5.侯爵令嬢3
セシリアは裏切られた記憶が生々しく残っているため、ハロルドやアンジェラとなるべく接触したくない。会話どころか会うことすらしたくはない。しかし、今の彼らはまだセシリアを裏切っていないのだ。
そこで考えてみる。
確かに今回は上手く立ち回れば裏切らないかもしれない。では、まずは婚約しないことを目標にすべきではないか。
そうなると、自然とハロルドとアンジェラは恋仲になるかもしれない。アンジェラはすでにセシリアの友だちというポジションについているため、ふたりがくっついたら悲劇をふたたびなぞるかもしれない。
考えれば考えるほど、混乱するが、まず優先すべきことを行わなければならない。
「まずは、ハロルドと婚約を結ばないように行動すべきかと思うのですが」
幸い、まだこの時点ではイームズ侯爵家から申し出は届いていない。セシリアがそう言うと、魔導書の白紙に、すらすらと古語で流れるように文字が浮き上がった。
『うーん、そうねえ。まずはアンタのおトモダチが誰を狙っているかよね』
セシリアは戸惑った。
「誰を狙うとは? ハロルドだけではないのでしょうか?」
『あ、そこからか。そうよね。まあ、聞いてちょうだい』
アンジェラはこの王国内でも見目麗しいと評判の殿方数人たちとの恋愛ゲームを繰り広げるだろうと魔導書が予言した。セシリアはめまいを感じた。
しかし、それは序の口だった。
『まず、エドワード・エントウィッスル』
「第二王子殿下ではありませんか!」
魔導書が記した名前に、思わずセシリアは声を上げる。
『ま、王道よね。メイン攻略対象よ』
メインで攻略するというのか。セシリアはくらくらする額に手の甲を当て、逆の手で胸を押さえる。
『アラアラ、大丈夫? 続きはもう少し後にする?』
「い、いえ、大丈夫です。続けて下さい」
その後もそうそうたる名前が続く。
ジェイラス・フェアクロフは公爵子息と名高い一方で「氷の」という形容詞が前につくほど冷淡である。
エリオット・ガードナーは伯爵子息で高名な騎士だ。
そして、ハロルド・イームズは言わずと知れたセシリアの婚約者である。
『それとねえ、これは言うべきかどうか悩んだんだけれど』
そう前置きをして、ギルバート・カーライル、セシリアの弟の名前がつづられた。
「ギルバートまでが……」
『あとは隠しキャラがいるんだけれど、探すのがタイヘンだから、それは後で良いわ』
とにかく、今挙げた者たちに対し、アンジェラがどんな態度を取っているのかを探って来るように言われた。
『まずはそこからよ!』
こうして、セシリアは苦手な茶会や夜会に片っ端から出席することになった。情報収集のためだが、気が重い。唯一の友だちはアンジェラだったのだ。天真爛漫で可愛らしく、セシリアにはない美点をたくさん持っていた。
いや、今は考えるのはよそう。
母はセシリアの変心を不思議そうにしつつも歓迎した。そうしてみれば、母はあれこれとアドバイスをし、ともにドレスや小物を選んでくれた。
「良いこと、セシリア。貴族の子女のたしなみとして、社交界でのつながりを持つことは大事なことですよ」
「はい、お母さま」
セシリアはしおらしく返事をしながら、それとなく、魔導書が挙げた「コウリャクタイショウシャ」たちの情報を集める。まずは身近な相手からだ。母は高位貴族夫人だけあって、それなりの情報を持っていた。
社交の現場へ向かう馬車の中でせっせと情報収集をしていると、いつになく母となごやかな雰囲気で過ごすことができた。これはこれで良いことのように思われた。今まで、自分が苦手としていたことに口うるさく言われたがために忌避していたが、母の言うとおり、社交の場に出席するのは貴族の義務でもあるのだ。
さて、情報収集すべき者たちのうち、ふたりはすでに婚約者がいる。
第二王子殿下にはフェアクロフ公爵令嬢が、ガードナー伯爵子息にはコフィ伯爵令嬢がいる。
これらは母から仕入れた情報だ。聞いたときにはめまいがした。だから、「あなたも早く婚約者を見つけなさい」という言葉を聞き流すことができた。しかし、まったく幸いなどとは思えなかった。
婚約者がいるにもかかわらず、アンジェラは彼らを恋愛対象者に選ぶだろうか。
そんな疑問はすぐに氷解した。
アンジェラは明らかに彼らに近づこうとしていたのだ。
「エリオットさま! わたくし、エアハート子爵家のアンジェラと申します。どうぞアンジェラとお呼びくださいませ」
アンジェラは豊かな胸の前で両手を握り合せ、小首をかしげてそう言った。組み合わせた手が胸をつぶす形となって、存在感がいやましている。
セシリアは現実逃避気味にそんな細かいところに注視していた。
アンジェラが見上げる大柄な男性はガードナー伯爵子息エリオットだ。茶色い短い髪に緑色の瞳をしている。魔導書が言っていた通り、見目麗しい。
まず、第一に、初対面の爵位が上の家門の異性に女性の方から声を掛けるのはご法度だ。さらには、彼は婚約者であるコフィ伯爵令嬢をエスコートしている最中だ。何人かで集まって談笑している最中でもアウトだが、片方だけに話しかけるのはいかがなものか。
そして、勝手に相手の名を呼び、先方にもそうすることを要求する。
次々にアンジェラの問題点が脳裏に羅列される。
コフィ伯爵令嬢は温厚な人柄なのか、特に気を悪くしたふうではない。ガードナー伯爵子息はアンジェラにひと言ふた言なにか言って、ふたりは行ってしまった。なお、なんと言ったか聞き取れないのは距離があり、その間に人がいるからであって、アンジェラの声が聞こえる方がおかしいのだ。つまり、大声を出したのだ。そうしてしまえば、相手は要求を呑むとでも思ったのだろうか。
そんなことを考えていると、アンジェラを見失っていた。セシリアは慌てて周囲を見渡す。夜会で見かけてその姿を見るのもつらかったというのに、なぜか必死で探す自分にちょっとばかりおかしみを感じる。
アンジェラを見つけ、近づくために踏み出しかけた足が止まる。
ガードナー伯爵令息はどこへ行ったのか、ひとりでいるコフィ伯爵令嬢が扇を持ちながら歩いて行く。ちょうどアンジェラの横を通り過ぎたとき、それは起こった。
「髪飾りが!」
悲痛な声を出したのはアンジェラだ。彼女のドレスの裾のすぐ傍の床の上に、きらりと光るものがある。
「どうしました?」
いったん離れていただけだったのだろうガードナー伯爵令息が足早にやって来て、コフィ伯爵令嬢の傍に立つ。
「その、扇が当たってわたくしの髪飾りが落ちてしまって、」
言って、アンジェラは困ったように髪飾りと扇を見比べる。コフィ伯爵令嬢の持つ扇とを。
セシリアは意を決してすすす、と音もなく移動し、三人が見やすい位置を陣取った。アンジェラの落ちた髪飾りは、遠目にもばっきりと割れているのが分かった。