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 遠慮がちなノックの音でラースは目を覚ます。少年を見ると、まだ穏やかに眠っている。左手は握られたままだ。

 音を殺しながら、ニコライが部屋に入って来た。いつもへらへらしている彼だが、さすが国王直属騎士団員と言える。ドアがかすかに軋む音以外はなんの音もしない。

「先輩、寝てないんスか?」

 少年に握られた左手を見て、ニコライが心配そうに問う。

「寝た」ラースはあくびを噛み殺す。「多少な」

「手ぇ握られたままっスか?」

「悪いか?」

「いやいや。よく眠れたな~と思っただけっス」

 睨み付けるラースに苦く笑い、ニコライは少年を見遣る。

「まだ起きなそうっスね」

「ああ」

「特に予定はないですし、ゆっくり寝させてあげましょう」

「起きたら食堂に連れて行く」

「はい。準備しとくっス」

 サッと簡素な敬礼をして、じゃ、とニコライは部屋を出て行く。相変わらずなんの音もしない。へらへらしていなかったらその有能さも認められるものを、とラースは笑う。

 少年が起きたのは、それから三十分ほどあとだった。ぼんやりしたまま起き上がると、ラースの手を握り締めたままだということに気付いて慌てて手を離した。

「よく眠れたか?」

 ラースはまたあくびを噛み殺しながら訊く。少年は申し訳なさそうにしながら頷いた。

 まるで見計らったように、ユリアーネが部屋に入って来る。おはようございます、と恭しく辞儀をするユリアーネに、少年は深々と頭を下げた。

 ラースが背中を押して促し、少年はベッドから降りる。それからはあっという間だった。ユリアーネはさすがとしか言えない素早い動きで少年を着替えさせ、ニコライに言われたように整髪剤を使って少年の髪を整える。立ち上がった少年は、それこそ「坊ちゃん」と呼ばれるのが似合う出で立ちをしていた。どこか照れ臭そうにしている。

「食堂に行くぞ」

 その言葉に少年が複雑な表情になるのも構わず、ラースは片腕で彼を抱き上げる。

「食うかどうかは別として」ラースは言う。「食堂でニコライが待ってる。行ってやらないと可哀想だろ?」

 少年が遠慮がちに笑った。多少なりとも心を開いてくれているということなのかもしれない。


 食堂に行くと、メイド長と話していたニコライがふたりを振り向いてひらひらと手を振った。

「おはよう、坊ちゃん。待ってったっスよ~」

 メイド長は恭しく辞儀をする。ラースの腕から床に降りた少年は、深々と頭を下げる。ニコライも真似して辞儀をした。ラースは三人に笑いつつ、壁に寄り掛かる。

「さあ、坊ちゃま。今日はマドレーヌを焼いてみましたよ」

 そう言ってメイド長がテーブルに置いた皿には、小さなマドレーヌが乗っている。少年は興味を惹かれたようだ。

「今日は小さめに作りましたからね」

 さあさ、とメイド長に促されて椅子に腰を下ろし、少年は不思議そうに小さなマドレーヌを眺めている。おそらく、こういった食べ物とは無縁な生活をしていたため、その正体を掴み兼ねているのだろう。警戒こそしていないもの、なかなか手を付けようとしない。

「気合い入れすぎじゃないっスか?」

 ニコライがそう言って笑うと、メイド長も上品に笑う。少年はきょとんとふたりを見上げた。

「美味しい物を食べさせて差し上げたいですからね」

「坊ちゃん。メイド長のマドレーヌは絶品っスよ」

 ニコライが肩に手を置くと、少年はようやくマドレーヌを手に取る。意を決して口の中に放り、表情を明るくした。

「ね? 美味しいでしょ?」

 なぜか得意げに言うニコライに、少年はこくこくと頷く。

「徐々に、胃を食べ物に慣れさせていきましょうね」と、メイド長。「いっぱい食べたら強く大きくなれますよ」

 少年はまたこくこくと頷いた。

 彼はおそらく、早いうちにここの生活に馴染めるのではないか、とラースはなんとなくそんなことを考えていた。もともと素直な性格のようだし、過酷な環境に置かれていた割には捻くれていない。ラースの周りには幸い、優しいと言われる人々が集まっている。きっと傷だらけであろう少年の心を癒すのに、彼らはちょうどいいのかもしれない。

