一介の騎士と生き残りの少女の、遥かなる道行き
とある国の一角にて。
騎士の端くれであるアルス・レトウィンは、上司に歯向かった罰として自宅にて謹慎処分を受けていた。
彼は有能だが扱いにくい人物として有名だ。
気に入らない指図を受ければ堂々と異を唱えるし、不正や理不尽を決してよしとしない。
おかげで騎士団の上司たちからは大変嫌われていたが、逆に立場の弱い騎士たちからは大変に慕われていた。
そんな彼の出身は子爵家である。母は早くに亡くなっており、父は外交官という職業柄自宅にはほとんど帰らない。
その為アルスは数少ない使用人たちと共に一人、自宅にて謹慎期間を過ごしていた。
さて、そんなある日の事である。外交官の父が突然帰ってきた。と思ったら、
「やあ親愛なる僕の息子殿! 突然だけど、この子をしばらく預かってくれないかな? じゃ、よろしく~」
と言い残し、そのまま一瞬で去っていった。
頭の痛いことだが、こういう父の奇行は実はいつもの事である。
「親父のクソ野郎……」と悪態をつきながら、アルスは父の置き土産を見やった。
その人物は、ドレスを着ていることから女性であるらしかった。
らしい、というのは、彼女の頭のてっぺんからつま先まで黒で覆い尽くされていたからである。
手首まで隠れる裾の長い喪服のような真っ黒いドレス、真っ黒い靴下、顔には真っ黒いベール。髪も真っ黒い帽子で隠されている。見事に黒づくめだ。
体形はいつもガタイの良い騎士ばかり見ているアルスから見れば心配になるほど――いや、恐らく通常の人が見ても心配になるだろうと思うほど細く痩せており、そして置物のようにさっきから一言も発さない。
が、あまりにもアルスがじろじろと見てきたからか、居心地が悪そうに身じろぎした。どうやら人形などではないらしい。
「仕方がない、中に入れ。荷物……は、それだけか? それを置いたら、食堂に来い。すぐ夕食だ」
「……」
彼女は一言も発さなかったが、どうやら困惑していることは伝わってきた。
が、アルスは構わず、後は使用人に任せ、さっさと引き上げた。
給仕係に、二人分の食事――それも、痩せ細った女性が食べやすいようなものを用意してもらわないとな、と考えながら。
しばらくすると、彼女が食堂にやってきた。相変わらず黒づくめの格好である。アルスはそれに言及するようなことはせず、無言で席を促す。
彼女はものすごくおどおどしながら席に着く。
そして運ばれてきた食事に、何故か息をのんだ。
彼女に運ばれてきた食事はアルスとほとんど同じものだったが、痩せた妙齢の女性と聞いた料理人が張り切ったのか、それは女性向けにさりげなく飾り付けられており、消化に良くなさそうなものは除かれているか、別の食材に代えられていた。
彼女はちらりとこちらを見る。アルスが視線に構わず食事を始めると、彼女は恐る恐るといった風に自分の前に置かれた食事に手をつける。その所作はアルスが意外に思う程美しい。
顔のベールを少しだけ上げ、彼女は一口、口にする。それを皮切りに、彼女はどんどんと食事を進める。
アルスがその様子を見守っていると、ふいに彼女のベールの下から透明な雫がぽたりと落ちてきた。そのまま雫はぽたりぽたりと落ち続け、ついにはしゃくりあげる。
注意するでも心配するでもなく、アルスはそのまま見守った。
しばらくすると、彼女は落ち着いたらしく、初めて声を発した。
その声音は美しく、そして存外若いようだった。
「……すみません、お恥ずかしいところを」
「別に構わない」
「……ありがとう、ございます。こんなに美味しい食事を、私なんかのために。御迷惑でしたでしょうに」
「別に。親父の奇行には慣れている」
「そう、ですか。……あの、こんなに美味しい食事は、久しぶりで。本当に、美味しいです」
「そうか。礼は後で料理人に言ってやれ」
「はい……」
それが、アルスが彼女と交わした最初の会話だった。
