3.おいかけっこ
正隆は本当に山田モモを追いかけ始めた。
完璧だと思った男の意外なほどの不器用さに、俺はつくづくあきれたが、山田モモが正隆から逃げ回る様を見るのは痛快だった。
「どうして、正隆から逃げ回っているの?」
後ろを向いて訊ねると、困ったように眉根を寄せた。
「ね、モモちゃんの好きなタイプは?」
重ねて問えば、ますます困ったような顔になる。
「……あのね……」
と口ごもりながら教えてくれたことは、世間知らずの俺に少なからぬ衝撃を与えるものだった。
モモの家が母子家庭だということは何となく知っていたが、母親が病弱で、モモがバイトをしないと学校の授業料さえ払えないほど貧乏だとは、夢にも思わなかった。
そう言えば、入学以来、彼女の成績は下がりっぱなしだ。
授業中に背後から寝息が聞こえてきたりして、真面目そうに見えるわりには、遊んでいるのかなと思ったこともある。
「私、可愛くないし、成績も悪いし、全然もてないし……」
そこまで言った所で、モモは怯えた表情で立ち上がり、荷物を両手で抱え上げた。
「どうしたの?」
「バイトがあるから、もう行くね。話を聞いてくれてありがとう」
あわてて伸ばした手をすり抜けて、モモは小さく微笑んだ。
そのままくるりと背を向けて、逃げるような勢いで教室から出て行った。
逃げるようなではなく、本当に逃げたのだと気付いたのは、その直後だった。
何気なく振り返ると、正隆が暗い顔をして立っていた。
「何でそんなに親しいんだ?」
「同じクラスだからじゃないか? 席も前後ろだし……それより、お前、本人の知らない所で陰湿な裏工作をするのはやめろよ」
「陰湿な裏工作?」
中庭のベンチに腰掛けたまま、正隆が不本意そうに眼鏡のブリッチを持ち上げたので、そのしぐさに対抗するように、俺は髪をかきあげた。
「山田モモに告白しようとした他校の男子生徒が半殺しの目にあって、病院に運ばれたなんて噂がまことしやかに流れている。山田に片思いの男が、山田に近づくやつをボコボコにして回っているなんて、お前らしからぬ低レベルのシナリオだ。他の男を寄せ付けたくないのなら、自分の名前を出せばいい。伊集院正隆が相手だと知れば、誰も近づきやしないさ」
「それは光栄だ」
皮肉な口調で呟いて、正隆は空を仰ぎ見た。
端正な横顔が、いつになく憂いを帯びている。
最初はおもしろがって見ていた俺も、だんだんと重苦しい気持ちになってきていた。
山田モモは確かに可愛いが、逃げる相手を追いかけるなんて、この男には似合わない。
五月に実施された中間考査はパーフェクト。
部活に入ってないくせに、野球、剣道、サッカー、陸上、テニスなど、試合があるたびに借り出され、驚くような好成績をあげている。
今や正隆は女生徒の憧れのまとだ。
もっと言えば、全校生徒の羨望と、全教師の期待を一身に背負ったまま、顔色一つ変えずにトップにあり続けることのできる天才だ。
それが、なぜ……。
「もう、やめてしまえよ」
いやだというように正隆は首を横に振り、力なく微笑んだ。
「山田が俺から逃げ回っていた理由がわかった。壊した眼鏡の弁償代が払えないらしい。そのことをすごく気にしていて、少しずつでも払うから金額を教えて欲しいと言われて……俺は……」
正隆は額に手を当てて俯いた。
「俺の彼女になれば、弁償は帳消しにしてやると……」
「そんなことを言ったのか? それで、彼女は?」
「絶対にいやだって……」
「は、ははははっ、一刀両断だ!」
笑いながら、俯く正隆の肩を抱き寄せた。
何をとっても完璧な男が、一人の平凡な女の子にこれほど振り回されるなんて!
「そうか、わかったよ、俺はお前に協力するよ。そうだな、まずは手始めに……」
日日新聞をとるようにと告げると、正隆は妙な顔をしたが、そのわけを告げると顔色を変えた。
自分の同級生が、しかも自分の好きな女の子が、毎朝新聞配達をしているなんて信じられないと言うのだが。
「嘘だろ?」
「嘘だと思うなら、騙されたと思って、門の前に立っていろよ」
冗談っぽくウインクすると、正隆は深刻な表情でうなずいた。