序章
2018年―――
高く聳え立つ煙突の先からただ何事もなく黙々と上がり続ける黒い煙は、ほのかにこれから自分たちに起こる悪夢のような現実を予期していたのかもしれない。
煙突の煙によってか、普段は青々と元気な様子の空も今日はどす黒く濁った塵の塊が覆い隠し、空もまるでこれから起こることを密かに告げている感じがした。
淡々と暗雲の下を走り続けていたバスは、突然急ブレーキをあげて止まる。
何事かと車窓を覗いてみるとそこには果てしなく続く、先の見えない海が広がっている波止場だった。
どこ……かしら?
暗がりだったので、海の水は淀みを含んでいるようにも見える。が、実際の純度はもちろんわからない。
ここで一体何が始まるのかしら……。
バスの車内は静寂の中で不安だけが漂っている。だがそれは無理もないことだった。私たちはもともと「花火大会見学ツアー」という日帰りツアーの帰りで花火観賞も滞りなく済み、後は名古屋駅で解散という流れになっていたからだ。
しかし当初に記されていた予定と、今現状で起こっていることはまるで違う。乗客が困惑し、不安に駆られるのも無理はなかった。
多くの浴衣姿の乗客がいる中で、バスが止まった途端にさっと立ち上がる。その男性客は、元からだろう野太い声で同乗していたバスガイドに尋ねた。
「これからここで、何かあるんですか」
男性が放ったその声からは、隠しきれない不安が漏れ出すように感じられた。
男性のその言葉にバスガイドは丁寧な口調で答えた。
「はい。もうすぐここで、この日帰りツアーの最後のイベントが始まりますので、とりあえずのご降車をお願いいたします」
バスガイドの突拍子もなく放たれた「降車願い」の言葉に、乗客は一瞬戸惑いの色を見せると、その反応と寸分違わない頃に、ゆっくりと降車口のドアが開いた。
「さぁ、どうぞ」
バスガイドの言葉に促されるままに、乗客たちは戸惑いながらもぞろぞろと席を立ち始める。
間を空けるように席を立ったので、車内の人々はスムーズに外へと押し出された。
降車口の階段を一段ずつ降りていくと、車内の生ぬるく気持ちの悪かった空気は、海の独特な潮の風ととりとめもない湿気で、より一層重苦しさを際立たせた。そしてその風はこれから起こることを暗に意味している感じがした。
乗客が全員バスから降りると、バスの扉は閉まり何事もなかったかのように波止場を発車した。乗客たちの中で動揺が巻き起こる。
「どういうことですか、あのバスがなかったら俺たちは帰れないんですよ」
さっき声を上げたのとはまた別の男性客が、バスガイドにそう詰め寄った。だがバスガイドはその質問を予期していたかのように頷くと、丁寧な口調で言葉を返した。
「心配には及びません。あなたたちはここから帰る手段をなくしたわけではありませんよ。彼がいる限りは」
そういってバスガイドは、ある一転の方向に向けて指をさした。その方向に乗客達は顔を向ける。だがそこには、「彼」と呼ばれた人物どころか人気すら感じなかった。
「誰もいないじゃないですか」
浴衣姿の女性客の言葉に、バスガイドは毅然として微笑みだけを返した。
「どういうつもりよ」
バスガイドの対応に男勝りなさっきとは別の女性客が苛立ちを見せる。
すると乗客たちの中からはっ、はっという甲高い笑い声があがった。甲高いと言っても、機械音に変声された声だったので、性別を識別することはできない。
バスガイドに詰め寄っていた女性客達も反射的にそちらを振り返る。
笑い声が合図だったのか、バスガイドは先ほど自ら指をさした方角へ向けて上品な歩き方で進み始める。
乗客の中に紛れ込んでいた笑い声を発する人物も、乗客が道を開けていく様子からバスガイドと同じ方向に進んでいっているのがわかった。