彼女はレア・ハルサークと名乗った。ハルサークというのは父の上司の名字ではなかったかとアルスは考えたが、彼女に深く尋ねることはしなかった。
最初はおどおどびくびくしていたレアだったが、しばらくすると少しは慣れてきたようで、口数も段々とだが増えてきた。
あるとき、彼女はいつも頑なにかぶっていた帽子とベールを取って、アルスの前に現れた。
あらわになった彼女の素顔は美しく整っており、真っ白い素肌に薄い水色の瞳、光をはじく長い白金の髪は、その細い体躯も加わって儚げな印象を受けた。
彼女は何故かかなり緊張した面持ちで、アルスの方を見ていた。
「大丈夫か」
「……え?」
「今にも倒れそうな顔色だ。今日は早く休め」
「え、ええ……」
彼女が困惑したような顔をする。彼女はアルスと話すとき、しばしばこんな表情になる。
「あ、あの」
「ん?」
「……気持ち悪く、ないですか」
「何が」
「その、私の顔や髪色が」
「何故。美しいと思うが」
「う、美しい!?」
「ああ」
彼女は衝撃を受けたように、ぴしりと固まる。やがて、ゆるゆると表情を緩ませて。
花が咲いたように、彼女は小さく、微笑った。同時に涙腺も緩んだようで、その目には涙が浮かんでいた。
「……ありがとう、ございます。嬉しいです」
「……ああ」
その笑顔は、普段滅多に表情を変えないアルスでさえもつられて表情を緩ませてしまうほどに、美しく、魅力的だった。
彼女が素顔を隠さなくなって数日して。
アルスの元に、とあるニュースが飛び込んでくる。
それは、隣国で大規模な内乱が起こっている、というものだった。隣国の現王は暴君であるという評判で、前王であった兄を弑してその地位を手に入れたのだと専らの噂だった。
現在、現王側と反乱軍である前王の家臣側で隣国は荒れに荒れていた。そしていよいよ、その決着が付きそうだという。その余波がこちらの国にも来ないように、警戒を強める必要があった。
とはいえアルスは未だ謹慎中の身、今すぐに出来ることは少ない。アルスは小さくため息をつく。
その様子を心配したレアが、何かあったのかとアルスに訪ねる。
簡単にそのニュースを教えてやると、彼女はさっと顔色をなくした。
「大丈夫だ。ここまで危険が及ぶことは考えにくい。安心しろ」
「……はい。そう、ですね……」
ただ単に戦争の気配におびえているにしてはどこか様子がおかしいとは思ったが、アルスはそれ以上、その場で追及することはしなかった。
その日の夜。招かれざる客がやってきた。
自室で眠りについていたアルスは、違和感を察知して瞬時に目覚めた。そして今にも付き立てられようとしていたナイフを避け、その刺客を昏倒させる。そしてレアの部屋へと急いだ。と、案の定目的地から小さな悲鳴が聞こえ、アルスは部屋に飛び込む。
ためらわず剣を振るい、無事彼女を救出することに成功したが、代償として刺客を逃がしてしまった。昏倒させた方もいつのまにかいなくなっており、どうやら仲間が回収して逃げたようだった。
幸い使用人たちにけがはなかったようで、明らかに標的――この場合、アルスとレアということになるだろう――のみを狙った犯行であるといえた。
「レア。大丈夫か?」
「アルス、アルス、ごめんなさい、私の所為で」
「いいから落ち着け、俺は大丈夫だ。けがはないな?」
「はい、はい……」
彼女がひとまず落ち着くのにはしばらく時間がかかった。
相変わらず顔は蒼白で、けれど心を決めたように、彼女はぽつぽつと話し始めた。
曰く、自分の本名はレア・ハルサークではない。
エトレイア・マヌス・ウーリィというのだと、彼女は言った。
アルスはその名を聞いて――というよりも、その名字を聞いてピンときた。ウーリィというのは、隣国の王族一家の名だったからだ。
アルスの予想は当たり、続けてレアは、自分は前王の一人娘であることを明かした。