 マドレーヌを三個。少年にしてはよく食べたほうなのではないかとラースは思った。メイド長も、お粗末様でした、と嬉しそうに微笑んでいる。

「さあ、坊ちゃん。今日は何をするっスか?」

 食堂を出ると、ニコライがそう問いかけた。少年は考え込むような仕草をしたあと、外を指差す。

「中庭っスか?」

 少年はこくこくと頷いた。中庭が気に入ったらしい。

 八年ものあいだ、暗く狭いところに押し込められていたため外に出られるのが嬉しいのだろう、とラースは思った。あの重苦しい空気の流れる部屋で昼もなく夜もなく、時間が過ぎるのを待つだけの日々。外への憧れは人一倍にあっただろう。太陽もまともに浴びていなかったと思われる。

 中庭に出てラースの腕から降りると、少年は意気揚々と駆け出した。垣間見えた子どもらしさにニコライが笑う。

 庭の奥から、サバの鳴いている声がした。少年が一目散に走って行くので、ラースとニコライは苦笑しながらそれに続く。サバが奥から走って来て、少年の足元に寄りぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねた。少年はすっかりサバに慣れたようで、ふわふわを堪能するように抱き締めた。

「すっかりサバは坊ちゃんのお気に入りっスねえ」

「サバは人懐っこいからな」

「まさに可愛いと可愛いの掛け合わせだなあ……」

 ニコライがつくづくと言ったとき、背後に気配を感じてラースは視線を遣った。彼らに歩み寄って来るのは、ラースより頭ひとつ分ほど背の低い黒髪の青年。手に持っている書類に視線を落としたまま、彼のもとへ来る。

「エミルくん」と、ニコライ。「どうしたんスか?」

「彼が例の子どもですか?」

 そう問いかけつつも、彼の視線は少年ではなく書類に注がれている。彼はふたりとは隊の違う若き騎士エミルだ。

「そっスよ」

「名はあるのですか?」

「さあ」ラースは言った。「本人からは聞き出せていない」

「そうですか」エミルは興味がなさそうに言う。「明日、国王陛下と王妃殿下との謁見なんですよね」

「ああ」

 エミルがようやく顔を上げ、少年を無感情に眺める。少年はサバと戯れている。もしも声が出せたなら、楽しげな笑い声が聞けたかもしれない。

「…………」

「坊ちゃんはサバと遊んでいるときはあんなに笑うんスけど、それ以外はまだ冴えない顔をしてるっスね」

「無理もないでしょうね」と、エミル。「確か、八年ほど盗賊団に捕らわれていたんでしたっけ」

「そうだな。いまはおそらく十二歳だ」

 エミルは目を細める。彼はあまり他人に興味を持たない。少年にも無感情な瞳を向けているが、何を考えているのかはわからない。おそらく同情という感情はないだろう。

 エミルはまた書類に視線を戻す。

「声が出ないことは、国王陛下と王妃殿下にはお伝えしてあります。あとは、少しでもマナーを身に付けさせておいてください。お辞儀もできないのでは、さすがに困ります」

「そうだな。あとで教えておく」

 軽く会釈をして、エミルはふたりに背を向けた。その後ろ姿を見送り、ニコライが声を潜めて言う。

「珍しいっスね。エミルがわざわざ見に来るなんて」

「多少、興味を持ったんじゃないか? あいつは【鑑定】ができる。珍しいスキルは見ておきたいのかもしれない」

「でも【鑑定】はしてなさそうっスよ?」

「勝手にするようなやつではないさ」

「確かに」

 エミルは知識を得ることに喜びを覚えるタイプの人間で、そのために【鑑定】を使うことはよくあることだ。しかしそれは他人の領域に踏み入るスキルでもある。エミルは無遠慮に、不躾に他人の領域に踏み込むような人間ではない。

「それにしても、お辞儀っスか。まあでも、この国のお辞儀って簡素だし、坊ちゃんもすぐできますよね」

「簡素だからこそ、できていないと目立つぞ」

「そっかあ……。できてないと俺らの責任っスよね」

「そうなるな」

「うう……責任重大っスね……」

 アーデルトラウト王国での「辞儀」と言うと、男性は胸に右手を当て体を四十五度、前に倒すというものである。女性はスカートをつまみ、左足を引き同じように体を前に倒す。どの場面でもこの辞儀で済むため、他国に比べると簡素なものだ。角度に関して厳密に問う者はいないが、子どもの頃からの教育で身に付くものである。

