1章(2) ―― 魔術覚え書き
地下三階に降りた一行を、まず出迎えたのは、ひんやりとした空気だった。
一階ごとの天井が高い図書館では、地下三階といえど、結構な深さがある。ガレスはいつも、地下三階の空気を感じると神話に言う冥界へ降りたような気になる。
目指す書架は散らばっているから、カシウスとガレスが、経験豊富な司書補に相談してルートを組んだ。階段から右手に向かって<魔術覚え書き>と他一冊、一度階段に戻り、左手に向かって<陰陽>と他二冊だ。
カシウスが、快活な声で一行に檄を飛ばす。
「よーし、行くぞ。ちゃんと緊張してるか?」
笑って見せる。笑顔が返せない三級司書の背をばんばんと叩き、緊張と弱気を追い出す。全員、背には、背負うタイプの司書鞄一型を背負っている。
カシウスが一団を率いる時の儀式のようなもので、ガレスは何度も背を叩いてもらった。
今でも、して欲しいと思ってしまう。流石に、三級司書たちの前でそんな無様は見せられなかったが。
地下三階を歩き出す。
魔術式のランプが稼働している。炎よりも暖かみが少ない、熱のない灯りが書架を照らしていた。消えたランプを見つけたら、戦闘中以外は必ず灯すことも司書の仕事だ。
「よし。折角だ、ガレス。今から回収に行く<魔術覚え書き>について講義してやれ」
「勉強会をここでやるつもりですか……!」
「良いだろ、ほらほら。三級司書に教えるのも経験だぜ」
うぐ、とガレスが唸る。勇羊族のシンボル、硬いはずの巻き角さえ、少ししおれて見えた。それでも、カシウスの面白そうな視線と、三級司書たちの期待の視線からは逃れられない。
<魔術覚え書き>について、司書として知っておくべき事柄を考える。魔術師ならば突っ込んだ話もできるだろうが、思考の中で広げるメモには、一般的な事項が並んでいるだけだ。メモの隣には、以前読んだ実際の<魔術覚え書き>のイメージを置く。
「ええと……<魔術覚え書き>。テイラターム師による【入れ子】の魔術書。【入れ子】の元は、弟子であるニザレが記した、<テイラタームの筆跡>」
写本が複数あるくらいには、魔術関連ではメジャーな書籍だ。三級司書でも名前を知っている者は多いだろう。
「表紙は『レイトース』という正体不明の獣の革で、紫がかっている。表紙、裏表紙の隅は銀金具。留め金はない。黒い糸で左側を綴じてある。ページは犢皮紙に近い」
本の説明は外観から。司書は、タイトルと外観をまず結びつける必要がある。
ガレスは【現実】を得意とするだけあり、手に持った時の五感をベースにしたオーソドックスな記憶術を修めている。手のひらを、本を持つ形にして胸の前へ。思考の中で、本棚から取り出した本を、確かに握り締める。見た目、重さ、手触り。音や匂いも、記憶のトリガーとして重要だ。
「内容は、精霊系魔術の基本的な原理と、原理から現実へ応用する際の覚え書きが中心。全三巻、一巻は魔術の歴史と概説、他二巻は各精霊系魔術の各論となっている」
<魔術覚え書き>は、ガレスも一度読んだことがあった。魔術をはじめとした【幻想】の投射は、【現実】のそれよりも、習得が難しい。結局読み込みきれず、【幻想】は苦手のままであることが思い出されて、語る言葉が少し早くなる。
「原理・応用の構成で書かれているため、精霊系魔術の本の中では理解しやすく、初学者でも習得しやすい……ただし、テイラターム師のメモは高度な示唆を含む。以上です」
三級司書のうち、三人から吐息が漏れた。勉強会の時のような拍手は流石に要らないが、反応をもらえてありがたい、とガレスは会釈する。反応しなかった一人は、【幻想】が得意と自己紹介していたから、既に知っている内容だったのだろう。
進む足を止めて、カシウスが一行を振り返る。狼の耳が、敏感に動いている。
「中々だ、ガレス。前に勉強会で司書長に泣かされた時より、随分勉強したな」
「泣いてません。やめてください」
「褒めてるんだが……。さて、もう少し進むと【物語】とかち合うぞ」
ガレスは何となく気付いていたが、三級司書たちには予想外だったらしい。緊張で身がすくむのが、ガレスにも見えた。
「グリュー、ナリン、お前たちは前衛だ。後衛を守る位置で、【物語】の動きを抑えること、身を守ることを第一に考えろ」
「は、はい」
「了解ですッ」
「ゴーロ、スイ。お前たちは後衛。【物語】の正体を看破して必要な投射をするのが仕事だ」
「はい」
「解ってます」
「良い返事だ。俺が合図するまでダイスは投げるなよ」
カシウスが的確に指示を出す姿は、ガレスにとっては見慣れた背中だった。群れで狩りをする狼の気質を、賢狼族であるカシウスは受け継いでいるのだろう。彼が二級司書だった時代から、指揮と後輩育成能力は誰もが一目置いていた。
書架の向こうから、獲物の匂いを嗅ぎ取った【物語】が近寄ってくる気配が、もはやガレスや三級司書たちにも伝わり始めた。軋む金属音。床を踏む重い音。誰かが、唾を呑んだ。
「ガレス、後ろも気にしてろ」