レアがまだ幼い頃、前王は自分が弟――暴虐な現王に命を狙われていることを察知した。そして念のためと、一人娘であるレアを当時友好国だったアルスたちの国へと逃がしたのだ。
そのとき手を貸したのがアルスの父の上司であるハルサーク氏で、レアはこの国で、ハルサーク氏の娘として暮らし始めた。
でも、と彼女は言いよどむ。次に来る言葉は、アルスにもなんとなく予想がついた。
それはレアがここに来た初日の、あの折れそうなほど痩せた体躯と、頑なに見せなかった素顔、そしてびくびくした態度から簡単に予想がつくことだ。
おそらくハルサーク氏の家族に歓迎されなかったのだろう。それが何かの拍子に露見し、巡り巡ってここに来ることになった、ということである。
だいたいの事情を聞いた後、アルスはレアに、父から預かっているものはないか尋ねた。
彼女はしばらく考え込んだ後、思い当たった物があったようで、小さなお守りのような小袋を渡してきた。これはアルスの父から、時が来るまで持って置くよう言われたのだという。
その中身を見てみると、案の定、そこには父からの手紙が入っていた。そこには、アルスを巻き込んだ謝罪と、とある依頼――もしくは、指令が書かれていた。
一言でまとめるとこうだ。彼女――エトレイア姫を、隣国の反乱軍まで無事送り届けろ、と。
アルスは大きくため息をつく。ついでに舌打ちも追加だ。
レアがびくっとしたのを感じたが、別に彼女に対して苛立っている訳ではない。あのクソ親父の掌の上なのが面白くないだけである。
まあしかし、なんやかんやでアルスも父の事は尊敬している。息子に対しては遠慮なく迷惑をかけまくる父ではあるが、それは裏返すと信頼の証であるし、そういうときの父の行動は大抵誰かを助けるためのものだ。
ただこちらへの皺寄せは半端なものではない。情勢が最悪な隣国にわざわざ赴き、その趨勢を間違いなく左右する要人を、目的地まで守り抜かなければならないのである。今までの父親の無茶の中でもトップクラスだ。ああ本当に面白くない。
ガシガシと髪を掻きむしり、レアの方を見やる。彼女は心配そうな目でこちらを見ている。
今まで辛い境遇にいたに違いないのに、人を思い遣る心を忘れなかった優しい彼女を、アルスは気に入っていた。その思いを口にすることは決して無かったが。
父の手紙をレアにも読ませ、レアの気持ちを確認する。父はこう書いているが、お前はどう思うのか、と。
しばらく迷うように瞳をさまよわせた後、彼女はこう言った。
「……実のところ、私にはあまり、自国の記憶はないのです。それどころか、お父様やお母様の記憶すらも……。でも、幼い頃私は、とても幸せだったことを、ぼんやりと覚えています。……本当は、とても怖いけれど。それでも、私に出来ることがあるのなら、私は行動してみたいです」
それが、彼女の答えだった。その瞳には、未だ弱いがそれでも確かに、決意の光が宿っていた。
「……そうか。では、俺はお前を、命を賭して守ろう」
アルスは彼女の決意に、そう応えたのだった。
長旅の準備を整え、使用人たちにしばらく暇を出し、2人は隣国に向けて出発した。
それは危険な旅路だった。
前王の一人娘であるレアは、人々の希望だ。
現王に子はいないし、王位を奪われることを恐れ、現王は王家に連なる人々を皆殺してしまった。現在、正統な王家の血を継ぐのはレアだけなのだ。
エトレイア姫は長い間行方不明とされてきたが、どこからかその生存情報が漏れたらしい。彼女の命を奪おうとする者、攫って切り札にしようとする者、とにかく彼女を狙う者は絶えなかった。
しかしそのいずれも、アルスが返り討ちにした。アルスの実力は本物だった。きっと彼がいなければ、レアはとっくにその命を落としていただろう。
そんな状況であるので、アルスとレアは常に一緒に行動した。