やがてその人物はたくさんいた乗客たちの中から一人歩み出るとバスガイドと合流し、乗客たちとは少し距離をとって足を止めた。そこはこの波止場で唯一ある街灯の傍だった。なので光の逆光によって二人はシルエットになり結局乗客にまぎれていた人物をはっきりとは見て取れない。
だがどうやらシルエットの体格的にそれはポロシャツを着ている男性のようだった。
あんな男、さっきバスの中にいただろうか……。
その男は乗客たちの前に立つと、なおも逆光のまま機械音の言葉を発した。
「おめでとうございます皆様。あなた方は私どもの実験の被験体第一号に選ばれました」
その言葉に乗客たちは皆、困惑の色を浮かべずにはいられなかった。そんな戸惑った不穏な空気になることを見据えていたかのようにその男は言葉をつなげた。
「先ほどから不安感を募らせている方が多いようですが、そこまで心配するには及びませんよ。あなたたちに危害を加えるつもりはありません。ただ少し…」
男は言葉をためると、
「私の人生を変えていただくだけですから」
と、言葉を付け加えた。
乗客たちには訳がわからなかった。それもそのはずだ。ただの日帰りツアーだったはずが、こんな波止場に連れ出され、帰る手段を失い、挙句の果てに実験の手伝いをさせられその実験内容がその男の私情と来たものだ。
戸惑いや不安は徐々に無益に振り回されたことへの怒りに変わってきていた。
「俺たちを巻き込んでどういうつもりだ! そんな実験、お前の隣にいるバスガイドだけで十分だろ!」
怒り任せに発せられ始めた乗客たちの言葉に、男は笑って返した。
「バスガイドさんでの実験は既に済ませていますよ。それだけじゃ駄目だったから、こうしてあなたたちを巻き込んでまで大掛かりなことをしているんでしょう。そんなこともわからないんですか」
挑発するような口調は、乗客たちをいっそう刺激した。
「なんだと!」
乗客が今にもその男に掴みかかろうとした時、それまで黙りこくっていたバスガイドが乗客と男の間に立ちその場を制した。
「黙りなさい! これは命令なのです。あなたたちに逃げ道はもうないのです。おとなしく従えないというのであれば私がこの手でこの実験のことを知ったあなた方全員を、殺します」
バスガイドの言葉は、これまでとはまるで別人のような鬼気迫る声だった。その声に思わず乗客たちは仰け反った。
彼女からは、憤っているからかさっきまでのおしとやかな様子はまるで消え失せ、彼女の周りにはいつの間にかダークブルーのオーラがにじみ出ていた。
バスガイドの言葉に、乗客たちは全員縮み上がった。
この実験を口外してしまえば確実に彼らに殺される。しかもここからでは帰る道もない上に、それで帰れたとしてもいづれは殺されるかも知れない。それで無慈悲に殺されるくらいなら、彼らの「危害を加えない」と言う言葉の方を信じたほうがまだましかもしれない。乗客たちしみじみとだが確実にそう考えるようになった。考えるしかなかったのだ。
男が乗客たちを見渡すと、そろそろかと言うぐらいに再び口を開いた。
「この実験がどれほど重大なものなのかと言うことを、よく理解していただけましたか」
男の問いかけに、恐る恐る頷く者と、半信半疑に首をかしげたまま男を見つめ続ける者と二パターンに分かれた。男は全体を見回すと、半信半疑の者に関わらず全員が了承したと判断し話を進める。
「ではあなたたちは、そこに立っていてください。それだけで結構です」
あまりにも安易な指示に、乗客の誰もが拍子抜けし、開いた口はふさがらなくなる。
「本当にそれだけでいいんですか」
思わず女性客の一人がそう聞いてしまうほどだった。
「はい、問題はありません。ただそこに立っているだけでいいのです。だから言ったはずですよ? 危害は加えないと」
乗客たちはその言葉を聞いて、ホッと心をなで下ろすと指示に従うままにそこに立ち呆けた。
男はその光景を見ると「よし」と頷きと、街灯の柱のほうへ身体を向けた。