「でも、思ったんスけど」と、ニコライ。「国王陛下の前だと跪くから、お辞儀する必要ないんじゃ?」

「はじめは跪くだろうが、おそらくあいつは国王陛下、王妃殿下にお声を掛けられるだろう。そのときに必要になる」

「なるほどっス」

 少年がサバと遊ぶのをやめ、ふたりのもとへ戻って来る。

「疲れたか?」

 ラースが問いかけると、少年は遠慮がちに頷いた。サバはまだ遊び足りないような顔をしているが、どういうわけかサバは人間の機微に敏い。見送るように彼らを見ていた。

 少年を片腕で抱き上げると、サバがラースの足元に寄って来る。頭を撫でてやると、満足げに彼らをあとにした。

「サバは捨て犬だったんスよ」

 部屋へ戻る道すがら、ニコライが言った。

「見つけたときは体中が傷だらけで、雨に濡れてたんで弱ってたんスよね。それを国王陛下が見つけて拾って来たんスけど、いままでそんな動物はいくらでも見てきたはずなのに、なぜかサバを拾って来たんスよね」

 サバは人間から酷い扱いを受けたような、そんな傷がたくさんあった。体は痩せ細り、あと数時間も放っておけば死んでいたかもしれない。王がサバを拾って来たときは、周囲の者はてんやわんやだった。それまで、王宮に動物はいなかったからだ。王宮に住み込みで働いている者がほとんどで、動物を飼った経験のない者が多かった。王はサバを大切にしていたため、使用人たちは必死に動物の飼い方などを調べて回った。そうして動物を飼育するということに喜びを覚えていった者も多く、使用人たちも次第にサバに惹かれ、いまでは人気者だ。

「最初はサバのこと、可哀想な子だなーと思ってたんスけど、いまのサバはめちゃくちゃ幸せそうなんスよね」

 ね、と笑うニコライに、少年は小さく頷いた。

 もしサバと同じように少年が幸せを掴むことができるなら、それ以上に良いことはない。そのために自分たちが力を尽くそう、とニコライはそう言っているようだった。


 部屋に戻り少年を休憩させたあと、ラースとニコライはさっそく今日の任務に取り掛かることにした。

「このお辞儀は簡単っス。見ててくださいね」

 ニコライは右手を胸に当て、体を前に倒す。

「これがお辞儀っス。基本的に、身分の低い人が先にお辞儀をするんス。坊ちゃんは立場的に平民っスから、自分が先にお辞儀するんスよ。使用人たちは向こうが先っスけど」

 少年は、わかった、というように頷いた。それから、ニコライの真似をして辞儀をして見せる。

「ちょっと体を倒すのが深すぎっスね。ここ」ニコライは少年の肩を押さえる。「ここまででいいんスよ。んで、左手は体にぴったりつけるんス」

 少年は頷いて、また辞儀をした。

「良い感じっス。顔は下を向いたままでいいっスよ」

 少年は真剣な表情で辞儀を繰り返す。様になってきたところで、ニコライは満足げに微笑んだ。

「そんな感じっス! あとは実践あるのみっスね。自分より偉いっぽい人に会ったら、とりあえずお辞儀するといいっスよ。先手必勝っス」

 最後の一言は違うのではないだろうか、とラースは思った。しかし、あながち間違いではないのだろうか。

 そこに、洗濯した衣類を持ったユリアーネが入って来た。

「ユリアーネちゃん、いいところに」

「はい?」

「坊ちゃんのお辞儀の練習に付き合ってほしいっス」

「かしこまりました」

 ユリアーネは持っていた衣装をドレッサーに置き、少年に向き合う。少年は少し緊張した面持ちになった。

「いいっスか? この場合だと、ユリアーネちゃんのほうが身分が下っスから、ユリアーネちゃんから先にお辞儀をするんス。まあ、自分から先にしちゃってもいいんスけど」

 ニコライが目で合図すると、ユリアーネはメイド服のスカートをつまみ、左足を引いて頭を下げる。少年が覚えたての辞儀をすると、ユリアーネは小さく拍手をした。

「完璧です、坊ちゃま。素晴らしいお辞儀ですよ」

 ユリアーネの賞賛に、少年は満足げに笑って見せる。安心したような色が湛えられていた。

「慣れたら条件反射みたいにできるようになるっスよ。でも、使用人と挨拶するくらいだったら、頭を下げるだけでもいいっス。そのほうが向こうも気が楽でしょうしね」

 少年はこくこくと頷く。使用人同士で辞儀をして挨拶をすることはない。彼は「癒し手」であるが、身分としてはただの平民だ。同じく平民であり身分の低い使用人がいちいち辞儀で挨拶をしては気が疲れてしまう。