日中、レアはアルスの手が届く範囲内から出ることは無かったし、人が多いところではアルスに手を引いてもらいながら進んだ。宿では同じ部屋で休んだし、野宿の時は彼の腕の中で休んだ。
誰かと――しかも年の近い異性とこれほどまでに近い距離で過ごすのは初めてだったのに、レアは全く違和感なく過ごせている自分に驚いた。
いや、むしろ居心地が良いのだ。このままずっと、2人でいたいと思ってしまうほどに。
しかしそれは叶わぬ願いだ。2人はまもなく隣国――レアの生まれた国に着く。
まもなく旅が終わる。
それは同時に、彼との別れを意味するのだ。
そんな風に傷心に沈んでいた彼女の心は、すぐに別のもので占められることになる。
「ああ――」
彼女は自分の目の前に広がる光景に、言葉を失う。
「なんて、なんて惨い……」
それは、見渡す限りの焼け野原だった。
そこにはかつて、村があったという。
小さいが長閑で良い村だった、と、辛うじて生き残った村人は絶望に塗り固められた声音で呟く。
しかし次々と引き上げられる重税は村人たちを苦しめ、遂には勇敢な村長が王都まで訴えに行ったという。
その結果がこれだった。
現王は話を聞き入れるどころか激高し、その場で村長を斬り捨て、兵士たちに村を焼き滅ぼすことを命じたという。
兵士たちはその命令をあろうことか実行し、村は滅びることになったのだった。
こんな仕打ちを受けたのはこの村だけではなく、それは国の至る所で行われているのだということを聞いて、レアは涙し、アルスは怒りに震えた。
「王も王だが、周りも周りだ。何故止めない。王が暴走していたらそれを止めるのも、大事な役目だろうに……!」
「……アルス、急ぎましょう。一刻も早く、叔父様から王位を取り戻さなければ」
レアの瞳には未だ涙が光っていたが、その瞳には明らかに、旅の始まりよりも強い決意が宿っていた。
2人は進む。
それと同時に町の様子も段々ひどくなっていった。
レアの心は何度もくじけそうになった。
もし、叔父から王位を取り戻せたとして。こんな状態の国を、果たして自分は立て直すことができるだろうか?
自分は王族の血を引いているだけの、世間知らずの小娘だ。そんな自分に何ができる?
そんな風に悩んでいることは、アルスにも伝わってしまっていたらしい。
まもなく目的地に着くだろうという日の夜、何を悩んでいるのかとぶっきらぼうに訊かれた。
相変わらずの無表情だったが、今までひと時も離れず側にいたためか、レアはアルスの表情や、その言葉に込められた思いをくみ取ることができるようになっていた。
レアが正直に今の自分の思いを吐露すると、アルスは少し迷ったように視線をさまよわせた後、口を開いた。
「ひとまずの話をすると、お前は存在するだけで良い。正統な王家の血を継ぐ者が旗印になることで、反乱軍には大義名分ができる。それは分かるな?」
「……はい」
「しかしその後のこととなると、お前が懸念していることは正しい。王とは国の頂点に立つ者だ。無能者では国は荒れる。今のこの国の様に。……しかし、だ。お前は決して無能者ではないと、俺は思う」
「……え?」
「確かに、知識も経験も、お前には足りないものばかりだろう。普通、王となる者は長い時間をかけて、相応しい者になれるよう教育を受けるものだからな。……しかし、それだけでは足りない部分は当然ある。その者が生まれ持っているもの。言うならば王の資質、というものか。……お前は、それを十分に持っている。短い期間ではあったが、共に時を過ごして、そう思った」
そうして、アルスは口の端に笑みを浮かべ、レアの頭を不器用に撫でる。
「そう心配するな。お前なら大丈夫だ。……誰しも、最初は未熟なんだ。自分が王に相応しくないと思うなら、そうあれるよう努力すれば良い。お前が前に進もうと努力し続ける限り、道はきっと拓かれる」
「アルス……」
レアは、自分が無意識に涙をこぼしていることに気付いた。
