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作者: 羽場速雄

 風邪をひいた時のように全身が重かった。けだるい。とにかくけだるい。


 朦朧としだした意識をどうにか保ちつつ、彼は片足を引きずりながら、崩れかけた家屋の影に回りこみ、壁に背を預けるようにして座り込む。


 傍らにM4A1カービン銃を放ると、市街迷彩の施された上着の胸ポケットからタバコを取り出し咥える。おぼつかない手でジッポを使うが、火がつかない。壊れてしまったのだろうか。


 何度か試したあと着火を諦めた彼は、火のついていないタバコを咥えたまま、鉄製のヘルメットを脱いで放り投げた。


 投げ出すように放られている脚に目を向けると、先ほど自ら手当てした右足の太股に巻きつけた布が真っ赤に染まっている。止血処置は十分にしたのだが、出血を鈍らせるのが精一杯だった。


「だめか、もう」


 長い沈黙の後に力なく発せられた、同時に魂が抜けていくかのごとき声。貫通していたものの、彼の足にはライフル弾が被弾していた。


 国連軍所属の特殊部隊『ケルベロス』の一員としてK国紛争地帯に極秘裏に派遣されて1週間。国連関係の要人救出任務についていたケルベロスは、対象が監禁されていると思われる反政府軍支配下のとある町に潜伏。対象の存在を確たるものとしたのち、作戦行動を開始。要人救出に成功した。


 だが――


「地獄の番犬も、これじゃ形なしだな」


 咥えタバコを吐き捨てると、魂を吐き出すような溜息を吐き、そう呟いた。市街戦迷彩服は激しく汚れ、胸に付けられた、"地獄門を守る"という三つ頭の犬をデザインした部隊章も剥げかかっている。それが全てを物語っていた。


 作戦は成功したものの、ケルベロス隊は敵の激しい反撃に遭遇して分散してしまったのである。結果的に要人を救出した隊員たちが最も大きい集団となり、迅速に安全地帯へと退避したおかげで致命的な結末は免れた。


 しかし、残りの少数に分断された隊員たちが悲惨だった。戦術の基本、各個撃破を受け次々と命を落としていたったのである。


 彼も、少数に分断された側の隊員だった。


 死に物狂いで火線を潜り抜け、障害となる敵を打ち倒し、市街戦となって一般市民が家屋に隠れて人気のなくなった街中を必死で駆け抜けていた時、敵の放ったAK47の銃弾が脚を貫いたのである。


 それからのことを彼はあまり覚えていなかった。孤立無援となりつつも懸命に逃げ、九死に一生を得ながらここまでたどり着いた。


 だが、それだけだ。


 いつ敵にここに潜んでいることを発見され、狙撃されるやもしれない。万が一発見されなくても、止血剤を投与して処置をしなければ、遅かれ早かれ死んでしまうだろう。


 状況が打開されない限り、やってくるのはやはり『死』という一文字だけだった。


 国連軍とはいえ、軍は軍。戦いの地へと赴く宿命上、死ということに対して彼なりに覚悟を持ってはいた。いつ死ぬかもしれないということは、家族にも常々伝えていたことでもある。


 だからこそ、極限状態になってはいるが取り乱したり焦ったりする気持ちは湧いてこなかった。普段から感情をコントロールする術を身に付けていなければとても上手くはいかなかったろう。


 ――こんなものか。


 覚悟はしてはいたものの、実際に現実として死を間近に捉えることができても、それを実感として感じることができない。死に対して客観的すぎる心を身に付けてしまったからだろうか。


