不快な眠り
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おーい、つぶらやよう。そろそろ寝ようぜ、明日も早いんだろ?
休みの日だと、ついつい夜更かししちまう気持ちは、分かるぜ。仕事の前日だったりすると特にな。でも、それは余計に日中の疲れを残し、実質的なしんどさを増すばかりだ。勇気を出して、布団へ潜り込むんだな。
……ふーい、明かりを消して寝そべっていると、あくびが出てきてしょうがねえや。
つぶらやはどうだ? 寝られそうか? 直前までパソコンとかスマホの画面を見ていると、しばらくは目が冴えちまうようだからな。これはこれで、辛い「おあずけ」だろ?
よし、そんじゃ寝物語と参るかねえ。眠たくなるまで、お前の好きそうな話をしてやんよ。
――何? 「寝物語」は男と女じゃないと、成立しない? 内容ももっと深い?
細けえことはいいんだよ。流れからだいたい意味は通じるだろ?
まったく、物書きセンセはこんなところでも突っ込みを入れてくださって、たいした熱心さだよ。その分、この話も熱を持って聞いてほしいところだがね。
俺たち兄弟が、まだ同じ部屋の二段ベッドで過ごしていた、小さい頃のこと。間食にはまった兄は、3時のおやつの時間に台所で食べるのみならず、部屋へお菓子の袋を持ち込み始めたんだ。
いくら気をつけたって、うっかり袋から出した破片をシーツの上にこぼすことはある。それを嗅ぎつけてか、一ヵ月も経つと、二段ベッドの周りに、アリたちがちょろちょろと姿を見せるようになっていたよ。
袋の処理とかは行っていた兄貴だったけど、注意深く嗅いでみれば、部屋全体にほんのり漂う、お菓子の香り……。
掃除をする母親には、たぶんバレていただろうな。でも、現行犯で現場を押さえていないためか、お咎めを受けることはなかったようだ。
やがて兄の食指はお菓子以外にも伸びていく。なけなしの小遣いを使い、近くのコンビニで買ってきたおにぎりやサンドイッチといった軽食類、お惣菜の類さえも、部屋の中で幅を利かせるようになったんだ。
兄も俺も食べ盛りの時期だった。俺も腹が減ると、一緒にばくばく食べていたが、兄にはかなわなかったぜ。
風呂上がりの胃袋に、フライドチキンを三本。そのあと軽く歯を磨いたら、すぐさまベッドへ直行だ。子供心に、「よく食べる気になるな」と思ったぜ。
昔から二段ベッドの上が大好きな兄。そのでかくなった図体の重さを受けて、はしごも以前よりきしみを増したような気がする。「いつかベッドの底が抜けて、自分の上に落ちて来るんじゃなかろうか」と、当時の俺は、毎晩ヒヤヒヤしていたのを覚えているな。
だが、俺の心配は想像とは少し違った形で、姿を現してくることになる。
ある寝苦しい晩のことだった。日中から延々と続く真夏のような気温は、日が暮れてからも衰えることなく、俺の家を包み込んでいた。
上で眠る兄貴の寝息は、いつにも増して荒い。寝返りを打つような気配が、しょっちゅうしていた。
そりゃ今日は喰い合わせが悪い。夕飯に出された天ぷらをたっぷり食べたかと思いきや、「ぜってえ、夜に食いたくなる」と、部屋に帰ってからすぐに財布を掴み、カップのアイスを三個買ってきたんだ。
しかも、「我慢できねえ」とばかりに、その場で早速開封。ぺろりと二個を平らげてしまう。
残る一個は台所の冷凍庫へ放り込んだが、風呂上りには先駆者と同じ末路を辿る羽目に。それで今、布団の中でうんうんうなっているんだ。
あったかいものと冷たいもの。一気に詰め込んだら、腹の中で喧嘩するっていうのは昔から言われてきたこと。
自業自得だ、と思いつつ、少し風を部屋の中へ入れようと、俺が身体を起こしかけた時だった。
ベッドから出した顔の脇をしずくが通り過ぎて、ぽたりと飛沫をじゅうたんへ垂らした。思わず上を見やって、兄の身体が半身になり、俺の頭上でだらしなく口を開いているのを確認したよ。
また一滴。今度ははっきりと見る。開口部からよだれが一筋、兄自身のシーツをかすめながら、俺の横、床の上へと、きれいに真っすぐドロップだ。
「くそ兄貴」と悪態つきながら、それに触れないよう、さっとベッドから出る。それなりに目が暗さに慣れていたから明かりはつけず、そのままベランダに面する窓まで到着。鍵を開けて、ほんの少しだけすき間を開けた。
ぽたり。また背中から、液体が垂れ落ちる音だ。心なしかうめき声も混じっている。
「汚ねえな」と、小さく吐き捨てながらも、身体を動かしたせいか少し催してきた俺。幸いトイレは部屋を出て、すぐ右手にある。兄のこぼしたものを踏まないようにして、そっと部屋を出る。
便座に腰を下ろす。小用ではあったが、飛び散る恐れを考えたらこちらの方が安全確実。一通り出し終えてしまった直後ほど、リラックスできるものはなくて、ついうつむきがちに舟を漕ぎ始めてしまった。
その時だ。トイレの壁がかすかに揺れたのは。はっと目が覚めると、ドア全体も断続的に震えているんだ。
