色の瞳はいつも穏やかな色を湛えている。
ふたりは若い。王はラースとそう変わらない年齢だ。前王が身罷ったのは不慮の事故だった。代替わりは予定外の早さとなった。しかし、アーデルベルト王は王位に就く前から「王の器」があるとされていた。若くともその手腕を存分に発揮し、国を治めている。クリスタ王妃は若き国王を献身的に支えている。国のために身を粉にするふたりに、これでこの国は安泰だ、と言う者さえいるのだ。
ラースとニコライが跪くのを真似て少年も屈むと、アーデルベルト王は優しい笑みを浮かべた。
「楽にしなさい。座っていたほうが楽なら、椅子を用意させよう。普段はラースが抱えてやっているんだったな」
「ふふ」クリスタ王妃が笑う。「ラースが抱っこだなんて」
ラースに促され、少年は立ち上がる。それに合わせラースとニコライも姿勢を正した。
「酷い扱いを受けてきたようだな」
アーデルベルト王は物憂いげに言う。一目見ただけでわかるほど、少年は痛々しいほどに痩せ細っているのだ。
「名は?」
王の問いに、少年は困ったようにラースを見上げる。
「恐れながら、陛下」ラースは言った。「この者の名は判明しておりません。声が出ず、読み書きもできませぬ故」
「当時、この者の年齢は四歳前後と思われます」と、ニコライ。「自身も憶えていない可能性があります」
「ふむ……」
アーデルベルト王は顎に手を当て、しばらく考えを頭のなかで逡巡させるような表情を浮かべる。ふとクリスタ王妃に目配せをすると、クリスタ王妃は優しい笑みで頷いた。
「では、この者に名を授ける」
ラースとニコライは思わずバッと顔を上げる。
「恐れながら、陛下」ラースは言った。「この者は癒し手と言えど平民に過ぎません。そのような――」
アーデルベルト王が右手を挙げるので、ラースは即座に口を噤んだ。少年が困惑した様子でラースのマントを掴む。
「名がない可能性は、もとより想定していた。そしてまた、名付けをすることも保護したときに決めていたことだ」
無意識に顔を見合わせるラースとニコライに、少年はおろおろとふたりを交互に見遣る。
アーデルベルト王が立ち上がり、椅子の前に腰を屈めた。少年と視線を合わせるためだ。
「どれ。顔をよく見せてごらん」
手を差し出す王に、ラースは少年の背中を押して促す。少年はどぎまぎと手を組んだり離したりしながら、アーデルベルト王に歩み寄った。王は優しく少年の頬に触れる。
「ふむ、綺麗な瞳をしているな。辛い環境を生き抜いてきた者の目だ。お前はきっと強くなる」
少年が目を泳がせるので、アーデルベルト王はまた穏やかに微笑んだ。そして少年の肩に手を遣る。
「今日からお前の名は“エメ”だ」
少年を光が包み込んだ。強く目を瞑る彼を支えるアーデルベルト王の手のひらから伝わる熱が体の中を巡る。風にかき消されるように光が散ると、少年は辺りを見回した。
――これが【名付け】……。
ラースも、この目で見たのは初めてだった。
それは魂を魔力回路で繋ぐ契り。しかし名付けられた者を縛るものではなく、この場合はアーデルベルト王の魔力を少年――エメに注ぐためのものである。ラースもなんとなく気付いていたことだが、エメの魔力はとても不安定だ。それをアーデルベルト王との契りによって安定させる。そうすることで、魔法やスキルの獲得に繋がるのだ。
アーデルベルト王が退くと、クリスタ王妃がエメを手招きした。クリスタ王妃は先日、懐妊が発表された。座っているほうが楽なのだろう。クリスタ王妃は、近寄ったエメの肩に優しく手を添え、微笑む。
「あなたのスキル【癒し手】は本来、大量の魔力を消費するものです。癒し手はその力を使うことで、魔力の代替として生命力を消費する……。いままでの年月から考えるに、寿命のおよそ二十年分をあなたは消費しているのです」
ラースとニコライは顔を見合せたが、エメはひとつも表情を変えない。おそらく、わかっていたのだろう。
「エメ。手に触れても構わないかしら」
優しく問いかけるクリスタ王妃に、エメは両手を差し出した。王妃はふわりとその手を両手で包み込む。
「心優しき子。もう何にも脅かされることのない安らかな暮らしを。あなたに、神のご加護がありますように」
その【祈り】は静かにエメに降り注ぐ。天からの慈雨のようにエメの血液を巡り、鼓動に穏やかに呼応する。星が瞬いた。それは深く、強く、確かにエメの魂へと刻まれた。
重く苦しかった空気が一変し、温かささえ感じられる。その瞬間、エメに与えられたのは祝福だった。
「……さあ、エメ。顔をよく見せて」
クリスタ王妃は優しくエメの頬に触れる。エメの瞳を覗き込み、慈愛に満ちた微笑みを向けた。
「あなたの辛い運命は過去のもの。何にも縛られず、あなただけの道を歩むのです。ゆっくりと、しかし強く、穏やかに。大丈夫。私たちがついていますよ」
エメは強く頷いた。