使者
2050年―――
木製ベッドの傍のアナログ時計は午前七時前を示している。学校は八時半をめどに登校するように言われていたのでずいぶんと時間があった。
かと言って何もする事がなかった風神俊は、ベッドの傍に備え付けられている勉強机から椅子を引き抜くと、その椅子を窓際に持って行き、何を考えることもなくただボーっと黙りこくって外の景色を眺めていた。そこから見えた町の景色は、休むことも忘れたように稼動し続けている。
「そういえば、台風がもうすぐ来るって言ってたな」
そんな言葉は嘘のように空は青空だけが広がっていた。
青空の静けさは伝染でもしているのか部屋の中にもうるさ過ぎるほどの静寂だけが漂い続けている。
部屋の扉も傍にある窓も締め切っているので、外からの音は全くと言ってもいいほど耳には入ってこなかった。
我ながらに部屋の防音設備は完璧だな、瞑想するにはいい環境かもしれない。
という変な事を考え背を向けていた部屋を見渡す。別に瞑想をするつもりもないので、そんな考えもすぐに静寂の中へとけていく。
その時ふと頭がぼんやりするのを感じた。決して寝不足なわけではなく、前日もしっかり睡眠をとっておきたいが為に、午後九時には布団の中に入っていた。
だがなぜそんなに張り切った調子で布団の中に潜り込んだのかは既に記憶になかった。もしかすると今日が「入学式」と言う「大事な日」だからなのかもしれない。
とりあえず動くか……。
そう思って立ち上がった時、さっきまで見ていた鮮明な夢を何の気なしにふと思い出した。それまで夢自体をほとんど見ることがなかった俊にとっては、夢を見ることは新鮮なことだった。
何だったんだろう、あの夢……。
普段しない経験に少し困惑し頭を掻く。が、夢はいくら思い返しても夢としてしか捉えられないと言う様子で首を軽く振り、別段興味を示すこともなく部屋の中を歩き始める。椅子は窓際に置き去りになっていた。
頭がまだぼんやりとしているので、まっすぐ歩こうとしても足元が絡まってつまずきそうになった。
何か変だな。
そうしてやっとのことで扉にたどり着くと、一言「眠い」という言葉を静寂で満ちた空間残し、重々しい自分の手を扉のドアノブにかけゆっくりとドアノブを引き下げた。
起きたときは体調がいいと思っていたが、あれは気のせいだったか……。
その時はそんなくだらない事を考えていた。
部屋の扉を開けると、まず目に入ってくるのはダイニングスペースだった。
俊は思わず「あれ?」という疑問が口からこぼれた。いつもならダイニングスペースの奥のキッチンでは俊の母、栄美がせわしなく俊のお弁当を作っているはずだった。
だが今日はその光景を拝むことはできなかった。それどころか辺りを見渡すと、どこにも人の気配がしない。
これまでに経験のない状況に俊はなんとなく胸騒ぎを覚えた。いつもの光景を見れないほど不安なものはない。
自室からダイニングスペースへ出ると、そのままダイニングスペースに隣接したリビングスペースの方へ視線を移す。
だがリビングスペースを覗いてみても誰もいなかった。
どこ行ったんだ? まさかまだ寝てるのか?
