四百十六.陳宮の最期
運命は皮肉を極む。時の経過に従って起るその皮肉な結果を、俳優自身も知らずに演じているのが、人生の舞台である。
吉川栄治『三国志(四) 臣道の巻』より抜粋。
今、この状況を見るに、人生と言うのは複雑怪奇、奇々怪々である。
陳宮が中牟の県令として関門を守っていたあの時、曹操を助けなければ今の状況は生まれなかったであろう。
あの時の曹操は夢見る一志士でしかなかった。
董卓暗殺に失敗し、天下に身の置き場を持たぬ、お尋ね者の底辺野郎であった。
それが今やどうだ?
その董卓をも凌ぐ地位におり、『大将軍曹丞相』と敬われ、一声上げれば天下を動かすことが出来る。
それほどの権力を手にし、かつての・・・一時の仲間であった陳宮を冷酷にも見下しているのであった。
「・・・・・・・」
呂布とは違い、陳宮は曹操を前にしても膝を折らなかった。
立ったまま、ジッと曹操を見つめ、過去の彼との会話を思い出していた。
そこへ、彼の傍にいた武士が、
「坐らぬかッ!!」
と言って、陳宮の膝を棒で叩こうとした。が、曹操はそれを制した。
「よせ。無礼を働くな。―――陳宮よ。部下が失礼した。」
「・・・・・・」
「貴公に会うのは久しいが・・・どうだ? その後は恙ないか?」
「見ての通りである。そして、今の言葉を聞いて確信した。曹操殿、貴公は・・・貴公は変わっておらぬな。あの時と何一つ変わっておらぬ。表面は優雅でも、その内に流れる魂は冷酷な小人のままだ。恙ないかとの訊ねは私を愚弄するための言葉そのものだ。」
「なるほど、私を小人と言うか。―――誰か鏡を持って来い。この男の前に置き、面を映してやれ。そしてもう一度、同じセリフを述べさせよ。そうすれば、誰が小人かこの男もわかろう。」
「ぐっ!? 曹操!あなたは」
「陳宮よ。今一つ君に問いたい。・・・何故君が負けたか分かるかね?」
「このアホが私の言うことを聞かなかったからだ!!」
陳宮は自身の横で跪き、俯いている主君に目をやった。
「お前に負けたのではない、主君に負けたのだ!」
と、彼はそう言いたげであった。
この答えを曹操は一笑した。
くだらぬ・・・全く的外れの回答だと彼は一笑に付したのだ。
「お前が負けたのは其処にいる呂布のせいではない。君自身のせいだ。」
「君が私の下につかなかった。」
「だから君は負け、私が勝った。呂布などの下につかなければ、今頃、君は私の横で勝利の美酒に酔いしれていたであろうな。」
「―――陳宮よ。最後の問いだ。何故私の下につかなかった? 何故呂布という暗愚を選んだのだ? 答えろ。」
最後に曹操は、陳宮の人物評を問うた。
これは彼自身がどうしても理解できぬことであったからだ。
『優秀な自分ではなく、何故呂布の下についたか?』
この答えを聞かずして、彼との生涯の別れをしたくはなかったのである。
この曹操の問いに、陳宮はしばし目を閉じ、嘘偽りのない答えをしようと自分の気持ちを整理し始めた。
その間に音は無かった。
静かに、誰一人言葉を発さず、彼の答えを待ち続けた。
―――そしてこの時、曹操の横にいた一人の男が、誰よりも・・・その場にいた誰よりも集中して、陳宮の答えを待ち、耳を傾けていた。
(この男の答えを私は知りたい。どうしてもだ。)
男もまた目を閉じ、陳宮の答えを待ち望んだ。―――
―――刻は十分に経った。
やがて陳宮は目を開き、声を大にしていった。
「いかにも!呂布は暗愚で粗暴の大将に違いなかった!!」
「しかし、彼には貴公には無い善性があった!」
「そう!『義』だ!」
「彼には義があった!正直さがあった!素直であった!そういった義が彼にはあった!」
「少なくとも、貴公の如く酷薄で詐言が多く、自己の才能に溺れ、遂には、上を犯すような奸雄ではなかった!!」
「だからこそ、私は彼を見限らず、彼に命を懸けたのだ!!」
「これが私の答えだ!!」
この陳宮の答えを、周囲にいた諸将は理解できなかった。
『呂布に義がある。』
この一点のみが理解できなかった。
しかし、問うた曹操は、完全ではないが陳宮の答えを理解し、自分なりに解釈して大いに納得した。
そして、彼の横にいた男も、曹操の解釈とは異なったが、同様に理解し、解釈して納得の色を見せた。
「・・・見事だ、陳宮。誠に見事な答えであった。先程一笑したことは詫びよう。貴殿のような人物に出会えたこと。この曹操、生涯忘れはせぬ。―――これ以上の問答は不要だ!速やかに軍法に照らし、彼の首を刎ねよ!!」
ついに下された王の命。
陳宮は最後まで曹操に頭を下げることはしなかったが、一言、
「感謝至極にござる。」
と述べた。
そして、横にいた呂布に一礼すると、自身の足で白門楼の長い階段を降りて、下なる首の座に坐った。
その後ろ姿を見た曹操の頬に一筋の雫が流れた。
留恋の私情と王としての責務。
揺れ動いて感情が溢れ、曹操は涙したのだ。
二、三羽の鴻が空にて鳴き渡る。
そして、その鳴き声に混じり、戛と音が鳴った。
刑刀が一閃を下り、陳宮の首は刎ねられた。
これが陳宮の最期であった。
『陳宮公台』
曹操を助け、曹操を見限り、曹操に敗れた才人。
しかし、皮肉の運命を歩んだその道を彼は決して後悔はしなかった。
誤まろうとも自分の信じた道を突き進む。
彼はまさにその言葉を体現した一人の漢であった。