ああ、人は嬉しい時にも泣けるのだと、レアはついこの前――初めてアルスと会った日に、知ったばかりだ。そしてまた、それを思い知った。
今まで虐げられてきたレア。そんな初対面の、みるからに怪しい出で立ちの女に優しくしてくれたアルス。
彼には一点の利もないのに、危険な旅路を一緒に歩んでくれた。危険から守ってくれた。
しまいにはくよくよと悩んでいた自分を、これ以上ない言葉で励ましてくれた。
(……ああ、私は、この人が好き。この優しい人が、大好き)
それは遅すぎる自覚だった。思い返せば気付けるタイミングは、いくらでもあったはずなのに。
彼と過ごせる時間は、もう本当に限られている。そして自分には、大きな仕事が待ち受けているのだ。
この初恋を、アルスに告げようとは思わない。ただでさえ迷惑をかけているのに、これ以上負担を強いたくはない。
「ありがとうございます、アルス。……貴方に会えて、良かった」
レアは様々な感情を込めながら、その一言を、精一杯の笑顔と共に告げたのだった。
翌日。アルスとレアは、遂に反乱軍のアジトへとたどり着いた。
アジトの見張りをしていた者は、見知らぬ2人組に最初警戒を露にしたが、レアが自らの名を告げてからしばらく待つと、慌てた様子で2人をあっさりと中に通した。
中には思った以上の人数が揃っていた。その中心で待ち受けていた者の顔を見て、レアが驚きの声を上げる。
「まさか、その顔……、イシュー? イシューなの!?」
「おお、姫様……! まさか、本当に生きておいでだったとは!」
そのやりとりを見ていた周りの者たちがどよめく。
彼らも、彼女が本物のエトレイア姫であるのか半信半疑だったのだ。
次いで、喜びの声で場が満たされる。
どうやら彼女は反乱軍に受け入れられたらしい。父親からの指令はこれで達成かと、アルスはひとまず安堵のため息をついた。
と、イシューと呼ばれた、老年に差し掛かった男が、レアの後ろに控えていたアルスに気付く。
「と、そちらは……?」
「イシュー、こちらは私をここまで守ってくれた方よ。名は――」
「いい。レア、言うな」
「え?」
アルスはレアの言葉を遮り、イシューを見やる。
「イシューとやら、一つ聞きたい。おまえたちに勝ち目はあるのか?」
そのあまりの横柄な口のきき方に、周りはざわめく。
イシュー・バートンは前王の時代、宰相まで務めた人物だ。そんなイシューに、若造がそんな口をきくとは。
しかしイシューは、何か感じ取ることがあったらしい。姿勢を正し、アルスの顔を真っすぐ見て、真剣な表情で答えた。
「……ええ。きっと、勝利を勝ち取って見せます」
しばらくの沈黙が、場を支配する。
「……そうか」
やがてアルスの方が視線を外し、レアを見る。そして一言、別れの言葉を告げた。
「元気で、レア」
フードで良く見えなかったが、最後に彼は微笑ったようだった。
ああ、本当にここでお別れなのだと、レアはふいに泣きそうになる。
「……貴方も、元気で。本当に、ありがとうございました」
何を言おうかと必死に考えるも、結局はそんなありきたりな言葉しか出てこなかった。
そしてアルスは一度も振り返ることなく、そのまま自国へと帰っていったのだった。
数週間後。
無事自国に戻ってきたアルスは、騎士の職務に復帰していた。
同僚や部下は、アルスの復帰を皆喜んでくれた。
しかし、アルスの心はどこか晴れない。原因は分かっていた。
レアがいないからだ。
レアを国に送り届けるまで、2人は常に一緒に行動していた。
そしてそれを居心地よく感じていたのは、何もレアだけではなかったのだ。
アルスもレアと一緒だった。普段1人でいることを好んでいた筈なのに、レアとの時間だけはそれ以上に穏やかで楽しかった。
国の荒れた姿を見ても尚挫けず、悩みながらも前に進もうとしていたレア。
その姿は、アルスの目にはかけがえのないものに映った。
結局のところ、アルスはレアに惹かれていたのだ。