「国王陛下や王妃殿下の問いかけにお辞儀をすることで、肯定の返事の代わりになることもあるっス。でもお辞儀ばっかりしてても失礼なんで、ここぞというときっスね」

 ここぞというとき、ということを少年が理解できるとは思わないが、追い追い覚えていくしかないだろう。

「ちなみに、変形のお辞儀というのもあるんスよ」

 得意げに言うニコライに、少年は首を傾げた。

「歌や楽器を披露するときに使うお辞儀っス」

 見ててください、とニコライは姿勢を正した。右手を胸に当て、左手を広げそれに合わせて右足を引き、少しだけ深く体を倒す。この体の角度も感覚である。

「こんな感じっス。一応、覚えておくといいかもっスね」

 この辞儀は、優雅な芸術の際にいつもの辞儀では堅苦しいということで決められたものだ。観客が拍手をする合図でもある。辞儀を待たずに拍手をするのは礼儀に反する。

「坊ちゃんは覚えることがたくさんっスけど、徐々に覚えていけばいいっスからね」

 少年は少しだけ明るく微笑む。いままで触れてこなかった文化に、楽しんでいるように見えた。


   *  *  *


「しっかし、ラース小隊長もニコライも大変だな」

 そんな声が聞こえてきて、エミルは書類に落としていた視線を声のほうへ向ける。剣の手入れをしながら話しているふたりの騎士は、確かラースの隊の部下たちだ。

「子どもの世話係なんてな」

「騎士にやらせるとしても、下っ端の仕事だよな」

 そう言ってふたりは笑う。もしこれをラースとニコライに聞かれていたら、ふたりは大目玉を食うことだろう。聞きようによっては陰口のようにも聞こえる。

「では、あなた方の仕事ということでしょうか」

 エミルが口を挟むと、ふたりの表情が固まった。

「エ、エミル……いたのか……」

 口元を引きつらせる騎士に、エミルは冷たい視線を向ける。細められたエミルの目に怯まない者はいない。

「世話係は侍女の役目です。騎士であるふたりの役目は護衛だと思いますが?」

「でもさ……食堂に連れて行ったり、庭で遊ばせてやったりしてるだろ? 護衛の域を超えてると思うんだが……」

「ではあなたは、あの子どもがお腹を空かせていても、外に出ることを我慢していても、放っておくのですね?」

「え……」

「ずいぶんと薄情な方なんですね。まあ、あのふたりがお人好しすぎるとも言えますが。世話係であろうと護衛であろうと、困っている者に手を差し伸べるのは当然だと思いますが。あなた方の発言は騎士道に反すると思いますよ」

 冷たく言い放ち、エミルはふたりに背を向けた。

 なぜわざわざ口出しをしたのだろう、と自分の行動に内心で首を傾げる。他人が他人のことをどう思おうと、自分には関係のないことだ。

 ラースとニコライがあの少年の護衛をすることに疑問を懐く者も少なくない。そのたびに咎めていてはきりがないことはわかっている。それなのに、なぜ庇うような真似をしてしまったのだろう。自分がよくわからない。

 騎士の基本は「ノブレスオブリージュ」のはすだ。平民であるあの少年を王宮騎士が助けるのは当然のこと。エミルは、おそらくそれが気に入らなかったのだろう、と思った。


   *  *  *


 夜中、うなされていた少年が起き上がるのでラースは目を覚ました。ランタンに火を灯すと、少年は肩を震わせる。そばにラースがいることを認めると、ひとつ深く息を吐く。

 盗賊団に捕らわれていたときのことを夢に見るのだろう。目を覚ましたときに真っ暗だと、あの砦に戻ってしまったような気になるのかもしれない。

「俺がここにいる。安心して眠れ」

 肩を押し、布団の中へ促す。少年はようやく安堵したようにゆっくりと横になる。ラースが優しく頭を撫でてやると、静かに目を閉じた。呼吸に次第に落ち着いてくる。

「明日は謁見だ。寝不足の顔では呆れられてしまうぞ」

 少年は小さく頷いた。ややあって、寝息を立て始める。

 こんな精神状態で謁見をこなせるのだろうか、と独り言つ。しかし、国王陛下なら、或いは……。

 自分にできることは、少年が不敬に問われないよう手助けしてやることだけだ。だが、国王陛下は寛大な心の持ち主だ。年端もいかぬ子どもの首を簡単に刎ねることはないだろう。あとは恥をかかないようにしてやるだけだ。

 気を抜くことはできないな、とラースは息をついた。

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