自室の前を通り過ぎ、廊下を通り抜けて洗面所のほうへ向かった。覗いてみるが誰もいない。洗面所には風呂場が備え付けてある。もちろんそこも覗いて見るが誰もいない。
ここで寝てたらある意味胸騒ぎ当たってるかも……。
引きつった笑みで洗面所から出ると、目の前にある栄美の寝室に目を向けた。
扉は締め切られており、そこには「入るな危険」という危険な雰囲気を微塵も漂わせないユニークな字体で構成された看板が画鋲で紐をとめられて釣り下がっていた。
もしかしたらまだ寝ているのかもしれないな。
そう思い部屋の前を後にしようとしてふと立ち止まる。
さすがにこの時間で起きてもらっていないと弁当の時間が間に合わない。
俊は栄美の寝室の扉を三度ノックし、ドアノブに手を掛けゆっくりと下に下ろし扉を押そうとしてまた動きを静止させた。
もしここで部屋に入ったことがばれたらどうなるだろう。そもそもこの中って入ったことないからどうなってるかとかわからないし、この看板もふざけてる様に見えてあながち間違いじゃなかったりするんじゃないのか……? くそ、一緒に生活してるのにこんなに躊躇うことになろうとは……。
だがそこでふと気づいた。
ノックをしたのに返事がない。
躊躇しながらも恐る恐る部屋の中を覗いてみると、覗き込んですぐのところにベッドが見えた。傍には洋服掛けが置いてあるシンプルな部屋だ。
だがそこに肝心の栄美の姿は見当たらなかった。
「あれ、いない」
俊は思わずそう呟いた。その言葉も静かな空間に溶けていく。
「一体どこ行ったんだ……?」
検討もむなしく、部屋の扉を戻してその場に棒立ちになり傍の扉を見た。
「もしかして、トイレか」
だがそこから光を発している気配はない。
大の大人が子供に向けてこんないたずらをするだろうか……。
少し首をひねり、母のことを思い浮かべる。
「母さんの性格じゃそれはないか」
じゃあ母さんは一体どこへ……。
そうして廊下の延長線上に続く大きな鉄のドアに視線を向ける。
そこはこの家唯一の木造でできていない扉、内と外をつなぐ玄関だった。
「もしかして外か?」
そう独り言を呟き、玄関のほうへと歩いていく。
玄関に無造作に放り出されたスリッパをがさつに履くと、扉の鍵を開けて外へ出た。外は穏やかな朝の日差しに加えて、暖かい春の陽気が漂い、一瞬にして俊の体を温もりが包み込むのがわかった。
地上五階建てマンションの四階に位置している風神家は、景観が決して悪いわけでもなく、目先百メートルの地点では宙を電車が走り抜けていくところだった。
俊の住む地区はそれほど土地開発が進んでいるわけでもないので、今の電子都市化が進むご時勢においてこれと言った物珍しい物はなく、強いて言うなら電磁パルスの知識を応用して用いた宙を走る電車ぐらいのものである。
その危険に見られることもある電磁パルス式列車も通常通りの運行を見せ、その他にも何も変わったことは無く町並みはいつもどおり穏やかだった。
走り抜けていく電車を眺め、俊はため息をついた。
勢いで外出たけど、そういえば母さんの行く当てわかんないな……。
「この調子じゃ、朝も昼も抜きになるし。弁当ぐらいおいてってくれればな……」
俊は栄美への卑屈をぼそぼそと呟くと、扉を開けて玄関へと戻っていった。
玄関の扉がバタンと閉まりきってからふと思った。
弁当ってそもそも作られてなかったっけ? 俺確認してないような……。
俊は急いで玄関にスリッパを無造作に脱ぎ捨てると、勢いそのままに廊下を伝ってダイニングへ出た。
いつもならダイニングに置かれたテーブルの上には弁当が用意されているはずだけど……。
だがその期待も虚しく、テーブルを見てもそこには何もなかった。
「やっぱり弁当無いよな」
嘆くように呟くと、俊はダイニングテーブルに備え付けられた椅子を引き抜いてそこに座った。
深いため息とともに、朝日が照らし始めたダイニングテーブルに上半身を寝そべらせると、テーブルの上で何かがクシャッと音を立てた。
「ん?」
反射的に寝そべらせた上半身を起こし音が立った辺りに目を向ける。
そこには一枚のメモ用紙が端のほうだけ少し折れ曲がった状態で放置されていた。
「こんな紙、あったっけ?」
俊は小さなメモ用紙を拾い上げた。
朝日の日差しが差し込んでるといっても、ダイニングスペース自体が暗かったのでメモ用紙に何が書かれているのかがハッキリとはしなかった。
「照明」
俊が言うと、音声認識機能で室内照明が作動する。