地震か? とも思ってズボンを上げつつ、ドアを開けて逃げ道を確保する俺。
暗いながらも、揺れているのはトイレの左側の壁だけであることに、俺は気がつく。そこは俺たち兄弟の部屋。その延長には両親の寝室があった。
でどころは、おそらくそこのどちらか。俺はトイレの水を流すのを後回しにし、忍び足で近づいていく。
自分たちの部屋の戸へ、軽く手を突いてみる。俺たちの部屋の戸は、上半分だけに障子が貼られた、少し年代物の作りの引き戸だ。そこに描かれた竹の柄が、内側からの風圧を受けて、わずかにこちら側へ広がる。揺れも一緒だ。
兄のいたずらか、と戸をさっと開けてみたんだが、ベッドの二段目に横たわる姿勢は変わっていない。ただ、先ほどにも増して、天ぷらの油とバニラアイスの甘ったるい臭いが混じった、鼻をつまみたくなる臭いがしたよ。
特に、あのよだれを垂らされたところからね。
今回は母親に任せず、自分でじゅうたんを拭いた。兄本人に訴えても良かったんだが、熟睡していたらしくて記憶がない。
ここで下手に注意をすると、「自分がやったことを俺のせいにする気か!」と、逆切れの拳が降ってくることは想定済み。痛い目より、臭い目ということだ。
ぞうきんと消臭剤を駆使しつつも、俺は昨日の揺れの正体が気になっていた。兄が起こしたとしたら、俺が戸を開けるタイミングも鑑みると、あのベッドで横になっている状態から、バウンドしたとしか思えなかった。もし、下で眠り続けていたら、ベッドを壊して踏みつぶされる想像が、現実のものとなってしまいかねない。
兄はというと、俺の懸念などどこ吹く風で、夜食の量が右肩上がりに増えている。ついにはインスタントのカップ麺にまで手を出す始末。そしていずれも食してから三十分以内で、床につくんだ。
もう真下で寝ると、兄の体臭が臭うレベルにまで来ている。そして、あのよだれドロップが、思い出したようにやってくると来たものだ。
でも、やられるばかりじゃない。兄のいたずらを探ろうと、策を考えていたさ。
障子に、かろうじて中の様子がのぞけるほどの、小さな穴を開けさせてもらったんだ。あまりに大きいと気取られるから、その調整には苦労したぜ。
俺は毎晩、兄が寝ると少し経ってからトイレで待機。家族が利用する際に明け渡す時は仕方ないが、部屋にできる限りいない状況を作ったんだ。兄の奴、どうも俺がいないところを狙っているらしかったからな。
そして、機がやってくる。
誰もトイレにやってこない真夜中。今回は用を足すでもなく、うつらうつらしていた俺の身体が、突然の揺れを受けて、つい「びくん」と跳ねた。
来たな、と俺はいつぞやと同じように、揺れ具合を確かめながら足音を忍ばせる。また内側からの風圧を受けて、障子がわずかに膨らんだのを視認。あらかじめ仕込んでおいた、障子穴から、中をのぞき込んでみる。
兄がいつもよだれを垂らすポイント。そこに小さい塊が「立っていた」。
先ほどまでのトイレの明かりに目が慣れて、すぐには何か分からない。手でつかめてしまいそうなサイズの塊は、俺の一段目ベッドと同じくらいの高さまでぴょんぴょんと飛び上がっている。その着地のたび、小さい身体に見合わない、あの揺れと風圧を起こしているようだ。
俺はじっと目を凝らし続け、判断がついた時に思わず、口に手を当てちゃったよ。
そいつは兄が食べていたものでできた、ヒトガタだったんだ。頭にあたる部分から髪のように、短く、縮れた黄色い麺が張り付いている。
身体にあたる部分を覆うのは、カップ麺に一緒に入っていた、サイコロ肉や卵。他にも夕飯に食べたキャベツやハンバーグが溶けかかったものをまとい、心なしか、その時に飲んだ牛乳の臭いさえも……。
息を止めようとしたが、思わず喉の奥で「ぐうう」と大きくゲップしてしまう。しっかり口を閉じてはいたが、その音を聞きつけたように、ヒトガタの動きがぴたりと止まった。まるでこちらの様子をうかがっているようで、下手に動きを取れなかったよ。
ややあって、そいつは俺が見た中でも一番高く飛び上がると、兄の開いた口の中へ飛び込んでいき、見えなくなってしまったんだ。あの、吐瀉物の臭いをたっぷりこの場へ残したまま、な。
結局、トイレ避難所で夜を明かした俺は、親が起きてくるや消臭剤を借り、部屋中に撒いて回った。じゅうたんについた臭みは、もはや無視できないものとなり、即刻、水洗いが決定。俺たちが学校へ行っている間に行われる運びになる。
それから、兄が一人暮らしをするまで何度か同じことがあったが、もう俺はのぞく気にはなれなかった。
あのヒトガタ、寝ている兄の胃の内容物だろう。中途半端に消化されたところで胃袋がほとんど動かなくなったから、力を持て余して外へ出てきたんじゃないか、と俺はにらんでいる。
一人暮らしの兄の部屋。もう訪れなくなって久しいが、あの夜食の習慣が続いていたとしたら、ひょっとすると……。