「は、はいっ」
「じゃあ――よく見てろよ!」
カシウスの吼声が呼んだかのように、本棚の影から【物語】が現れた。
ダイスを握り締めて、司書たちが相対する。
現れたのは、全身鎧だ。青みがかった金属で、頭から足先まで隙なく覆う、重そうな鎧。手には巨大な両手剣が握られている。
「人型……!?」
「人型の【物語】はヤバいんじゃ」
ざわつきかけた三級司書たちの声を吹き飛ばすような、全身鎧の動作。颶風の如く、両手剣が振られる。軌道の途上にカシウスの胴。両断するのに一秒もかからない速度で、刃が走る。
カシウスの手が軽く掲げられる。握り締めるは、鋼鉄のダイス。金属製のダイスは、一級司書のみに許された力だ。
「<火竜公の焦げ刃>」
手の中で、ダイスが輝く。瞬きの半分ほどの時間で、カシウスは黒い長剣を握り締めている。光をほとんど照り返さない漆黒の刀身は、尋常ならざる全身鎧の両手剣を軽々と受け止めて、びくとも動かない。
むしろ、叩き付けた両手剣の方が弾かれるありさまだ。弾かれたことを気にする様子はなく、全身鎧が動き、両手剣をカシウスへ何度も振るう。その全てを、カシウスは黒い剣で弾き返した。腰から生えた豊かな毛並みの尻尾も、リラックスしている様子で揺れていた。
図書館で唯一、白兵戦闘で【物語】に立ち向かう男。
<北征録>のカシウスの絶技であった。
おお、と、三級司書の誰かが歓声を上げた。図書館に、鐘を乱打しているような金属音が響き渡る。
「ガレス!こいつの正体は!? 後ろの警戒も忘れるなよ!」
「ええっ……!?」
唐突に水を向けられた。隊列の後ろに視線を投げながらも、記憶の本棚をかき回す。
ふと、三級司書のうち、先ほどから生意気な態度を取っている一人がガレスを見ていた。スイと言ったか。カシウスの戦闘に目を奪われないとは、珍しい。
「ガレス先輩、後ろはボクも見てますので」
「あ……、ありがとう、頼むよ」
フォローされてしまった。気恥ずかしいが、今は目の前の【物語】だ。カシウスが負けるとは思わないが、『答えるまで打ち合いを続けるぞ』などと言い出す恐れはあった。
ガレスは、僅かに碧がかった黒の瞳を、全身鎧へ向ける。
三級司書の発言は、半ば正しく、半ば誤りだった。恐ろしいのは人型ではなく、知性を有する【物語】だ。知性を有する【物語】には、人型が多い、とは言えるかもしれないが。
その視点から見れば、全身鎧の【物語】は、知性があるとはとても思えない。ひたすらにカシウスに斬りかかるばかりだし、その攻撃も単調だ。
「そもそも、主類自然科学、技術では人型の発生は少ない……なら……鎧……剣……」
思考を整理する。がん、ぎん、と金属音が響いて焦らせる中、ガレスの唇が、思考の断片を紡ぐ。
そうして、結論を手繰り寄せた。表情には、発見の喜び。
「……騒霊現象!」
ガレスは沈思から意識を引き上げ、ダイスを握る。
カシウスが、続けて問う。剣戟は、最初からカシウスが優勢だ。いかにも力強そうな両手剣の一撃を、刃を合わせるだけで弾いている。あえて長引かせているだけで、恐らく一目で正体も見抜いているのだろう。心なしか楽しそうにガレスに問うてくる。
「次の手は?」
「ええと、<儀式故実>には確か……塩と、あと」
「<悪魔祓いの方法>の、聖水ですね」
三級司書スイが続きを引き取って呟き、ダイスを手に一歩前に出る。
緊張した面持ちで、しかし、【物語】を睨んでいる。三級司書にしては、随分と勇気がある行いだ。
ガレスも聖水の儀式は知っているが、実際に使ったことはない。【幻想】の投射は苦手だった。一度悔しげに息を呑んでから、頷いた。任せることを、言葉と頷きで伝える。
「頼んだ。僕は塩で動きを止める」
「お願いします」
「カシウス先輩、抑え込みを!」
「心得た」
「……塩!」
騒霊現象は、死者の霊や悪魔などの精神的な存在が、傍にある器物を操って人を襲うことをいう。【物語】としての主体は邪悪な霊であり、鎧の方を壊しても意味がない可能性が高かった。
そこで、塩だ。塩は、ある宗教において、邪を払うものとされる。清浄をもたらすものであった。
ガレスの手がダイスを一つだけ投げる。宙を舞うダイスはくるくると回転し、やがて『二』の面を輝かせ、光に包まれた。カシウスの剣が押し付けられ、全身鎧の【物語】をその場に釘付けにする。
ダイスの輝きはほどなく塩となって、全身鎧とその周囲へ広くぶちまけられる。ランプの灯りに、結晶がきらきらと輝いた。カシウスを振り払おうとして、両手剣を振りかぶっていた鎧の動きが、目に見えて鈍くなる。
「銀盆に……雫、ひとすくい……祈りを以て清浄に至る……聖水!」
そこへ、スイがダイスを投げる。ダイスはひとつ。目は『四』。塩を洗い流すような透明な水が、空中から全身鎧に浴びせられる。固唾を呑んで見守る中、そのまま動きを停めた全身鎧は、唐突に崩れ落ちた。中には、何も入っていない。
三級司書の四人から、安堵のため息が漏れた。
「よーし。よくやった」