室内照明は朝日に負けず劣らずの暖かさをその場に生み出した。
メモの内容がハッキリすると自然とため息がこぼれた。
そのメモには「俊へ」と冒頭に書かれたそのメモの最後には「母より」という文字が刻まれている。それは今までの行動のすべてを無駄と定義付けることになった。
「もっと一つ一つの場所をしっかり見るべきだったか……」
メモと睨み合いながら自分に言い聞かせ、内容について目を通した。そこにはこんな内容が記されていた。
俊へ
おはよう。調子はどうですか? 私は元気です。今日は朝から俊の新しく行く予定の学校のところで少し調べたいことがあったので、先に行かせていただく事にします。今日は入学式なんだから遅刻しちゃ駄目よ? あ、そうそう入学式は午前で終わるからお弁当は作ってないから探しても無駄よ。朝ごはんはキッチンにおいてあるから忘れずに食べてから来てね。じゃあ後は遅れないようにね。
P.S.もしこれを読んだのが七時半を過ぎているなら、あなたはきっと学校に間に合わないでしょうね。
母より
俊はそのメモを読み終えると、リビングの天井近くに吊り下げられた壁掛け時計を見た。その時計は、もうすぐ午前七時半を知らせようとしている。妙に追記が俊の心に深く刺さった。
何でこんなに的を射たような伝言なんだよ……。
心の中で深く毒づくと、同時に勢いよく立ち上がる。
「やばいぞ、これ……」
思わずそんな声が出てしまうほど心の中からは余裕が飛んでいっていた。
立ち上がったときテーブルに足をぶつけゴンッという音がなるが、痛みすらも気にも留めることはなく、ただひたすらに無意識のまませわしなく準備を進める。
ただ脳内には「遅刻」という二文字だけが飛び交っていた。
焦ると人は行動が早くなる傾向があるのかもしれない。
家の鍵を閉め木造マンションの木製の階段を駆け下りている時に、ふとそんな考察が脳裏によぎった。というよりも、それは身体全身に感じた。
自分の周りに風が波立っているような気が……。
「まぁ、気のせいか」
道路に出ると、道が開けたことでより加速力を増した。一般的な街路道は交通整備の促進化で今は車自体が走っていない。なので最近の子供たちは自分の家に車が無い限り、車という存在を知らないという時代になっている。
まぁ、大体が車を持っているからそんな子供はほぼゼロに近いと思うけど……。
カッターシャツにネクタイにセーターにブレザーとズボンを合わせた制服一式を雑に着こなし、髪型も入学式にはそぐわないような寝癖というだらしない格好の状態で走り続ける俊を、幸い見る人間は一人もいなかった。
朝の通勤ラッシュというのは大体が車なので職場が近くても歩く人間がいないというのが原因である。
ラッキーだ、遅刻寸前ということもあって学生もいない。入学式だから持ち物も必要ないし、これなら恥を掻かなくてすむ上に間に合うかもしれない! 身体軽いし! 速いし!
その幸運をかみ締め、俊は電車に乗るために一直線になっている駅への道を突っ走っていた。
階段を駆け下りてからは、ずっと走りっぱなしだったので、さすがに疲れが現れたのか、走力が衰え始めるのを感じた。
朝飯も食わなかったのは、誤算だったかも……。
ガス欠になり、走ることを忘れたかのように足がゆっくりと静止していく。そのまま歩くこともままならず、その場に動けなくなった。
そこは改札前であった。そこに電車が来る。
「嘘だろ!?」
その光景を目の当たりにした俊は絶句した。
あと、一歩なんだぞ……?
俊は「遅刻」という絶望に浸りながら、突然動かなくなった身体にこぶしを立てる。だがそのこぶしも力が入らなかった。
「どうなってるんだ……?」
俊は自分の手を見て表情を曇らせる。
すると突如、自分に向かってものすごい突風が吹き付けるのを感じた。
「君で間違いなさそうだな」
どこからかした声に俊は残り少ない力で顔を上げて辺りを見回す。すると俊の目の前に一台の車が着陸態勢に入っているのが目に入った。
俊は声も出ないといわんばかりに首だけをかしげ反応する。
すると車の扉がゆっくりと開き、中から一人の男性が顔を覗かせた。
「何だお前、ガス欠か?」
そういった男は車から降りる。その男は背筋を伸ばせば身長が180センチほどあり、顔立ちは少し眉毛が濃く感じた。俊は突然話しかけられたことに驚きつつ、再び表情を曇らせた。
「あんた、誰」
その問が来ることを見越していたかのように男は頷くと、淡々と返答した。