それに気付いたのは、レアと別れた後、2人で歩んだ道筋を引き返しているときだった。
いつもそばにいた彼女がいない。
それは、心に塞ぎようのない穴が開いたような感覚だった。
しかし仮に、自分の感情にもっと早く気付いたからと言って、彼にできたことがあるとは思えなかった。彼女には、荒廃した国を立て直すという大きな試練が待ち受けている。
一介の騎士であるアルスには、その背を支えることなど到底無理なことに違いなかった。
と、物思いに沈むアルスに、声をかける人物があった。
「おや、君にしては珍しい。なんだか落ち込んでいるみたいだね?」
「……! 殿下。お姿に気付かず失礼いたしました」
「そんなに畏まらないでくれと、いつも言っているだろう? 私と君の仲じゃないか」
「いえ。それでも、私は殿下の部下ですので」
「まったく。頑固なのはいつまで経っても変わらないなあ」
ははは、と目の前で笑っているのは、この国の王太子、ルシールである。細身ながらも鍛えられた身体、金髪金瞳の爽やかな青年で、その容姿から巷の女性には大人気だ。
その顔つきや雰囲気から頑固でとっつきにくい印象を与えるアルスとは対照的な人物だが、見る人が見れば、アルスと王太子の瞳の色が同じであり、顔立ちや体躯がどこか似通っていることに気付くだろう。
「隣国の内乱が無事治まったのは知っている?」
「ええ。父から聞きました。反乱軍の勝利だと」
「そうそう。それで、早速隣国から使節団が来てるんだけどね」
王太子が悪戯っぽい顔でニヤリとして言った。
「あちらさん、何故かいの一番に、アルス・レトウィンという人物に会わせてくれって言ったそうだよ。という訳でアルス、陛下がお呼びだ。君、何かしたの?」
アルスはルシールに連れられ、目的の部屋――王族が私的な会談をするための部屋へ向かう。
中に入ると、ルシールの父である国王、そして隣国から来たと思われる使節団の代表と思われる人物がいた。
アルスは無意識に、彼女の――レアの姿を探そうとして、そんな自分を戒める。今彼女は自国を離れるどころではないだろう。
それに、恋情を自覚したときから、それが叶う想いではないと、何度も言い聞かせているではないか。我ながら未練がましい。
アルスは平静を装い、国王に挨拶をする。
「よい、よい。面を上げよ。実は今、隣国の使者殿と君の話をしていたところでな」
「私の話、ですか」
アルスは国王に促され、使者の方に顔を向ける。
その人物は、見覚えのある男――反乱軍の長であったイシュー・バートンだった。
アルスと目が合うと、彼はこちらに深々と頭を下げてくる。
「お久しぶりでございます。この度は我らが姫様を無事に送り届けていただき、本当にありがとうございました」
「……顔を上げてください、バートン殿。私は何もしていません。父の命に従ったまでです」
少し気まずく思い、アルスはイシューから目をそらす。
ごまかすように咳払いをしながら、アルスは国王に問いかける。
「陛下。それで、私に何か用でしょうか」
「おお、そうだ、そうだ。単刀直入に言うが、アルス・レトウィン。隣国に、王配として婿入りする気はないか?」
「……は?」
そんなアルスの困惑顔に王太子は噴き出すのをこらえ、王は上機嫌で話を続ける。
「実は今回、隣国と友好を深めるために婚姻を結ぼうかという話が持ち上がってな! しかし、ルシール含め適齢の王子たちは既に婚約者がいるし、他の子らは皆まだ幼少なのでな。そこで、其方というわけよ!」
「いえちょっと待ってくださいどうしてそこで私なんですか」
「何故って、王子たちを除けば、お前ほどうってつけの者はいまい?」
「いえ、しかし私は、正式な王家の者ではありません。どこにでもいるただの騎士です」
「何を言うか。お前は儂の妹の子だ、れっきとした王家の血が流れている。それに、レトウィン家ももとをたどれば王家の血筋だ。其方たちは今まで国の為によく働いてくれた。何を恥じることがある」
