9.侯爵令嬢5
『ヒロインちゃんったら、そんなことやっちゃうのね、わーお!』
魔導書の反応に、セシリアは思わず笑う。
こうやって報告することで、魔導書がどんなふうに受け取るだろうと思う癖がついたからか、アンジェラの姿を見ても、ひどくみじめな気持ちにならずに済んでいる。
ハロルドとデートしたという噂を聞き、今回もまた恋仲になるのかもしれない、そうなったらまた陥れられるのだろうかと取り乱すことなく、冷静に、品性を持って振舞うことができていた。
だから、アンジェラの行動が珍妙であるようにすら思えていた。もしかすると、ハロルドと婚約しなければ、処刑を回避することができるかもしれない。
ありがたいことに、魔導書は攻略対象者という特定の者たちについてだけでなく、社交についてのアドバイスもくれた。
セシリアは男性から魅力的に映るように振舞うことが苦手である。社交界では「緊張している」ことをアピールするため、指先を冷たくするのに冷石を握ることもあると聞く。
そこまでしなければならないのだ。セシリアは絶望的な気持ちに陥りそうになったものだ。
『アンタ、どんな話題を持ちかけているの?』
「え、ええと、お天気の話とか、」
『ダメダメ!』
食い気味に全否定された。
『興味を持ちそうな話をしなさいよ。あ、でも、領地経営の話とかはだめよ』
セシリアは思わず言葉に詰まった。
『アンタ、もうすでにやらかしたのね?』
「……はい」
話す内容が分からないのだ。セシリアとて、魔導書が伝えるように、相手も興味を持ちそうな話題を、と考えた。考えた結果がそれだったのだ。
『ダメよう。男ってのは自分の領域だと思っているところにオンナに踏み込まれたくないものなのよ』
「そういうものなんですか!」
なるほど、そうなのか。勉強になる、とセシリアは心のメモにせっせと記録する。
『アンタが頑張っているのは知っているわよ。カーライル侯爵家って数代続いて宰相を輩出しているんですってね。それを次代にも継承させようとして、弟君が独り立ちできるまでになにかあった時のつなぎが務まるようにって考えているのよね』
セシリアの拙い話を根気よく聞き、ときには引き出し、彼女の気持ちに寄り添って温かい言葉をかけてくれる。たまにバッサリと切って捨てられることもあるけれど。
魔導書が言う弟君ことギルバートは本当に頭が良くて視野が広い。だというのに、病弱に生まれついてしまった。
『ううん、でも、後はなにがあるかしら? アンタ、ほかに興味を持っているのはなに? 特技は?』
「薬草のことでしょうか? 成分の蒸留の仕方とか」
『その話題にはノッてこなさそうよねえ』
「そ、そうですね」
しかし、その話にノッてくる者がいたのだ。なんとそれが公爵子息だった。
公爵子息がフェアクロフ公爵の名代として父カーライル侯爵を訪ねて来た。
彼に関しては攻略対象者であるとして魔導書から、そのほか婚活対象者として母から情報を得ている。
魔導書曰く、『コウリャクもコンカツも同じようなものよ!』なのだそうだ。とすると、「対象者」とは、「標的」と言い換えることができるのだろうか。
公爵子息は喉が弱いという情報をもとに、ゴマノハグサの根を乾燥させたものを使ってお茶を淹れた。
高位貴族をもてなすのに執事が対応したのだが、その際、父に耳打ちして伝言してもらうことにした。
おそらく、父は「娘は息子のために薬草を研究しているので、飲んでも大丈夫ですよ」とでも言ったのであろう。喉の調子を整えるお茶で、かすかに不思議な匂いがし、わずかに甘く、後味が少しばかり苦くなる。高位貴族の子弟として得体のしれないものを飲食するのには抵抗があるだろうが、あらかじめ父がそう説明すればそれで納得するだろうと思っていた。さらにいえば、公爵子息の従者が毒見するだろう。
セシリアとしては、薬草茶を出すことでさりげない気遣いを見せ、存在をアピールすることができたのではないかとそれだけで満足していた。だから、父との会談が終わった後、呼び出されるとは思わなかった。
なぜか、父の隣に座って公爵子息と対峙することになった。
公爵令息は銀色の髪に青い瞳、淡々とした表情によって、冷たく鋭い雰囲気を持っていた。
魔導書から聞いていた通りのとてもうつくしい容姿だ。彼についてあれこれ聞いていたことが功を奏した。でなければ、美貌に圧倒され、貴族の微笑をかろうじて浮かべるだけで、なにひとつしゃべれないままだっただろう。
どうやら、公爵子息は薬草茶を大層気に入ったらしい。
「他国ではより性能の良い蒸留器が開発されていますよ」
そして、なぜか薬草から成分を抽出する器具について話が弾んでいたのだ。セシリアとしても、公爵子息が蒸留器について知っていることに驚きを隠せないでいた。それどころか、最新機器のことを教えてもらったのである。
「そんな調整ができるのですね!」
思わず目を輝かせてやや身を乗り出してしまった。貴族令嬢にあるまじき振る舞いである。
「もしや、この薬草茶もカーライル侯爵令嬢ご自身が手ずから?」
「さようにございます。恥ずかしながら、弟の薬を作っておりますものですから」
細かい指示を出すよりも自分でやった方が早いと思ったのだとセシリアは恥ずかしそうに答えた。
「その、迂遠と申しますか、そちらの方が手早でして」
「分かります」
フェアクロフ公爵子息の返答は短かったが、しみじみと頷いた。
「分かっていただけますの?」
こんなところに賛同者がいた、とばかりにセシリアは嬉しくなった。
そう、彼女はこのとき、完全に婚活や攻略対象者などということを忘れていたのである。
「ええ、わたしもつい自分でやった方が早いと思ってしまうことが多々ありまして」
ただ、それではいつまで経っても部下が育たないと公爵子息は続ける。
「ご立派ですわ」
セシリアがそう言うと、フェアクロフ公爵子息はふ、とため息交じりに微笑んだ。硬い結晶が緩んだ瞬間である。
「わたしの場合は部下育成も仕事の一環ですが、そちらは弟御の薬を作るのですから構わないでしょう」
「まあ、過分なお言葉、痛み入ります」
なんて良い方なのかとセシリアもまた、微笑んでいた。
父カーライル侯爵はさすがに宰相を務めるだけあって機を見るに敏で、にこやかにお茶を飲みつつ、「後は若いふたりで」会話を続けるのを見守っていた。きっと、事あるごとにセシリアの母である妻に娘の婚約者についてくどくど言われているに違いない。
「カーライル侯爵令嬢は素晴らしい方ですね」
「そんな、はしたない振る舞いでお恥ずかしい限りですわ」
取ってつけたようなお世辞ではない声音に、セシリアはしどろもどろに返す。
「まさか。わたしの妹など、蛙をベッドに投げ込んできたことがあるくらいなのに、あなたは実に聡明だ」
「まあ、フェアクロフ公爵令嬢さまこそ、ご令嬢の中のご令嬢ですのに」
あのいつも毅然としたうつくしい令嬢が、とセシリアは唖然とする。蛙など、触るどころか見ただけでも悲鳴を上げそうではないか。
「もちろん、子供の時分のことですけれどね。しかし、妹に困らされたときに話してごらんなさい。わたしから聞いたと言えばよろしい」
「ふふ、ありがとうございます」
冷たく硬い雰囲気はどこへやら、フェアクロフ公爵子息は珍しく茶目っ気を出し、セシリアも笑い交じりで礼を言った。
そんなふうにして、初めての出会いは和やかに済んだのである。