 命の源がとめどなく身体から抜けていくのを感じながら、彼は再び深く息を吐き出した。


「貴方は、どんな光景が見たい?」


 突然、その場にはまったく場違いな声、可愛らしい少女の声が彼の鼓膜を打った。


 いつのまにかすぐ傍に、銀色の長い髪を風にそよがせた10代前半くらいの少女――白人系の娘だ――がこちらを見下ろして佇んでいる。


 少女は太陽を背にして立っていたため、眩しさにその面持ちは薄っすらとしかうかがいしれなかったが、鼻周りにソバカスを散りばめた愛らしい顔立ちをしていた。


 光射す少女――まばゆい陽光の中に浮かび上がるその姿は、瀕死の彼にとって、その思考がある物を連想させることとなっても仕方のないことだった。


 なにより、東南アジアのど真ん中、現地住民以外に存在する外国人は兵隊だけという地区に、白人系のかような少女がそもそも居られるはずもない。


 ――幽霊、はたまた……天使。


 よもやと思う心。しかし、どうにか残っている彼の冷静な部分、『理性』がそれを否定する。


「どうして、こんな所に。この街の人間は、戦闘が始まってからみんな逃げてしまったはずだろう。家族からはぐれたのかい?」


 大分意識が朦朧としてきたものの、なんとか声を振り絞るようにして語りかける。


 すると、少女はまた、先ほどと同じ台詞を口にした。


「貴方は、どんな光景が見たい?」


 優しい声だ。全てを包み込むような暖かさが彼の鼓膜を揺らす。


 どうしてだろう。彼女の声を聞くと、自然とそれまでの猜疑心が洗い流されるかのように薄っすらと消えていく。


「私が見せてあげる。一番見たい光景を」


 彼女が幽霊なのか天使なのかなどということはもうどうでもいい。その輝く面持ちに、彼はもはや心を奪われていた。


「見たい光景……ああ、そうだな……国の、家族の……」


 声が出ない。自分では出そうとしているのにもかかわらず。


 それを慮ってか、少女が歩み寄ってきて傍に跪くと、目も空ろな彼の頬を優しく撫でる。そして――


「ほら、見えてくるでしょう? 貴方の、一番の宝物が――」


 耳元で囁かれる少女の声。


 それは徐々に遠くなっていき、やがて完全に聞こえなくなる。


 次の瞬間。


 彼は、石垣で護岸された小川のほとりに立っていた。


 いきなり飛び込んできた、先ほどまでとはまったく異なる景色に慌てる彼。自分の手足を確認すると、服装は変わらぬ市街迷彩服だったが、傷も出血した痕もない。


 わけがわからず、そのまま辺りを見回す。


 目の前には例の小川が。彼が立っているのは、小川に沿って設えられている土手で、砂利が敷かれている。舗装はされておらず、さらに土手に沿って木々が植林されている。


 小川の向こうには古びた日本家屋が立ち並ぶ町並みがあり、遠くの方で懐かしくも今でも聞ける、豆腐屋のラッパの音が鳴っていた。


「こ、ここは……」


 彼は絶句した。見違うはずもない、その光景は彼の故郷の景色だったのだ。


 並木の紅葉は綺麗に紅葉し、時折風に煽られてはらりと淡い紅の芸術を落としてくれる。


 その傍を、小枝を持った少年たちが駆け抜けていく。元気一杯に、声を上げながら。


 彼の大好きなふるさとの秋景色――ついこないだ見たばかりだというのに、まるで何十年も見ていないかのように懐かしい。彼の目尻には、大粒の涙が浮かんでいた。


「――あなた」


「――パパ」


 懐かしいのは景色だけではない。彼を呼ぶ、その声は。振り返ると、妙齢の女性と傍らに幼い女の子の姿が。


 誰あろう。彼にとって、最愛の2人。


 どうして故郷の景色が広がっているのか。どうして愛する2人がそこにいるのか。


 彼にとっては理由などどうでもよかった。


 刹那、彼は駆け出していた。2人のもとへと駆け寄ると、女性を抱きしめ、次にしゃがみこんで少女を抱き締めた。


 パパ痛いよ、という少女の声が力を入れすぎた彼の耳に届いたが、彼はその力を緩めることはしなかった。


 と――


「宝物、見えた?」


 あの少女が自分を見下ろしていた。


 突然、故郷の景色も愛する2人の姿もなくなっていた。あるのは、先ほどまでの戦地の光景と、不思議な白人少女の姿だけだ。


 唖然としながら少女を見つめる彼。


「本物を、見たい?」


 少女は言った。彼が見た一連のできごとを知っているような口ぶりで、言った。


 彼女の言動にさらに驚いていると、それを踏まえたように言葉を続けた。


「本物に、会いたい?」


「当たり前だ!」


 たまらず、少女の問いに即座に怒鳴り答える。何かを試しているような彼女の態度が、だんだん勘に触り始めていた。何かとてつもない力を行使しているかもしれない、得たいのしれない少女ではあったが、彼は不思議と怖くはなかった。


 それどころか、ここまで逃げてくる時、最後には身体が重くて仕方なかったのにもかかわらず、今は至極楽だ。気持ちもゆったりとしているし、さらに致命傷になりかけていた出血も止まっている。


 とても人智では推し量れないできごとに目を丸くしていると、


「……よかったわね。貴方の想いは本物だわ。生きる力がみなぎってきている。これなら連れて行くわけにはいかないわね」


 そう言って肩を竦め、少女は両手を腰にあてて天を仰いだ。


「何を、言ってるんだ」


「貴方、生と死の狭間にいたのよ。だから、私が来た。でも、狭間だったからそのまますぐ連れて行くわけにはいかない。だから試したの。大切なもののために、精一杯まだ生きたいのかどうか」


 真摯な目で彼を見下ろす少女。その言葉には澱みなく、彼の心に深く染み渡る。


「試したって……君が、あの光景を」


「私はきっかけを作っただけ。貴方が最も大切にしているイメージを作りやすいように。見た光景を作り出したのは、貴方の想いの力よ。そう、生命を繋ぐ『大切なもの』を想う力が」


 そう言って少女は溜息を1つ吐くと、踵を返して立ち去ろうとする。


「この辛くて苦しい世の中でも、懸命に生きていくに足るものが貴方にはある。だから、連れていかないわ。生を選んだ者に関しては私の管轄じゃないもの。天使の加護でも受けてなさい」


 そういい残して。


 呆然としかけていた彼は、ハッとなって彼女を呼び止めた。


「君……い、いや、貴女はいったい……」


「私? 私は――」


 脚を止めた少女の衣服が急に歪んだ。一瞬にして白亜のワンピースが黒く染まり、その上に同色のマントが羽織られる。いつのまにか少女の髪の色も黒く染まり、頭には頂が尖った帽子が。


 振り返った少女の手には彼女の身長を越える柄を持った大鎌が握られ、その面持ちは先ほどまでの少女のものではない、若い女性のものへと変化していた。


 面立ちは変わっても、少女の雰囲気は残している。美しい彼女は微笑み、こう言った。


「――あと何十年かして、貴方が天命をまっとうしたら……その時にまた会いましょう」






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