「……」
返答に困り、アルスは束の間黙り込む。
国王が言ったのは事実だ。アルスの母は国王の妹で、レトウィン家の由来もそのように言い伝えられている。
数代前、尊敬する兄王子と間違っても王位継承争いを起こさぬために自ら継承権を放棄し、王家を陰から支えた弟王子――それが、レトウィン家の始まりの人物だという。
そしてだからこそ、レトウィン家の者は頑なに表舞台に立つことを嫌う。
父は外交官としてその才を遺憾なく発揮しているが、更に前の代では諜報活動やもっと後ろ暗いことを引き受けていたこともあったらしい。
先祖たちの気持ちが、アルスにはよく分かる。きっと先祖たちは心から王家を崇敬し、国の為に役立とうと喜んでそのような汚れ仕事を引き受けていたのだろうと。
アルスも同じだ。王家の為、ひいては国の為、自分にできることをやろうとした。
しかし父のような外交の才はなく、その整った顔立ちの為に、人に紛れて仕事をする諜報などにも向いていなかった。
しかしどこか面差しが似ている王太子ルシールの影武者位にはなれるかもしれないと、自ら望んで彼と一緒に教育を受けていたこともある。
しかし性格が似ても似つかないことと、何より王や王太子が断固反対したために、結局は武の才を活かして騎士となった。まあ、その清廉潔白で頑固な性格が災いし、騎士生活もあまり上手くいっているとは言えないのだが。
そして現在の王家――というよりはレトウィン家創設当初から、王家は一方的にこちらに負い目を感じているようで、隙あらば一族を表舞台に立たせようとしてくる。
それらを先祖はうまく躱していたようだが、父の代になって、変わり者と評判だった王女が父に一目惚れをした。そしてあれよあれよという間に婚姻が成立し、レトウィン家であるにも関わらず現王家の血も継いだアルスが生まれることとなったわけである。
「ああ、道理で。彼の振る舞いに、どこか王族のような威厳があるように感じられたのはその為でしたか」
「おお、やはりバートン殿は鋭い。彼は、私なんかよりずっと威厳がありますからね。時々悔しくなるくらいですよ」
イシューの言葉に、何故か誇らしげに、ルシールが返答する。それに笑いながら相槌を打つイシュー。当事者の自分を置き去りに、なぜこれほど和やかな会話がなされているのか。
「しかし、……しかし。私は、彼女を……女王陛下となられたあの方をお支えするような力は、持ち合わせておりません。唯一誇れるのは武勇のみ。それは、これからの国造りには不要なものでしょう。己の身に流れる血がどうあれ、私が一介の騎士としての技量しか持ち合わせていないのは事実です。……彼女には、もっと頼もしい、知に長けた方が相応しいでしょう」
「……アルス」
ルシールが呟く。それが彼の本心からの言葉であろうことは、その場にいた誰もが理解できた。
場に沈黙が下りる。そのまま、退出の挨拶をしようとしたアルスに、ただ一人呼びかける人物がいた。
「またいつもの意地っ張りかい、アルス? 父さんそれは良くないと思うけどねえ」
「!? ク……父上!」
思わず動転してクソ親父と言いかけた所を言い直す。
アルスが振り返ると、そこには先ほどまでいなかった男性――アルスの父であるアンセル・レトウィンが立っていた。
「おお、帰ったかアンセル!」
「遅れて申し訳ありません陛下。なんとなーく、こうなるかもと思っていたので、色々と確認していたら帰るのが遅くなってしまいました」
アンセルはこんな場でも飄々としている。
その場の空気が程良く緩んだところで、アンセルは息子に向き直った。
「レア姫に会ってきたよ。彼女、結婚するなら君がいいって」
「!?」
突然何を訳の分からないことを言い出すのか。
「本当は、誰にも――それこそおまえにも、言うつもりはなかったらしいけどね。そこは僕、有能だからね? こう、巧みに聞き出したわけなんだけど」