背中を向ける男に飛び掛る人間は一人もいなかった。男の傍ではさっきとは表情もオーラも違うバスガイドが乗客たちに目を光らせていたからだ。本能的に足が動き出すこともない。
それまでは気づかなかったが、街灯の真下には一つの操作卓のようなものがあった。男はそこで何やら無言のまま操作を始める。乗客たちは息を飲んで男の行動を見守り、バスガイドは乗客たちが男に見入る様子を監視するような目で見つめていた。その目は一瞬たりとも反れない。
「それでは、始めさせていただきます」
その言葉とともに男は一つのスイッチを軽くタッチした。タッチパネル式のようだった。押したすぐには何の反応もなかった。何も起こらないので、気抜けしたように油断も生まれる。
そうして気が緩み始めた次の瞬間だった。
操作卓の裏だろうか、そこから一筋光が空へと打ち上がった。それは乗客たちが波止場に来るまでに嫌と言うほど目にした花火大会の花火の打ち上がる光景に似ていた。だがその光は花火ではない。
打ち上がった光はみるみる上昇を続け、その後黒く染まる煙のような雲の中へ入っていった。どうなるのだろう、と興味半分で乗客たちが空を見上げていると、光の入った雲のあたりから微かな閃光が見えた。
「何だ……あれ」
乗客はその光景に思わず呟いた。微かだった光は瞬く間に空一面の黒い雲を黄緑色に染め替えるほどの発光を起こした。
「何が起こっているんだ」
乗客の何人かがいつの間にかさっきまでの不安な表情を取り戻してしまっている。だがそれは無理もないことだった。
光を含んでいた分厚い雲は空の中で段々と膨張し始めている。そして次の瞬間、空を仰いでいた人々の目を堪えきれない程の眩い光が襲い人々は一斉にうずくる。中には立つこともままならない人も現れた。
「うわっ!」
思わず数人はそう声を漏らし倒れ込む。だがその一瞬の閃光は悲劇の始まりに過ぎなかった。
しばらくすると今度は空から無数の緑色の光線がうずくまる人々に向かって集中的に振り注いだ。
「ぐはっ!」
光線は次々と人々の身体を貫通していく。人々は恐れおののき逃げ出そうとするものもいたが、その行為も時既に遅く一人残らず光の餌食となった。
男は人々が倒れ行く光景を影で見ながら口を開く。
「よかった」
するとバスガイドはそこに言葉を添える。
「あなたを殺せる人が、現れるといいですね」
男はその言葉にノイズのような音で笑った。
「もう見つけたよ。逸材を」
男の言った言葉はその時いた誰の耳にも届くことは無かった。悲鳴と光線の爆音が木霊する中にとって、男の声はあまりにも小さすぎたからだった。
思った以上に光線は痛くはなかった。ただ、体が焼けるほど熱さを身に覚えただけだった。その光のシャワーの中から、男とバスガイドがその場を立ち去ろうとするのが一人の女性には見えた。男は操作卓から離れる直前、光線に撃ち抜かれる人々に向かってこう言った。いや、言ったように感じた。
「これで俺の人生はゲームオーバーに近づいた」と。
男はその言葉を残して、闇の中へと消えていった。その言葉は決して間違いではないと言うことにその後、気づかされることとなる。
2050年―――
瞼を開くと、目には木製の天井が映った。
「夢……か」
朝から中々ハードな夢だな。
そう思いながら寝癖で潰れた天然パーマのようになった頭髪を掻き毟る。元から癖毛の風神俊にとって寝て起きた後の寝癖というものはまさに天敵である。
上半身を起こして近くの棚においてあるデジタル時計を見る。そこに記された時間はまだ七時前だ。
今日は調子がいい。
そんな気がした。ゆっくりと布団から出ると、変にまくりあがったズボンの裾をしっかりと延ばす。部屋のドアを開けばまたいつもの日常が始まる。この時まではずっとそう思っていた。これが波乱の幕開けになるとも知らずに。