「まぁ、そう聞かれるのも無理はないだろうな。教えてやろう、私は君の救世主だ」
その言葉に俊はぽかんとする。
「悪いけど、今そういうノリじゃないから」
「ふむ。どうやらそのようだな」
車から降りてきた男は、着込んでいたコートの懐のポケットから小型のケースを取り出すと、そのケースからラムネ型のトローチを取り出し俊に放った。
突然のことにあわてながらも、しっかりとその小粒トローチを掴み取る。
「何ですかこれ?」
俊はトローチをじっくりと観察する。
「それは我が部隊の治術士が開発した特殊回復薬だ。飲めばお前の体力は一瞬で元に戻る」
俊は息を呑み、不信な顔になった。
「どこの誰が、知らない人から渡された薬を飲むって言うんですか? おもちゃとかで釣るよりよっぽど質悪いですよ」
すると不審者の男はやれやれといった態度をとる。
「確かにそれもそうだな。信じてもらえないのも無理は無い。でも俺、これからあんたを誘拐するつもりだったんだけど……」
その言葉に俊は目を剝く。
「俺に何の用ですか」
すると、不審者の男は口元に笑みを浮かべた。
「その答えが知りたいなら、この車に乗るんだ」
男の半ば脅迫めいた言葉に俊はまたぽかんとする。
「要件も聞いてないのに不審な車に乗るわけないだろ。あんた小学生の時習わなかったのか? 物に釣られて不審な人について行くなとか、車に乗るなとか」
すると男はさらに説得を重ねようとする。
「君のお母さんも関わってるんだ」
俊は呆れた。
「誘拐とかに無茶苦茶ありがちのパターンじゃないか」
男は首を横に思い切り振る。
「だからそうじゃない! 俺は君を拉致やら誘拐やらしたい訳じゃない。ただ俺の言うことに従って欲しいんだ。君のお母さんが関わっていることも嘘ではない。信じてくれ、頼む」
それまでとは違う男の必死さに、俊は少なからず圧倒された。だが決して不信感が取れたわけでもなかった。
「じゃあ、何かあんたを信じれるものとかないのか」
その言葉に男は俯く。
無いのかよ。
俊はため息をつく。
ここで男について行ったとして、何があるかなんてもちろん検討はつかない。だがさっきの電車に乗れなかった時点で遅刻は確実だ。今更焦ってももう遅い。それなら……。
俊は手元のトローチを不審者の男に見せた。
「これは賭けだ。俺は今からこれを飲む。もしこれが毒薬か何かなら俺はただじゃ済まない。だからそのときはこの端末でここに警察を呼ぶ。位置情報をオンにしてるからものの数秒で来るだろう。でもこれが毒薬じゃなく回復薬だったなら、俺はあんたを信じてその車に乗ってやるよ」
俊は時計を電話機能端末に設定し、それを地面に置き位置情報を解除した。
「どうだ? あんたは結果を知ってるだろうけど、やってみるか?」
すると不審者の男は淡々と頷いた。
「いいだろう。それで信じてもらえるのであればぜひそうしてくれ」
なるほど自信はあるってわけね。
俊は端末に「110」の発信番号をセットした。
「行くぜ」
俊はその言葉を合図にトローチを口の中に入れる。すると途端に身体から湧き上がってくるものを感じた。
何だこの感じ……、苦しくないけど回復してる感じもしない。
俊が手を眺めてみると、身体の周りから緑色の光を発しているのがわかった。
「これは、どうなってるんだ?」
俊が独り言のように呟くと、不審者の男は口を開いた。
「それは治術士の術式『ヒールグリーン』というものを素に改良したものだ。かなりの治癒性があり、傷なども癒える」
そうして口元にほころびを浮かべる。
「な? 変な薬じゃなかったろ?」
俊は立ち上がる頃には、「ヒールグリーン」の効果は切れた。
「すごい……」
薬の効果に感嘆すると、不審者の男を見た。
「あんたに一つだけ確認したいことがある」
「なんだ?」
「あんた、俺の母親が関わってること知ってると言っていたけど、もしかして学校関係者か?」
その言葉に男は一瞬だけ身震いをした。
図星……なのか?
すると不審者の男は仕方がないと言うように口を開く。
「バレてしまっては仕方が無いな。その通り、俺は学校関係者だ。だからお前を迎えに来た。さっき行った電車に乗り損ねて遅れそうになっていたからな」
本当だろうか……。
俊は再び不信に感じつつも曖昧に頷く。が、全貌をすべて語ったようには見えなかった。
「他に何かあるみたいだけど、とりあえず乗りますよ」
「ありがとう」
不審者の男はしみじみと礼だけを述べ、頭を垂れた。彼の髪に微かな緑色の髪の毛が見えた。