おどけたような仕草をしながら、しかし息子を見つめる目は真剣だ。
「レア姫は、お前の優しさに救われたのだと、そう言った。見知らぬ自分を気遣い、危険な旅路を守り、そして導となる言葉をくれたと」
「……導?」
「そう。自分が王に相応しくないと思うなら努力すれば良い、そうすれば道はきっと拓かれる……だったかな? その言葉に、どんなに勇気づけられたかしれない、と、レア姫は涙ぐみながら仰っていたよ」
そしてにやりと笑いながら、息子に言う。
「僕はその言葉を聞いたとき、そっくりそのまま、おまえに返してやりたいと思ったけどね。まさに今のおまえにぴったりだろう?」
……本当に、このクソ親父はどこまで見抜いているのだろう。
アルスは自らがレアに言った言葉を思い出す。
『誰しも、最初は未熟なんだ。自分が王に相応しくないと思うなら、そうあれるよう努力すれば良い。お前が前に進もうと努力し続ける限り、道はきっと拓かれる』
ああ、本当に。それは、今の自分にぴったりだ。
アルスは一度ぎゅっと目をつぶり、ゆっくりと目を開く。そして、国王を見やった。
「……1年、時間を頂けませんか」
「ふむ?」
王は眉を上げる。
「私は未熟者です。それは間違いない。今すぐ彼女のもとに駆け付けても、私は役立たずでしょう。それに、国が未だ体制の整わぬままの状態なら尚更です。ですので、時間を頂きたいのです。私はその期間、王族として一から学び直したいと思います。……如何でしょうか」
「ふむ、ふむ。……滅多にない其方の頼みだ、勿論受けぬわけにはいかぬではないか! バートン殿、どうですかな」
「そうですな、彼が前向きになってくださっただけでも、私たちに異論はありません。……それに、国の体制が未だ不安定なのは事実。この1年で、私たちもアルス殿をお迎えする準備を、万全に整えておきましょう」
「そうですか、そうですか! いや、今日はめでたいのぉ! 今から1年後が楽しみじゃ」
「ええ、本当ですね父上。……久しぶりに君と王宮暮らしか、アルス? みっちりしごいてやるから、楽しみにしておけよ」
「……望むところだ」
「やー良かった良かった! 息子の為に一肌脱いだ甲斐があったよ! ……あ、家の事は何も心配しないで良いからね、アルス? 僕も母さんも、おまえの幸せが一番なんだから」
「ああ。……ありがとう」
「やだ息子がいつになく素直! ま、婿入りするのは1年後としても、プロポーズは早めにしときなよ? 母さんからプロポーズされた僕が言うことじゃないけどさ!」
「うるさいな、それくらい分かってるよクソ親父」
「おおーそれでこそアルスだね。でもクソ親父とか父さんちょっと悲しい」
わいわいがやがや。
そんな風に、王家の私的な会談の場は過ぎていく。
アルスは決意する。
この1年できっと、彼女を支えられるような自分に、少しでも近づいて見せると。
1人で大きな壁に立ち向かう彼女。優しく泣き虫な彼女が少しでも不安から解放されるように、共に並び立てるような自分になれれば良い。そして自分のような者にずっと目を掛けてくれた王家の人々とレアの国を繋ぐ存在になれれば――
それはきっと、とても難しいことなのだろう。
しかし誰しも、最初は未熟だ。
努力し続ける限り、道はきっと拓かれる。
かつて彼女に自分が言った言葉。それを証明するために、自分も一歩、踏み出さなければ。
そして。
一介の騎士と生き残りの王女であった2人が、誰もが認める実力ある為政者、同時に誰もが憧れる理想の夫婦として世間に名を知らしめるのは、それほど後の話ではない。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
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